学習通信031124
◎「本当の幸せ……この世の中じゃ真の幸せなんて見つからないよ。」
 
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 大学生(一九)と女子高校生の少女(一六)が一日、大阪府河内長野市で起こした家族殺傷事件。少女はインターネットのホームページ(HP)に自傷〃写実を掲載し、自殺願望を語っていました。仮想世界から飛び出して、死のふちをひた走る子どもたちをどう受け止めたらいいのか──。 三浦 誠記者
 
 「少女はスカートが短いとかではなく、学校案内のパンフレットに出てくるようなかっこうだった。頭のいい子で、本当に驚いた」
 少女の知人は、事件の衝撃をそう語ります。
 少女の両親はともに教員で妹がいました。「件の良い親子でしたが…信じられない」とこの知人はいいます。
 
「幸せ」どこに
 
 しかし、少女には周囲にはわからない、もう一つの顔≠ェありました。その顔≠ヘホームページに出ています。
 少女はホームページ上で中学二年生の時に初めて自殺未遂をした、とさらっと記述。白傷行為を事もなげにつづっています。手首を刃物で切り、血が出ている写真も掲載しています。
 
 事件を起こした大学生とは、親同士が知り合いでした。大学生にも自殺願望≠ェありました。
 少女のホームページには大学生とのことを書いたと思われる詩が出ています。題は「破滅への恋路」です。
 
 「別れるよりは 二人で死んでしまいましょう一緒に生きる相手では無く 貴方は一緒に死ねる相手で在るから 愛しています とても」 死″が色濃く出ています。
 
 事件直前の十月二十六日に書かれた「幸福論」にはこうあります。
 「本当の幸せとは何か…この世の中じゃ真の幸せなんて見つからないよ。生きることなんかに精一杯じゃあ、とても無理ね…薄っぺらいこの世では、とても見つからないであろう。『幸せ』という幻想。でも、あるところにはある」
 
 この世に幸せは見つからないけど、どこかにあるんだ──「本当の幸せ」を探して苦もんする少女の心を反映しているかのようです。
 少女は大阪府警に「(大学生)以外、だれも自分のことを分かってくれなかった」と供述しています。
 
 家裁調査官だった浅川道雄さんは、少女のホームページからその心理をこう読み解きます。
 「少女は自分の幸せを探そうといじらしいほど一生懸命考え、あがいた。思春期で自分探し≠している最中だった。しかし、少女をわかってくれる人間が大学生以外にいなかった。『死』に共鳴する大学生に会って『死』への衝動が増幅されたのでしょう。もし、前向きに受け止める人間と少女が出会っていたら、と残念に思います。彼女はもっと豊かに成長したと思う」
(しんぶん赤旗 日曜版 031123 新シリーズ 現代と子ども事情 )
 
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幸福の感覚
 
 幸福というものについて、おそらく人間は永久に考えるだろうと思う。いろんな時代がこれから人類の歴史にもたらされて、その内容は、きょう生きている私たちの文明の程度では予想もしなかったようなものにもなるだろう。そういう時代が来ても、人間はやはり幸福ということについて考えることをやめまい。
 
 けれども、現在女の幸福という特別の関心でふれられている女にとっての幸福の問題はどうなるであろうか。別のいいかたでそれを表現すれば、今日の女が歴史のゆがみのおかげで、社会的な条件のうちにもっている女であるための不便不幸、女の心そのもののうちに、そういう条件の反映がつもりつもつた結果として付着しているさまざまのつまらない、あじきないものは、未来の文化のなかで、どんな具合に解決されてゆくだろうか、ということである。
 
 いずれ永いジグザグの道を経た上でのことだろうが、女の幸福の問題はやがてしだいにその局部的な、しかしきわめてその社会の基本的なありようと関係しあった特殊性を高めひろげ、揚棄していって、いつかは人間の幸福についての具体的な条件の一つとして、女の幸福が扱われるようになってくるだろうと考えられる。
 
現在でのように、どっちかというといつも男対女のいきさつの形で、女の側からの女の幸福の探求がもち出されてくるような社会の時代的な性格に変化が生じて、男も人間の幸福ということを考えれば、女の幸福がその不可欠の条件であることを常識として身につけて、いわばもっとも直接な男の幸福問題として女の幸福も増す方向に動くようになってくるだろうということだけは確かに予見できる。
 
 日本のような社会の伝習のなかでは、現在まだ男の幸福は、女として女が求めている幸福への条件を承認しないことで守られている部分もあるというような、哀れな危なっかしい状態に置かれている。男も女も、互いの幸福については、互いは自身の冒険として見なければならない状態である。つまり、人間としての合理的な幸福は、まだそんな低い、偶然にかけられている未熟な粗野な社会であるともいえるのである。
 
