学習通信031123
◎学ぶということ……問題意識だけがあって知識がないとすれは、それは「危ない」ことになります。
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なぜ「思うこと」が必要なのか
しかし、孔子は、そのうえで「思わなければダメだ」と言っています。それでは「思う」ことと「学ぶ」こととは、どのような関係にあるのでしょう。そして、そもそも「思う」こととは、どういうことなのでしょう。
私は、孔子が言いたかったのは、次のようなことだと思うのです。各人がなにか「これが問題だ」と思うことを持っていて、自分の頭で考えてその解決法を求めているときに、実際にその問題を解決するためには知識が必要だから、知識を学ぶ。そういうことを言っているのだと思います。
ただそこにあるものを学ぶ、ということではありません。教師が教えてくれるから学ぶのではない。個人が自分自身で問題を考えていて、その問題を解くために知識が必要だから学ぶのです。そのとき、知識は「知的な道具」に転化されるわけで、自分の見つけた問題を、その道具を使って解こうとするのです。
「これが問題だ」と感じること、これを日本語では、「問題意識」といいます。ある問題意識が自分のなかにあり、そのことについてよく考えること、それが「思う」ことです。それは誰かに与えられたものではなくて、自分のなかから出てきた問題意識です。それがないと本当の意味でものごとを理解することにならない。だから教師が教えてくれることを学ぶだけじゃダメなんですね。学ぶだけでは、自分自身の問題を解決できないでしょう。
問題解決をするために必要なのは、まず問題を意識することです。だから、意識化された問題が自分自身のなかにあることが学ぶことの動機になります。「思うこと」と「学ぶこと」は、このように関係しているわけです。
もし「学ぶこと」が客観的な事実であるとすれば、「思うこと」は主観的な可能性の問題です。その問題を解決することは未来の可能性であり、まだ解けていないわけです。それが「問題意識」という日本語が表していることです。
これはいい言葉ですね。英語にはなりにくい、少なくとも英語では、それほど使わない言葉ですが、日本語ではよく使います。たぶんドイツ語からきているのでしょう。ドイツ語では「プロプレマティーク(PrOblematik)」という言葉を使います。ドイツ語の「プロブレム(PrOblem)」は「問題」で、「問題性」が「プロプレマティーク」です。
「思う」というのはプロプレマティークの問題、問題性の意識化、です。それがないとものごとを本当に理解したことになりません。そもそも自分で問題を持っていなくて話をただ聞いているだけでは、その知識はただ右から左へと素通りしていくだけでしょう。
試験勉強の時には覚えていても、試験が済んだら忘れてしまいます。しかし、自分の問題意識にひっかかってくることだったら、そういうことにはなりませんね。孔子が問題意識がなければ、ものごとをよく理解できないと言ったのは、おそらくそういう意味なのです。
しかし問題意識だけがあって知識がないとすれは、それは「危ない」ことになります。「危ない」とは、こういうことをしたいと思ったときに、よく考えずに突入すると、とんでもない結果を生ずることがある、ということです。それを『論語』では「殆(あやう)い」という言葉で表しているのです。
(加藤周一著「学ぶこと、思うこと」岩波ブックレットNO.586 p6-8)
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生活実感から出発する学習へ
最後にもう一人の学生Yさんを紹介したい。Yさんは、ある教員養成大学を卒業して、二年後に小学校の教師となった。卒業して教師になるまでの二年間、一年目には、その教員養成大学の専攻科の学生として「研究論文」を書き、二年目にはそれに対する「自分史」風の長い「あとがき」を長い時間かけて自主的に書き上げた。その二年間、Yさんは、私の研究室で開かれていた学生たちの研究会に参加していたので、私は彼女と出会うことになった。
Yさんの「研究論文」の長い「自分史」風の「あとがき」は、次のような文章から始まっている。
私は自分をでくのぼうみたいな人間だと思っていた。無知で科学的思考力に乏しいため、一を聴いたら一しかわからない。自分の持っている全部の知識や経験を引っ張り出し、関連づけて自分なりの解釈をし判断をすることができない。だからすぐに忘れる。意見を求められると、外に出すべきものが漠然としたまま形にならなくて、あるいは全くなかったりして顔が火照ってくる。
それでも何か言わなくてはならないときは、ポイントをつなぎあわせて要約したようなつまらない正解を言ってしまう。少しでも実感が伴っているときはまだましである。なぜかはよくわからないが、ここがなんとなくいいと思った、ここはなんとなく疑問に思ったというのが出せてせいいっぱいである。すべてがなんとなくどまりになりがちだ。
その情報にぶつかる前と後の自分の意識の変化をはっきりさせることができないため、新しい問題意識を生み出さずに終わる。したがって知識として中に取り込まれないで、はげおちる。情報は一時的に私の脳を刺激するだけのようだ。自分の意見が持てないことほどこわいことはない。それは自分が他人に吸収されるということだ。
