学習通信031203
◎学習と働きかけA……わかんなぁ〜い ということ。
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「いまどきの子ども」をどう教えるか
千浪 いまの子はすぐに「できない」と言います。楽器でもそうですね、楽器を持ったらすぐにバーツと弾けると思っている。楽器を持って指を押さえますが、指もある程度運動性の問題なので訓練しなければ速く動かしたりすることはできない。でも、私が弾いていると、「そういうふうに弾けないんです」と言うんです。
「あたりまえでしょう、二〇年以上やっているのよ」と生徒に言い返しますが、「動かなーい」と言うので、「それは動かないよ、それを動かすようにするのが練習よ」と言いますが、その練習も一カ月ぐらいやっていたら、バラバラツと動くようになると思っている。「もっともっとやらなければいけないのよ」というと、「へええ、疲れちゃう」とか、すぐ「疲れる」「しんどい」。とにかく「できない」ということをすぐに言います。
以前はできなくてもそんなことは口にしない。父ともこれはよく話していたのですが、エチュードでもできなかったらできないなりにそのままもってくるのですが、いまの子はすぐいいわけをする。
一、二回弾いてみてできないと決めるのが最近の傾向です。できなかったら何が何でもやる、何かを返上してでもやるという忍耐がいまはないのかなという話をしていました。
上野 社会全体の風潮なんですかね。以前よく東海先生は、「女の子を教えるときはおだてて教えなければだめだけれども、男の子をおだてたら先生のほうがバカにされるから、絶対おだててはいけない」とおっしゃっていたのですが、いまは大学生をみていてもおだてないとだめですよね。
千浪 父が最近よく言っていましたが、「最近の子はおだてりや図に乗る、怒りや泣く」(笑)。だから技術を教えるのが難しい。技術を習得するのも忍耐が必要ですから、合奏だったら来るけど、「今度は個人レッスンだよ」と言ったら来ないとか。合奏の場合は、まわりが自分と同じパートを弾いていますから、弾ける気分になっちゃうんですね。
上野 たしかに弾いた気になりますね。
千浪 でも、それである程度弾けるんだという気分にさせていかないと、技術を教えるのは難しいかもしれない。いまの子は、私も大学のオーケストラを教えに行って、「先生、これできないんです」。「じや、どういうふうに練習した?」ときくと、「何回か弾きました」「何回って何回?」、「五、六回ぐらい」なんて言います。「指で数えるぐらいだったらだめだね。とにかく一〇〇回弾いてみたら」と言うのですが。
私もよく父に言われたのです。一〇〇回弾いてできなかったら二〇〇回。でも、二〇〇回弾いてもできないのだったら、練習方法を変えるとか、何かを変えてやってみる。でも、まず最近の子は、二、三回弾いてできなかったら「できません」とすぐに先生に聞きに行く。聞いてわかるのかといったら、これはわからないのです。
上野 いまの大学生の話を聞いているのと一緒ですよ。まったくそのとおりです。
千浪 「先生、うまくなる近道って何ですか」と聞きにくる(笑)。「うまくなる近道は、練習することじやないの」と答えましたけど……。あるどこかのパッセージが弾けないなら、ゆっくり弾いてみる。でも弾けない、ではリズムを変えてみる、などいろいろと自分の独自の練習方法を考えることがいちばん大切だと思う。もし近道なんてものがあるんだったら、全員がプロになる。そういうことを考えている時間があるのなら練習すれば、と言うんです。
父に「そういうことを言ってくる子がいるんだよね」と言ったら、「いまの子はすぐに楽な方法、楽な方法を考えようとする。結局それはもしかしたら勉強でも、塾なんかで全部教え込まれて、まず教えてもらってそれを暗記するというふうになっているからだろう」と言っていました。
小学生が合宿などで話していることばもすごく難しくて、『広辞苑』を引かないとわからないようなものをバッと使うんですが、「それ、どういう意味?」と聞いても、辞書どおりの答えが返ってくるだけで、「じやそれどういう場合に使うの?」と聞くと、もう答えられない。それで、すぐに教えてもらうのを待っている。
これとこれをこういうふうにしていらっしゃい、というのは完壁にクリアしてきても、ではそこで応用、リズムをちょっと変えてやってごらん、と言ったらまったくできないというのがある。できないときに、「いや、僕、これ苦手なんです」と、すぐ自分の苦手にしてしまう。
上野 苦手をつくるのはだめだとよく言われましたね。
千浪 最近、ことばで自分を決めつけてしまうというのがよくある。
上野 話を聴いていると、それはいまの大学生とまったく同じですね。
千浪 父は「そういう子たちはひとつのものの考え方しかできないから」と言っていました。曲をバッと弾いて、「これ覚えてらっしゃい」というと、何が何でも覚えてくるらしいのです。でも「それ三楽章から弾いてみて」といったら、絶対弾けない。いつも一楽章からしか弾いてないから、決まりきったことしかできない。