 いまのところ、女の幸福がしきりにいわれる歴史の根拠は、そのような意味で架空なものではないのだが、さて、幸福というものを私たちはどう考えあるいは感じているのだろう。
 
 折々座談会などでそういう話題になったとき一番困惑するのは、現代の人間はまだ幸福というものをきわめて固定したものとして扱っているという点である。とくに女のひとは、どういうものか幸福、不幸という二つの漠然とした、しかも抜くことのできない観念を心のどこかに植えつけられている。そして、不幸になるまいと絶えず警戒しつつ、本体が何かということは自分の心にもはっきり感じられていない幸福を追っているように見える。
 
 幸福というものを固定した観念で鋳(い)りつけて、そういうものを求める生活の態度は大変人間の知恵のおくれた部分のあらわれであるということが一般にはなかなか納得できない。だって人間は昔から幸福を求めてきたではないか。ギリシア神話にある「金毛羊」の物語にしろ、メーテルリンクの「青い鳥」をもとめて旅立ったチルチル、ミチルの物語にしろ、求めるものは幸福であるという人間性を象徴した物語ではないか。
 
だもの、きょうの、私たちの心から、どうして「青い鳥」の幻が消えていよう、と抗議も出されそうである。そして、人生のある程度の経験から幸福について話すように一座に招かれた男女たちも、いつしか、幸福という二つの文字を互いの間にやりとりしながら、目に見えないものを見えるように示そうと努力しながらついにたいていの場合不成功に終わっている。
 
幸福というものが、あっちからこつちからつつかれ、吟味され、論議されていることはまざまざとうけとれるが、さて幸福の愛らしく全い姿はどこにも描き出されていないことが多い。語る人々もいつの間にやら、幸福の二字が身のまわりにもちきたっている観念の妖術にかかってしまうことが多い。
 
第三者は、それらの検討や分析やらを見て、ああ何と熱心にいじられていることだろう!けれども、ここに幸福の輝きは盗れていないと、さらにいっそうゆくえさだかならぬ自身の幸福への模索に踏み出すのである。
 
 人間の文明がおさなければおさないほど、自然界と人間社会とのできごとを単純な観念で固定させてきたことは、今日までの歴史に面白く伝えられている。たとえば中世の人間は、地球はひらったい台のようなもので、その両端には地獄があると考えていた。
 
地獄へおちる恐怖という宗教からの恐怖と、科学の未発達からおこった未知の世界への暗い恐怖という動物的な恐怖とを一つにして、地のはてというものに対する恐怖を神聖なものとして守っていた。星を観測して地動説をとなえたガリレイが、そういう固定観念にぶつかって、生命の危険におびやかされたことを、今日の若い娘たちは、あらまアと彼のために同情し、当時の権力の暗愚を憐(あわれ)みまた笑うだろう。
 
──略──
 幸福というような、人間の社会生活の環境から生まれた一つの観念は、そのような人間精神の活動の結果もたらされたひろまりにつれて、はたしてどのくらい進歩してきているだろうか。
 
 天国地獄、地獄極楽という観念の絵草紙が幸福の模様としてきめられていた時代、人々はぴんからきりまでのいとわしく苦しいものを日々の現実から抽象して地獄へあてはめ、ぴんからきりまでの望ましいものをあつめて天国の構造とした。
 
そこへ幸福の観念を固定させたのだが、それに対して、いつの時代にも生存した特別に心情の活発なある種の人々は、皮肉に人生のありのままを感じ、観察していて、たとえばイタリアのボッカチオという詩人は坊主くさくかためた天国地獄の絵図を、きわめてリアルに機知的に風刺し、破壊しようとしている。「デカメロン」の本質はそういうものであった。
 
 十九世紀の目ざましい科学の進歩は、人間の幸福について、それを可能にしまた不可能にする社会の条件を考慮に入れるべきことを知らせた。これは社会的に生きる人類の幸福を問題とする現実的な幸福探求の道程にとっては、実に画期的な発展であった。
 
人間が社会以外のところに生存しないものであるという生存の条件へのはっきりした理解は、社会と個人とのいきさつの研究の間に幸福の課題をもといてゆこうとする根本的な方向を決定したのである。
 
 そうきくと、私たちの心にまた別な疑問がおこってきはしまいか。そんなにはっきり幸福の具体的な解決が社会と個人とのいきさつの間に、その社会全体の進歩において見出されると分かっているのなら、なぜ人間はさっさと万偉人の希望であるその幸福をうち立ててゆくために全力をつくし合わないのだろうか、と。
 
