学習通信031121
◎失恋して、食事がのどを通らない……。
 
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 「食」のコミュニケーション機能
 
 「食」とは、「作ること」「食べること」 のみにあらず。
 いきなりそう言ったら、「え、なに?」と驚くでしょうか。「食」と聞くと私たちがまず連想するのは、「料理」と「食事」。食材をもとに、自分で作ったりだれかに作ってもらったりした料理をいただく。それが「食」ということなのだと、多くの人は思っているはずです。
 
 でも「食」にはもうひとつ、別の顔があるのです。
 それは、「コミュニケーション」です。もっとわかりやすく言えば、「人問関係」。「食」は、この「人間関係」と強く深く結びついています。たとえ、ひとりで作ってひとりで食べる食事であっても、それが「食」であるからには、どこかでだれかの記憶と結びついていたり、だれかの存在が意識されたりするのだと思います。
 
 ひとりで食べる食事のことを最近「孤食」と呼んだりしますが、「孤」というのもある意味、人との関係性を表す字です。ホテルの部屋の場合だったら「シングルルーム」「ひとり部屋」とあっさり言うのに、なぜ「食」だけ「シングル食」ではなくて「孤食」なのか。それだけ「食」が、人間関係そのものと結びついているからなのでしょう。
 
 毎日の生活の中でも、私たちはごくあたりまえに「食」をコミュニケーションや人づきあいの手段として使っています。たとえば、デートの誘いのかわりに「食事に行こう」と言ったり、落ち込んでいる同僚に「ゴハンにでも出かけない?」と励ましたり。ひと昔前のテレビドラマでは、容疑者を取り調べる刑事が「カッ丼でも食べるか?」と相手の緊張をほぐして自白を促す……という場面が、よく出てきました。
 
 コミュニケーションの機能をはたすのは、そういう特別な食事ばかりではありません。ホームドラマやCMに使われる「食卓を囲む家族」の映像は、「幸せ」の象徴。そこで特別な会話が交わされていなくても、見ている人は「ああ、楽しそうだなあ」としみじみできる。つまり、「家族いっしょに食事を取る」ということ自体がすでに、「この人たちは心が通い合っている」という関係性を意味しているのです。
 
 もちろん、「食」が伸介するのは、そういうよい関係性、幸せなコミュニケーションだけではありません。毎日を「孤食」しなければならないひとり暮らしの老人の中には、食事のたびにさびしさや不安を味わう人もいるでしょう。せっかくのデートの食事でメニューの選び方や食べ方がどうしても気に入らず、恋が冷めてしまった、という話も問きます。家族が集まっての食卓でも、すべての人の視線がテレビに集中していてひとことも会話が交わされなければ、料理を作った母親はむなしい気持ちにおそわれて、自分の人生を後悔し始めるかもしれません。
 
 たいていの場合は人と人とを結びつけ、よりハッピーな状態に持っていくのが「食」のコミュニケーションなのですが、一歩間違えば人と人とのあいだを裂き、傷つけることもあるのです。
 
 また、「食」はコミュニケーションであり人間関係であると同時に、そのときの人間関係のあり方やそこで感じるストレスが「食」に影響を与えることもあります。
 
 失恋して、食事がのどを通らない。家族とうまくいっていないので、いっしょに食卓を囲む気にならない。こういう経験を持つ人も多いでしょう。
 
 職場で同僚とうまく行かなくなってあれこれ悩んでいるうちに、あれほど好きだったお酒に手が出なくなった、という話を友人から開かされたことがありました。「こういうときこそお酒でストレス解消したいのになぁ。仕事場の悩みとお酒は直接、関係ないはずなのに、どうして噂好が変わっちゃったの?」と友人は首をひねっていましたが、だれかとのあいだに生じた悩みが突然、食欲や食行動、味覚や嗜好を変えてしまうのは、実はよくあることです。それだけ「食」は、人間関係の問題と密接に結びついているのでしょう。
(香山リカ著「「心とおなか」の相談室」生活人新書 p190-193)
 