音階を弾いて、「それを三番目のところから弾いてみろ」というと、もうそこでパニックになってしまうらしいのです。音階はハ長調でドから始まるのだったらドからしか弾けない。そこからだといくらでも早くできる。三つ目といったら、エッという感じで、柔軟性がない。
上野 結局自分の頭で考えられなくなっているんですね。そういうときはどうされるのです
千浪 そういうときは「それだとぜんぜんわかってないな」と言うと、この子たちは「わかってない」と言われることにいちばん打撃を受けますから、今度は一つずつから練習していくんですって。そういうことではなく、もっと柔軟性を持てということなんですけれど。それで、とっさの判断で初めての曲、初見をやらせるとか、いろいろと課題を与えてみるようにしています。けれども準備はいつもしてくるのですが、与えられた課題だけをやっている。
上野 マニュアルどおりのことだけをやっている。まさにいまの世の風潮ですね、変わりようがないのでしょうけれど。そういう意味では、最近になればなるほど教え方にいろいろ工夫をしなければいけない。大変になってきていますね。
千浪 その意味でもいろいろな教材を使うことを考えたり、違う楽器の曲をあえてやってみたり、あるいは、そういう子どもは止まってしまうと次が考えられないので、まずはまちがえても何でもいいからひとつのものを作り上げるようにしたりします。
そういう子の場合、じっくり作り上げるときもあるけれども、とにかくたくさんの量をこれだけやりなさいとバーンと渡してしまって一度パニックにさせたり、いま弾いている曲じゃなくて前の前に終わったのを抜き打ちのように「ちょっと弾いてみて」と弾かせたり、いつも何がくるかわからないという状態にしたりするなど、いろいろ工夫しています。
上野 そういう工夫は、いまの先生たちにずいぶん参考になると思います。でも教えるほうにも実力がないと、そこができないですね。
千浪 ひとつのことしか考えない子というのは、注意をすると、言ったときすぐに直るんです。でも、また次のことを言うと前のことを忘れてしまう。それで前に言ったことをもう一度言うと、初めてみたいにうんうんと聴いているのです。そういうとき、その場は知らないふりをしていることもあれば、「それいつも言っているぞ」とか、「前も言ったぞ」とか言うこともあります。
(大野・上野著「学力があぶない」岩波新書 p40-45)
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地球上にはさまざまな風土がある。そしてそれらの風土における温度はさまざまである。極に近づくにしたがって季節の変化はしだいにいちじるしくなる。物体はすべて冷たいところでは収縮し、熱にあえば膨脹する。この作用は液体においていっそうよく測定され、とくにアルコール性の液体ではっきりとわかる。温度計はそれを利用してつくられている。
風は人の面をうつ。空気はだからある種の物質、流体である。人はそれを見る手段をもたないが、感じることができる。コップをさかさまにして水のなかに入れても、空気が出ていく隙間を残さなけれは、水はコップをみたすことができない。
空気にはだから抵抗がある。さらにコップを水の中に押しこむと、水は空気のある空間にはいっていくが、完全にその空間をみたすことができない。空気はだからある程度まで圧縮することができる。風船に圧縮した空気をみたすと、ほかのどんな物質をみたしたときよりもよくはずむ。空気はだから弾性体だ。
浴槽のなかで横になって腕を水の外に水平にもちあげていると、腕にひどい重さがかかっていることを感じる。空気はだから重さのある物質だ。空気とほかの流体とを均衡状態におくことによって、この重さをはかることができる。
晴雨計、サイフォン、空気銃、空気ポンプはそれを利用してつくられる。静力学および水力学の法則はすべて、まったく同じょうな大ざっぱな実験によってみいだされる。すべてこういったことでなにかするのに物理実験室にはいることをわたしは望まない。
わたしはそういうところにある器具や器械設備はみんなきらいだ。学問的な空気は学問を殺す。そういう器械はすべて子どもをおびえさせる。それとも、それらの形は子どもがそれらの作用にむけるべき注意をなかばひきつけることになるか、全然うばいさってしまうことになる。
わたしは、わたしたちの器械をすべてわたしたちの手でつくることにしたい。それにわたしは、実験をやるまえにまず器械をつくるようなことはしたくない。そうではなく、ほとんど偶然に実験をはじめてみたあとで、それを検証する器械をすこしずつつくりだしていくことにしたい。
わたしたちの器械はそれほど完全でも精密でもなくていい、それがどういうものであるべきかについて、また、そこから生じる作用について、わたしたちがいっそう明確な観念をもっていればいいと思う。
静力学の最初の授業のために、わたしは秤をさがしにいくようなことはしないで、椅子の背に一木の棒を横におき、均衡状態にある棒の二つの部分の長さをはかる。両端に、あるいはひとしい、あるいはひとしくない重さをくわえる。