また、持っていても自分の言葉で考えて形にする力が弱ければ、何を思っているのかという自分の意識を明らかにすることができない。それはあるがままの自分をとらえて発展させていく力が弱いということではないだろうか。
このようにYさんは、自分を「自分の頭で考えることができない」「でくのぼうのような人間」だと感じて自信がもてず、そのような自分を不安に思い、悩んできた。それは、彼女自身が「あとがき」の別の個所に書いているが、やはり「受験体制」のなかで、自分の内部に知りたい、わかりたいというはっきりした動機がないまま、また、なぜと問うことを脇においたまま「勉強」を続けてきた結果、形成された自信のなさであり不安であったように思われる。
Yさんは大学に入って、こんな自分で果たして教師になれるのかと悩んでいるうちに、岩本松子の『生活綴方の実践と理論』という本に出会った。生活綴方教育とは、子どもに生活をありのままに綴らせることを重視した、日本の教師たちが自主的に創り出してきた人間教育の試みである。生活綴方教育の流れのなかにも対立があり論争もあるが、岩本松子という人は、岐阜県の中学校教師で、生活綴方教育の三の立場を代表する実践家であり理論家でもあった。
そしてこの本には、生活をありのままに客観的に見つめ、それを綴ることによって科学的に考える力や、現実認識の力が育つという考え方と、それにもとづく実践がまとめられている。
Yさんはこの本に出会って、そこで強調されている「科学的に考える力」「現実認識の能力」こそ自分に欠けているものだと、衝撃を持って受けとめた。そして、この本を卒業論文の主要な材料としてとりあげた。ところが、この本には、次のような考え方が強固にあった。「人間の認識は客観的世界の反映であり、客観的認識を獲得するためには、なるべく主観あるいは感情を排除することが必要である」「感情と認識の関係は、認識が感情を主導する関係にある」。
この本を読み進めていったYさんは、このような考え方にぶつかった。そして、それでは、客観的・科学的に現実を認識する力が重要なのはわかるが、それを著しく欠いている自分のようなものがどうしたらその力を獲得していけるのかがわからない。そうした疑問をもつようになったのである。
しかしYさんは、その疑問を十分に掘り下げられないままに「岩本松子の生活綴方論」という卒業論文を提出して、卒業した。私はそれを読んでいないので断定できないが、この卒業論文を書く過程で、最初に紹介した「私には科学的な認識の能力がない。現実認識の能力がない。どうしたら……」という彼女の悩みと自信の無さは、むしろ深まったようであった。
彼女がはじめて私のところにやって来たときには、そうした混迷の状態にあったように見えた。そのあたりの事情を、彼女はやはり「あとがき」に次のように書いている。この文章は、私に村する過大な思いこみのようなことも記されていて恥ずかしいが、そこに、彼女が私のやっていた研究会に通いながら何を感じ考えていたかが、彼女の言葉で書かれているので紹介しておく。
思いつめた私が飛び込んでいったのが田中孝彦先生のところだった。先生のところで私は少しずつ自己肯定感を取り戻していったと思う。知的思考には言語的思考だけではなく直観やコツのような状況的思考というものがあり、それも大切な能力であることや、人間として身につけるべき広い意味での道徳的価値観も存在すること、また科学に対して道徳が全く否定されるべきではなく逆に大切であることなどを知っていった。
そしてこれはものすごい実践家だと先生が尊敬し、ほれこみ、追いかけていると紹介したのが岐阜県恵那の生活綴方教師の丹羽徳子さんだった……。
この文章にふれられている丹羽徳子とは、やはり岐阜の生活綴方教師であるが、同じ生活綴方教師といっても、岩本とは対極の位置にあるといってよいような実践者である。岩本が「主観を排して客観的に書く」ことを強調したのに村して、丹羽は、子どもたちが「自分の感じている本当の気持ちを綴る」ことを何よりも大切にした。
日本の教育実践史に関心を持っている人以外にはわかりにくいかもしれないが、この両者の力点の違いは、実は「ありのままに書く」ということをめぐつて生活綴方教育の内部で論争され続けてきた問題であり、人間の主体的な意識や認識のありようとはどういうものであるか、人間の精神生活における感情と認識との関係をどう考えるか、といった根本問題に通じているものである。
こうしてYさんは、私たちの研究会に参加して丹羽徳子という教師の実践を知り、それに対して違和感を持ちながら関心を向けはじめた。
丹羽さんの実践は正直言って初めはピンとこなかった。私にとっては生活綴方といえば岩本松子さんだったからだ。だから丹羽さんの実践に触れたとき漠然とした違和感を覚えた。しかしそれは何かちがうという直観程度のものだった。それがますます気になりだしたのは、もうひとつの私の疑問である、ありのままに書くということはいったいどういうことかについて考えはじめたからである。
そして、卒業後の一年間で、卒論で扱った岩本松子の実践と、丹羽徳子の実践とを対比させながら、「ありのままに書く」とはどういうことかをテーマとした専攻科の「研究論文」をまとめた。やはり長い「あとがき」で、彼女は、その研究論文にとりくむなかでわかってきたことを、次のようにまとめている。