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食事
 
 ある精神科医が「ランチメイト症候群」という最近の現象について語り、話題になったことがあった。主に女子学生や若い女性社員に多いというこの現象の特徴は、「みんなといっしょにランチを食べたい」と思うが、断られたときのことを考えると声をかける勇気が出ないというものだ。「ひとりで食べることになったらどうしよう」と不安になり、学校や会社に行けなくなってしまう例もあるとのこと。しかも最近は、若い男性の間にもこの傾向が広まりつつある、とその精神科医は述べていた。
 
 私自身、実際にこの「ランチメイト症候群」の症例に出会った経験はないが、たしかに大学の学食に行って意識して眺めてみると、ひとりで食べている学生はきわめて少ない。かといって、五人以上の団体≠ナ食べている人たちもいない。ほとんどは二人から四人くらいの少人数で、楽しそうにしゃべりながらお昼ごはんを取っている。
 
一方、職員や教員は、ひとりで食べている人もいれば、同じ部署や学科で十人くらいがひとつのテーブルに固まっている場合もある。しかも、どんなにたくさんであっても黙々と、あたかも仕事の一環のように食べ、あっという間に去って行くのが特徴。どうやら、同じ学食で「ランチを食べる」という同じ行為をしているように見えても、若い学生と職員ではその質がまったく違うようだ。
 
 この例からもわかるように、若者にとってはたとえ一回のランチであっても、それが自分の部屋ではなくて学校や職場でするものであれば、ただの食事以上の意味がそこに加わる。
 
 「何を食べたか」「どれくらいおなかいっぱいになったか」よりも、「私はこの数人と友だちなのよ」「この時間はこんな面白い話題を語り合った」という方が重要。そういえば若い女性の多い職場に配るリビング紙を編集している知人は、「うちの新聞のいちばんの需要はランチタイムの話題づくり」と話していた。
 
今の若い女性たちは、連れ立って出かけたランチタイムで話題が途切れることをとにかく恐れているので、その情報紙を見ながら「このお店、よさそうだね」「あ、この人、知ってる」などと話題つなぎをするそうなのだ。
 
 かつて、若者と食事をめぐる心のトラブルといえは「ランチメイト症候群」のまったく逆の「会食恐怖症候群」の方がポピュラーだった。これは、その名の通り、ひとりでなら外食もできるが、他人が近くにいると緊張してうまく食事ができなくなるという、自意識が先鋭になる若者ならではの行動障害。
 
彼らは、「食べている姿が格好悪いのでは」「粗相をしてしまうのでは」と他人の前で恥をかくことを恐れるあまり、自然に食べたり飲んだりができなくなってしまうのだ。これに比べれば、「友だちや同僚といっしょに食事をしたい」という「ランチメイト症候群」は深刻さが薄いようにも思えるが、そうだろうか。
 
「自分が人にどう見えているか」という「会食恐怖症侯群」の若者は、自己イメージがまがりなりにもできているからこそ、他人の視線を過剰に気にしてしまう。ところが、「だれかといっしょでなければ、話題や情報の洪水の中にいなければ不安」という「ランチメイト症候群」は、ひとりではとてもいられないほどまだ自己イメージができ上がっていない、とも考えられる。
 
 いずれにしても若者にとって、食事は「ただおなかがいっぱいになればよい」というものではない。それほ、自分が自分であることを確認するための大切な場であるのだ。それをひとりでするのか、何人かの仲間とのつながりの中でするのかが、昔と今とでは変わってきているわけだが。
 
 若者に「どう? ご飯でも」と誘うときは、大人はそのあたりのことを少しだけ意識する必要がある。おいしいものや高いものをおごるだけではなく、彼らが食事を通して「よし、今日も自分らしくいられた」と確認できるよう、会話や表情にも気を配ること。必要以上におもねることはないが、「君ならどんなメニューを選ぶ?」「君はおいしいと思う?」と、相手の意志や感情をちょっと確認してあげるようにする。
 