 私たちが近頃目撃する現代の世界の状態は、人間にそういう幸福への共通な希望と解決の方向がわかっているにしては、まるで逆を行っているように思える。その逆もあんまり逆だといいたいほどでさえある。人類の誇りである知恵さえ、玲瓏無垢(れいろうむく)な幸福をつくるために役立てられるというより、死力をつくして黒煙を噴き出し火熱をやきつかせるために駆使されているようではないか。
 
 目前の凄まじい有様にきもをひやされて、人々は、これらの現実の中に幸福はないと結論し、その結論をさらにひろめて、社会と個人のいきさつを、社会全体の進歩の中に見てそこに幸福をうち立ててゆくというような考えかたの方向は現実に即していないという気持になりがちである。
 
そして、自分にとって一番つかみやすい、一番たやすい、今日の自分だけの暮らしの現実を小さく肯定するに一番便利ななにかの手がかりとなる観念に幸福というものの内容をゆだねて、それで簡単にかためてしまいがちである。
 
世のなかの複雑な動きのあやから眼をはなさず、そのあやに織り込まれている自分の一生の意味を理解するところにいいつくせない面白さをも見出して生きてゆこうとはせず、動的な現象事象から離れたどこかに、いわゆる久遠の幸福を感じようとする。
 
だから、幸福とはどういうものかという問いに答える人々の言葉は実に区々で、ある人は幸福とは各人の主観でだけ感じられる一つの心境であるというし、他のある人は最低限の衣食が足っていれば幸福であるとし、第三のひとは、健康こそ幸福であるというであろう。神の恩寵(おんちょう)を感謝する心という宗教の心を、幸福の内容としている人もある。
 
 この現象から、よく人は、幸福は本人が幸福と思うことのうちにのみあるもので、それがなにの中にあるかということは問題にする必要はない、という。
 
 ところで幸福というものはいったい私たちの生活にどんな形で存在しているものなのだろう。幸福は普通私たちに感情として湧いてくる。幸福感という表現がある。心情的な感じであるから、それは固定したものではなくて、私たちの日常のあれこれをかいくぐって流動しているものである。今感じられた幸福感も三時間のちには消されるということもある。何によってそれは導き出され、消されるだろうか。
 
自分の内と外とのあらゆる生活要素のあらゆる角度からの接触のあらゆる刻々の移り動きが、私たちの幸福感を誘い出し、また追放するのだと思う。そして、私たちの生活の諸要素は、誰しもよく知っているとおりめぐりあった社会の歴史として時代性をもつているし、個人的な条件としての境遇や性格なども、その複雑な要素をなしている。
 
複雑なそれらの要素は夜も昼も停止することのない生活の波の上に動いているわけで、私たちはその動きやまない生命の閃光(せんこう)のようにおりおりの幸福感を心の底深くに感じる。だけれども、その感じはだいたい感覚の本性にしたがって、ある噂が経てば消える。
 
 この動的な生活感情の明暗の推移を、昔の日本人は、人間の心のはかなさと見た。現代の人はそうは見ていない。しかし、感覚的なものとして過ぎてゆく性質の幸福感が、何かそのひとの生活力の一部にまで摂取され、何かその人をささえる生活上の確固とした力となり、精神に精彩を与えるものとなるには、ただ湧いたり消えたりする幸福感ばかりを追って、その条件を作ろうとせわしく眼を配っていて求め得られることではない。それは明らかであると思う。
 
 私たちが、人間として生活の糧となるような幸福感を見出そうと思えば、日常生活の刻々に湧いたり消えたりする幸福感そのものを、さらに生活の悲しみや苦しみと一緒にひっくるめて感じてゆく、ひろくゆたかな雄々しい心情がなければならないというのは、何と興味ある点だろう。
 
 つよくよろこぶ心、つよく悲しむ心、つよく憤ることのできる心、そういう心は豊かな心である。そういう心は幸福感もつよく感じるが、その幸福感のそこなわれる感じもきつく受けるであろう。真のゆたかにつよい心は、自分のよろこびの感情も、悲しみの感情も、悲しみは幸福でない感情の面だからいやだときりすてず、そのよろこびをかみしめて味わい、悲しみをかみしめて心に味わうことから、やがて、自分の心がよろこび悲しむ人間生活のさまざまのいきさつの面白さを理解するところにまで到達する。
 
 代々の人間がそれぞれの時代と環境の中で、常によりましな生活を求めて生きていて、その過程で敗北し、成就し、自分もそのうちにまぎれもない一人であるということの避けがたい辛さとともにある否定できない面白さ。幸福というものが、案外にも活気横溢したもので、たとえて見れば船の舳(へさき)がなみをしのいで前進してゆく、そのときの困難ではあるが快さに似たものだといったら昼寝の子猫のような姿を幸福に与えようとしている人たちは非常にびっくりするだろうか。
 