私は初め、主観と客観的認識を対立させる岩本さんの立場から見て、ほんとうの気持ちを書くことに第一義をおく丹羽さんの綴方は、主情主義的で科学とは疎遠なもののようにとらえていたと思う。自分の思ったとおりを表現することと科学が結びつくのには長い時間がかかった。
岩本さんのいう、独断と偏見という意味あいの強い主観ではなく、逆に自分のかかえている問題にこだわり、真実を追求していこうというような姿勢、意欲といった主観があるということ、それが科学的認識を可能にしていくことがあるのではないかということが実感的にわかってきた。両者は矛盾の裏に統一もある関係として胸に落ちてきた。
主観を排除しないと科学的認識にいたらないという場合、その「主観」というのは「独断」とか「偏見」とかいった意味あいが強い。それはそうだが、しかしよく考えてみると、人間には、これをこそ知りたいとか、これこそこだわりたいというような、科学的な真実の探究にむかっていくような「直観」「実感」「主観」というものがある。
「主観」と「科学的認識」とを二者択一的に対立的にとらえて、「科学的認識」を「主観」の上に置くというだけではまずいのではないか。「実感」から出発して「科学的認識」にいたる、「実感」のなかにあるものを論理化していく、そういう認識方法、学習方法があり、それこそが重要なのではないか。彼女は、この 「研究論文」で、このようなことに気づいたと言っているのである。
Yさんの「研究論文」と「あとがき」は、教育の世界の生活綴方という特殊な分野の小さな対立をとりあげた論文という形をとっている。しかし私はそれを熟読して、これは、今日の多くの青年・学生たちが求めている学習論・認識論の青年自身による探究であるように感じた。今、多くの青年・学生たちは、人類が蓄積してきた科学の到達を学ばなければ自由になれないのだと言われ、立ちすくんでいるように見える。
そして、彼らは、自分たちの生活実感のなかにある問題意識の萌芽を大切にして、それを発展させる仕方で人類の基本的な課題を科学的に考えていけるような、生活実感と科学を橋渡ししていくような学習を求めている。そのことを、Yさんは、わがこととして、「研究論文」という形で表明したのではないか。そのように感じたのである。
学生たちの可能性
以上、私が一九九〇年代の前半に出会った四人の学生のことを紹介した。
私はこれらの学生につきあってきて、現代の青年・学生の世界には、相当な不安が広がり深まっていることを感じてきた。
V君とWさんの二人の場合は、幼いころからの母子関係のもつれを直接のきっかけとする感情的葛藤が積み重なって形成された重い不安をかかえていた。その背後には日本の近代化・現代化の予盾があり、女性に特別に困難を強いる今日の社会・文化の体質があった。またYさんの場合は、「自分には受験学力はあっても自分の頭で考える力がない」と感じて、自分に自信がもてないでいた。
それは今日の競争社会、進学競争の下で、「疎外」された学習の体験を積み重ねることによって強められてきた不安である。それからXさんの場合は、「就職難」など、近年の「大事件」に出くわして、これからの自分たちの人生がどうなってしまうのかという不安を強く感じていた。このように、今日の青年・学生たちのあいだには、幼い時期から蓄積されてきた不安と、近年の頻発する「大事件」の連鎖によって誘発された不安とが重なりあって、深い不安が広がっていると言えるのではないか。
しかし、これらの学生と接してきて私が感じてきたのは、それだけではない。今日の青年・学生たちのあいだには、そうした不安の広がりと表裏の関係をなして、これから自分たちが生きていくその生き方と、生きる舞台になる家族や地域や日本や地球のあり方とを重ねて考えようとする、根源的な「問い」が芽生えはじめている。
「震災」や「薬害エイズ」などの問題に関して、社会の表面に久しぶりに現れた若者たちのアクティヴな動き(これらについては第一章でふれた)は、その証拠であるように思われる。
そして、今日の青年・学生たちは、生活のなかで実感している不安や芽生える問いにこだわりながら、それを人類の基本的な課題の知的探究につなげていくような、そのような認識の発展のさせかた、学習の仕方を求めているように感じてきた。最後に紹介したYさんの「研究論文」「あとがき」は、そうした今日の著者たちが求める認識論・学習論の、彼女なりの探究であるといえるのではないかと思うのである。
今日の青年・学生の状態を以上のようにとらえられるとすると、彼らの不安を受けとめ、彼らのあいだに不安と表裏の関係をなして芽生えている根源的な問いをともに考え、自らの実感にこだわりそれを村象化しながら学びたいという彼らの要求に応えること、それが社会と大学に、とくに大学の教師に問われているということになろう。
(田中孝彦著「生き方を問う子どもたち」岩波書店 p192-201)
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◎「これは、今日の多くの青年・学生たちが求めている学習論・認識論の青年自身による探究であるように感じた。今、多くの青年・学生たちは、人類が蓄積してきた科学の到達を学ばなければ自由になれないのだと言われ、立ちすくんでいるように見える。」と。
◎そして「彼らの不安を受けとめ、彼らのあいだに不安と表裏の関係をなして芽生えている根源的な問いをともに考え、自らの実感にこだわりそれを村象化しながら学びたいという彼らの要求に応える」……労働学校の講師団、運営委員会、に問われていることです。