このことを忘れ、ただ「今日は一流店に連れて行ってやるぞ」といった誘い方をして、一方的に蘊蓄(うんちく)をかたむければ、「この人、食事の意味も私がいる意味もわかっていない」と思われてしまうだけだろう。(香山リカ著「若者法則」岩波新書 p60-63)
 
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 私は、教育についての研究をはじめて以来、今日にいたるまで、教育思想の研究を自分自身の専門領域としてきた。
 
 日本の創造的な唯物論哲学者であった戸坂潤は、哲学は、思想の歴史の研究を含まなくてはならないが、それはあくまでも現代の民衆の常識の矛盾や、その発展の方向を吟味することを主要な課題としなくてはならない、その意味で哲学は思想の科学でなければならないと強調したことがある。
 
戸坂から刺激を受けながら、私は、現代の日本の民衆の子ども観・発達観・学習観・教育観にどのような矛盾があり、それはどのように発展していく必然性があるかを究明する、教育思想の研究を自分の仕事としたいと考えてきた。そして、同時代に生きる子どもやおとなの発する声を聴きとり、それを反芻しながら、その意味を考えることを、基本的な研究方法とするようになってきた。
 
 このような教育思想研究を専攻する私にとっては、大学において学生たちとつきあいながら、彼らが抱えている内面の問題を、社会や文化や人間関係の問題と結びつけて理解しようとし、それを通じて教育や社会のあり方を考えるということが、大切な仕事になっている。私にとっては、学生たちは、教育活動の対象であるが、同時にその全存在を通して、研究すべき問題や探求の方向を教えてくれる共同研究者であり、教師でもある。
 
 これまで本書で述べてきた子ども理解や教育実践・教育改革の方向に関わる私の見解も、大学という教育現場で学生たちとつきあうなかで経験したことをベースにして形作られたものがほとんどである。そこで、この章では、少し時期をさかのぼって、一九九〇年代の前半に出会った学生についてふりかえり、現代の学生たちが抱える問題、彼らの可能性、その可能性を現実のものにする条件などについて、考えてきたことを整理してみたい。
 
──略──
 
「拒食」体験をみつめて
 
 次に紹介したいのは、「拒食症について」という卒業論文を書いて卒業していったWさんのことである。
 
 Wさんは、高等学校時代に「拒食」という辛い体験をした。そして、大学入学後、そうした体験を経てきた自分には、同じように苦しんでいる人々を理解できる可能性があるかもしれない、できればそういう職業に就きたい、カウンセラーにでもなってみたいと考えはじめた。
 
彼女は、二年生になって、私のゼミナールに参加した。三年生の一年間は、他の教員のゼミナールに属して、そこで知りあったアメリカ人学生をつてに短期間アメリカに留学するなどといったこともしていた。そして四年生になって、やはり卒業論文は 「拒食症」について書きたいといって、私の前に再び姿を現した。
 
 四年生の最初の数ヶ月は、彼女は、摂食障害・拒食症にかんする文献を読みあさっていた。そして夏休み直前に「いろいろな本を読んでみた。どうもピッタリくるものがなかったが、この本だけはピタツとくるような気がします」と言って、一冊の本を持ってきた。それは、イギリスの精神科医のスージー・オーバックの『拒食症』という本であった。
 
 この本は、他の多くの拒食症関係の研究と同様に、拒食の直接の原因は母子関係のもつれとそこからくる葛藤にあることが多いということを述べていた。しかし、オーバックは、それだけではなく、その背後に大きな社会的・文化的問題があることを指摘していた。
 
 オーバックが目を向けているのは、一方で、アメリカやイギリスや日本のような社会では、身近な者に食事を提供する役割の大部分が女性に課せられており、女性は人生の多くの時間とエネルギーを「食」にむけざるをえない状態に置かれているという事実である。
 