 人生に何か一定の態度をもって生きている人たちが、幸福をどこかでしっかり感得しているように見えるのは、以上のような理由によるのだと思われる。現代の生活は複雑で、幸福もそれをこわす条件も、四方八方のつながりのうちに生かされて変化を受けつつあるのだから、今日私たちが、現実の前で膝をついた形でなく、現実の上に美しく健気に立った形としての幸福を獲ようとすれば、自分の生まれ合わせた社会と自分とについてのきわめて広い明晰(めいせき)な把握がなくてはならなくなってきている。
 
自分たちの不幸を底まで理解して、それを堅忍し、克服してゆく気迫がなければ、幸福感を味わうことができにくい時代にきているのである。破壊の行なわれているときにもやはり人類の幸福のために続けられている努力があって、それはどこにどんなに行なわれているかということを見きわめる力が求められてきているのである。
 
 若い女のひとは、どっさりいろいろの文学作品を読んでいる。彼女たちは、どんなふうに文学を読むのであろうか。女のひとが、とくに幸福というものを何か波瀾(はらん)のそとのもの、悲しみの外のものと固定させた形で追求していることについて疑問が生じたとき、私の心にひきつづいて起こった問いはそれであった。
 
女のひとはどんなに文学を読むのだろうか、と。なぜなら本当のいい文学の作品は、その作品の世界でけっして筋を運んでいるばかりではなく、きっと、ある条件とのいきさつの間で人間がどんなふうに生きたかという、その心と肉体との過程を描き出しているものである。
 
偶然な街上のできごとで生じた人と人との間の波瀾がどう納まったかという話ではなくて、ある性格と性格との組み合わせとその背後にある社会の事情などから、どんな必然の緊迫した経過が生じてきたか、たとえば「アンナ・カレーニナ」は、このことをはっきり誰にも分からせると思う。
 
 この小説は一編のまぎれない悲劇である。アンナの不幸を目にも心にもまざまざと描きつくした悲劇であるにかかわらず、私たちがそれを読んでいるときに受ける感動は美しくて、その震撼(しんかん)には不思議な甘美さがこめられている。
 
この芸術の秘密は何だろう。すべてのすぐれた文学が、悲劇でさえも、その悲しみのうちに高鳴る一種微妙な実の感覚をつらぬかせていて、与えられるその感動で人が慰謝されるというのは、どういうことなのだろう。
 
 芸術が、現実生活から生まれるものであって、しかも現実のひきうつしではないという本来の性質が思い浮かべられる。芸術家は現実を見とおすことで、現実のあれこれに動かされつつ、なおそれに追いまくられず、それを人間の多種多様な生の姿として精神のうちに統率する力をもつている。そのような現実のただ中に真直に立っている精神の力が、悲劇のうちにもそれが人間生活の真実に迫ったものであるところからの美と、何ともいえない感銘をとらえて再現してくるのである。
 
 どんな人でも、たとえば「アンナ・カレーニナ」の世界に抵抗して、これは幸福をかいていないからいやだというようなことはしない、と思われる。アンナの悲しい生涯の最後のピリオドまでついてゆくと思う。すなわち一人の女の生の過程をともにたどるわけで、一番しまいに、ああと巻を閉じたとき、やがてまたもう一遍パラパラと貢をめくりかえさずにはいられない感動が心に鳴っているとき、アンナを通して印象された悲劇のなかにも輝く美の感じが、幸福と呼びならわされている感覚に通じる性質のものであることを感じとらないとすれば、随分残念なことだと思う。
 
 文学は筋をよむものでもないはずといったわけは、ここのところにこそかかっている。文学のすぐれた作品こそ、悲劇の感動のうちにもなお美や慰めをこめている自身の生活の力で、私たちに幸福の最高のありようの典型を示している。人間生活のある場面では、低い形での幸福の外見が破壊されても、その過程の人間生活としての意味がはっきりそのひとの精神に統率されているときには、そこに一つの美としての幸福が脈動していることもあり得ることを示しているのである。
 
 幸福感というものの高い質は、主我的な飽満の感覚、満喫感と同じでないというのも面白い事実である。むしろ美の感覚を通じたものであることは、尽きぬ暗示をふくんでいると思う。美が固定した静的なものでなければならないという今日の若い女のひとはすくないであろう。美において動きと対照と破調と統一とを理解している心情が、幸福という言葉を、そのいきいきとして積極的なはずの実の感覚でとらえる力をもつていないとすれば、そこにはどういう日本の女の生活的な未熟さが語られているのであろう。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本出版社 p42-53)
 
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◎「自分たちの不幸を底まで理解して、それを堅忍し、克服してゆく気迫がなければ、幸福感を味わうことができにくい時代」……。幸福とはなにか学習通信031111 と重ねて学びましょう。