そして、必要なだけ棒をひっばったり、おしやったりして、ついに、均衡は重量と竿の長さとの相関的な比率から生まれることをみいだす。ここでわたしの小物理学者は、秤など見たこともないうちに、もうそれを補正することができるようになる。
こんなふうに自分から学ぶことについては、他人に教えられて知ることについてよりも、疑いもなく、いっそう明確な観念をもつことになる。それに、理性を卑屈にして権威に服従することになれさせるようなことにならないばかりでなく、いろいろな関連をみいだしたり、観念をむすびつけたり、道具をつくりだしたりすることにいっそうたくみになる。
ところが、すべてそういうことをあたえられるがままにとりいれていると、わたしたちの精神はなまけぐせがついてしまう。いつも召使いの手をかりて服を着、靴をはき、用をたし、馬車で運ばれていく人の体がやがては力をなくし、手足がつかえなくなってしまうのと同じことだ。ポワローは苦労して詩をつくることをラシーヌに教えたと誇っていた。
学問の研究を簡略にするすばらしい方法はいろいろとあるようだが、努力して学ぶ方法をだれか教えてくれることがわたしたちには大いに必要なのではあるまいか。
時間がかかって骨の折れるそうした研究法のなによりもいちじるしい長所は、理論的な研究をしているあいだにも、いつも体を活動状態におき、手足をしなやかにし、たえず手を労働と人間にとって有益なもちいかたにむくようにつくりあげていくことだ。
実験においてわたしたちを導き、感官の正確さに代わるものとなるためにつくりだされた多くの道具は、感官の訓練をなおざりにさせる。測角器は角の大きさを推定する必要をなくさせる。正確に距離をはかっていた目は、目に代わって距離をはかってくれる測鎖(そくさ)に仕事をまかせることになる。
天秤はそれをつかえばわかる重さを手で判断することを不必要にする。わたしたちの道具が巧妙になればなるほど、わたしたちの器官は粗雑になり不器用になる。身のまわりにやたらに器械を寄せ集めているうちに、わたしたちは自分のうちに器械をみいだせなくなってくる。
ところが、そういう器械をつくるために器械のかわりをつとめていた技能をもちい、器械なしですませるために必要だった頭を器械をつくるためにつかうことにすれば、わたしたちはなに一つ失うことなしに得をすることになり、自然に技術をつけくわえ、まえより不器用にならずに、いっそう利巧になれる。
子どもをたえず毒物のうえにかがみこませておくようなことはしないで、工作場で勉強させることにすれば、子どもの手は精神のためになるようにはたらく。子どもは哲学者になりながら、自分は労働者にすぎないと思っている。さらに、こういう訓練には別の効用がある。それについてはすぐあとで述べるが、そこで、どんなふうに人は哲学の遊戯から人間のほんとうの職能へと高められるか見ることになるだろう。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p306-309)
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すべてはじめはむずかしい〔ドイツの諺〕ということは、どの科学にもあてはまる。
だから、第一章、ことに商品の分析を収める節〔本書の第一章にあたる〕の理解は、もっとも困難であろう。さらに立ち入って、価値実体と価値の大きさとの分析にかんして言うなら、私はその分析をできる限り平易にした。
価値形態──その完成した姿態が貨幣形態である──は、きわめて没内容的であり簡単である。
とはいえ、人間精神は二〇〇〇年以上も前から、これを解明しようとして果たさなかったのであるが、他方、これよりはるかに内容豊富で複雑な諸形態の分析には、少なくともほぼ成功した。
なぜか? 発育した身体は身体細胞よりも研究しやすいからである。そのうえ、経済的諸形態の分析にさいしては、顕微鏡も化学的試薬も役に立ちえない。抽象力が両者に取って代わらなければならない。
ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が経済的な細胞形態である。素養のない者にとっては、この形態の分析はただいたずらに細かいせんさくをやっているように見える。
この場合には実際細かいせんさくが肝要なのであるが、それはまさに、顕微解剖学でそのようなせんさくが肝要であるのと同じことである。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p7-8)
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◎努力して学ぶ方法をだれか教えてくれることが……。経験もなく学びもしてないで即座にわかった≠ニ、連発する仲間がいます。もっと反省≠オて獲得してほしいものです。
わかった≠ニいわなければ前にすすめない、と思い込んでいるのではないでしょうか。