同時に、オーバックは、現代の社会では、「女らしさ」と「美しい身体」のイメージが女性に村して外側から与えられ、常に食事を制限しなければならないというメッセージが強力に送られ続けているということを指摘している。
 
 つまり、オーバックは、現代社会に生きる女性の多くは、食について大きな関心とエネルギーをむけて生きていかなくてはならないのに、自らが食べるということについては制限するようにというメッセージにさらされ、食べるということについて複雑な葛藤、緊張関係を抱かざるをえないという事実を指摘しているのである。
 
そして、このことが、とくに女性がさまざまな困難に直面したときに、「食」にかかわっての緊張という症状を生む、社会的・文化的背景であると述べている。
 
 そこからオーバックは、次のような治療論を展開している。多くの医者たちは、ガリガリに痩せてやってくる患者を診て、生命の危険を感じ、まず生きるために必要な体重にもどす、そのために最低限必要な栄養を点滴をしてでもとらせるということに関心を奪われがちである。しかし、それだけでは治療は成功しない場合が多い。
 
外見上は極めて「異常」に見える姿の奥に、この社会に生きている限りどんな女性も背負う可能性がある葛藤と苦悩を見届け、それに共感的に接していくことが治療を成功させる第一の条件となる。また、患者同士の相互に理解しあい支えあう関係(「自助グループ」など)が重要な意味を持つ。
 
 私はWさんに教えられて初めてこの本を読んだ。そして、拒食症の原因として、身近な母子関係・家族関係の問題を指摘するとともに、その背後にある社会的・文化的問題に視野をむけており、現代の人間の問題を身近な人間関係の問題と大きな社会的・文化的問題との接点においてとらえようとしている点で、重要な研究であると感じた。
 
そこで、これはしっかり読むに値する研究だと思う、オーバックが言おうとしていることを正確に要約して、それに村する自分の体験にもとづいたコメントを丁寧に書き込んでいけば、いい論文になる可能性があると思うと彼女に伝えた。
 
 それから数ヶ月間、Wさんはその作業に取り組んで、「拒食症について──スージー・オーバックの『拒食症』の検討」という卒業論文を仕上げた。それは次のような「前書き」から始まっていた。
 
──私は自分自身が真に回復したい。そして同じ苦しみのなかにいる人たちの力になりたいという思いから拒食症を研究テーマに選び、取り組みはじめた。しかしこんにち数多く存在する理論は誤解や偏見に満ちており、文献に触れていくほどに失意を深めてしまっていた。
 
 そのような状態のなかでスージー・オーバックの『拒食症』に出会うことができた。オーバックは拒食症とは従来のダイエット過剰説、成熟拒否説、嗜癖性説、家庭環境説などをすべて包括する社会の矛盾の結果であることを証明している。そしてその上で拒食症者の全人格を尊童し真の回復へと導いていく。
 
これは単なる拒食症治療論ではなく、社会の矛盾についての問題提起と拒食症の治療をみごとに組み合わせた理論なのである。
 そこで私はこれを読みこみ、丁寧に内容を理解することに焦点をしぼって研究論文を作成した次第である。──
 
 
 彼女は拒食症の問題を研究テーマにした動機、オーバックの『拒食症』に着目した理由をこのように説明した後、この卒業論文が、オーバックの本の単なる要約ではなく、彼女の体験と思索にもとづいて再構成したものであるとして、次のように書いていた。
 
 
──なおオーバックは社会の矛盾を追求していった結果、その一端が拒食症へ行き着いたという構成をとっているが、私は敢えて拒食症の原因を追求していくと社会の矛盾へとたどりつくという形に再編成してみた。これは私の当初の動機に従うものであり、現在拒食症に苦しむ人々にとってより検討しやすい展開なのではないかと考えたためである。
 
 よってこの論文はオーバックの拒食症論の解説であるとともに、私のなかでいったん消化され再生された拒食症論である。──
 
 
 この部分はこれだけではわかりづらいので説明を加えておくと、オーバックの本は二部構成になっていて、第一部は今日の社会と文化の問題、とくにそのなかで女性がおかれている位置がもたらす問題を分析し、そこから拒食症が生み出される必然性を論証したものである。そして第二部が、そうした拒食症に苦しむ人々の内面をどう共感的に理解し、どう支えるかという治療論となっている。
 
Wさんは、それを自分の体験と判断にもとづいて再構成したのである。彼女自身が「この論文は、……私のなかでいったん消化され再生された拒食症論である」と自負を持って言い切っているが、私はその全体を読み通して、あくまでもオーバックの研究を厳密に正確に読みとろうとし、なおそれに対して主体的な検討を加えようとした、「客観的かつ主体的」とも言える、緊張感のある質の高い卒業論文になっていると感じた。
 
 書き終えた卒業論文を私のところへ持ってきたWさんの姿は、嬉しげに見えた。それまでは、彼女は、私に村して、母親のことを「母」とは言ったことがなく、「彼女」とか「あの人」としか言わなかった。けれども、卒業論文を持ってきたそのとき、彼女は初めて「私の母が……」という言葉遣いをした。
 
その彼女の姿や言葉に接して、私は、卒業に必要な一つの作品を書き終えてホッとしたという喜びはあるだろうが、それだけではなく、この卒業論文を仕上げてこの学生はひとまわり大きくなった、それが自分で嬉しいのだろうと思った。とくに自分にとって「抑圧的」だった母親も、やはりこの社会のなかで問題を抱えて生きている女性であり人間であるということが、オーバックに取りくむことによって見えてきた。
 
そして、その分だけ母親を許すことができ、母親を許すことができた度合いに応じて、それまでの自分の育ち方をも許すことができ、少し楽になった。そういう喜びであるように感じられたのである。
 
 私は、このWさんとつきあうなかでも、X君を紹介しながら述べたのとまったく同じ三つのことを感じた。Wさんもまた、幼いときから重い感情的葛藤を持って生きてきた。それは、直接には身近な人間関係、母子関係から発生したけれども、それには大きな社会的・文化的背景があった。
 
そしてそれは大変重いものであったから、それを対象化し成長の栄養に転化するためには、長い時間がかかった。しかし彼女も、それを対象化し成長していく可能性を持っていた。そしてその可能性を現実のものにするために、彼女もまた、不安や葛藤を聴きとってくれる他者を必要とし、それを対象化する学びの機会を必要としていた。このように感じたわけである。
 
 X君とWさんは、特別の困難を背負った若者のようにもみえるが、この二人の場合にそくしてまとめたこれらの点は、程度の差はあるが、日本の多くの子どもや青年に共通する問題であり、可能性であり、要求ではないかと私は考えてきた。
 
 同時に、私は、Wさんとつきあってみて、とくに現代社会のなかで女性の青年・学生が抱え込みがちな問題を、それとして考える必要を感じた。まだ断定できるようなデータを私自身でつかんでいるわけではないが、Wさんが自らの体験にもとづいて問題にした摂食障害・拒食症は、今日の女性の青年・学生のあいだにかなり広がっているように思われる。
 
そして、この間題を検討することは、青年・学生一般の論議に解消されない、女性の青年・学生の問題を考えるための一つの重要な切り口になるのではないか。そんなことを考えさせられたのである。
(田中孝彦著「生き方を問う子どもたち」岩波書店 p172-184)
 
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◎「現代の社会では、「女らしさ」と「美しい身体」のイメージが女性に村して外側から与えられ、常に食事を制限しなければならないというメッセージが強力に送られ続けている」
 
「現代社会に生きる女性の多くは、食について大きな関心とエネルギーをむけて生きていかなくてはならないのに、自らが食べるということについては制限するようにというメッセージにさらされ、食べるということについて複雑な葛藤、緊張関係を抱かざるをえないという事実」……。
 
◎私たちの食事観≠ェ少なからず転換します。「ダイエット」の背景……。