学習通信031120
◎「真理は誤謬になり誤謬は真理になるのである」……。
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「わからない」という恥
「わからない」は恥ずかしい
私のやり方は、結局のところ「わからないからやる」である。これはかなり、自信のある人間の言うことである。自信があるのか、バカなのか。普通の場合、これは「わからないけどやる」であり、「わからないけどやらされる」である。
「わからない」と「やる」との間は、普通、順接では結びつかない。結びつくのだとしたら、逆接である。ただの逆接でも、やっぱりまだ順当ではない。逆接に「やらされる」の使役がついて、やっと順当になる。「わからないけどやる」は、ほとんど「やりたくないけどやる」の同義で、だったらこれは、「やりたくないけどやらされた」にしてしまった方がいい。「やりたくないこと」はやりたくない。
そんなことを「やらされる」のは屈辱である。そんな記憶からはさっさと遠ざかりたい。だから、「やりたくないけどやらされる」は、「やりたくないけどやらされた」の過去形に、さっさと変えられてしまう。
「逆接」の上に「使役」がくっついて、しかもそれは、「過去形」にしたいようなものですらある。「わからない」と「やる」との間には、そのようなギャップがある。「わからない」と「やる」とは、なぜ素直に結びつかないのか? それはつまり、「わからない」が「恥ずかしいこと」だからである。
「わからない」は、普通「やらない」に続く。「わからないからやらない」である。それはどういう状態なのか? つまりは、「考えるだけでぐずぐずしている」である。「恥ずかしがっている」がどんな状態であるのかを考えれば、「わからない」が「恥」であることはすぐわかるだろう。「考えるだけでぐずぐずしている」とは、すなわち、「恥ずかしがっている」である。
「わからない」とは、「恥ずかしいこと」なのだ。
「自信」と「恥知らず」は表裏一体
「わからない」という恥ずかしい状態であるにもかかわらず「やる」──日本人の美意識は、当然ここに「逆接」を選ぶ。そんな恥ずかしいことを自分から進んで選びたくもないから、ここに「使役」を使う。「他人に命令されて仕方なく」である。そんな恥ずかしいことは忘れてしまいたいから、さっさと「過去形」である。これが日本人の美意識で、これを知らないのは、恥知らずである。「わからないからやる」が「バカのやること」かもしれないのは、そのためである。
「わからないからやる」が自信のある人間の発言であったとしても、この人間が「自信のある人問」と認定されるようになるためには、もちろん、かなりの時間がかかる。「自信がある」と「恥知らず」は、実のところ、表裏一体のあり方だからである。
「恥知らず」のハードルをいくつか越えると、その先に「自信ある人」のゴールが待っている。しかし、その「自信ある人」が再びレースに出ても、その時のレースで必ず「自信ある人」のゴールにたどり着けるかどうかはわからない。「恥知らず」のハードルを跳びそこねれば、そこでその人はまた、「自信過剰の恥知らず」である。「自信」と「恥知らず」は表裏一体なのだから、どうしてもそういうことになる──つまりそれは、人間が挫折を必須とする生き物だからである。
すべての人間が挫折を必須とする生き物である以上、「自信」はいつか「恥知らず」に変わる。べつに不思議のないことである。そして、人間が挫折を必須とする生き物である以上、すべての人間は、いつか「わからない」というシチュエーションにぶつかるものである。それにぶつかって切り抜けるのが人間である以上、「わからない」は方法論でもなんでもなく、ただの「当たり前」である。
問題は、その「当たり前」がいつ「特別な方法論」に変わらざるをえなくなったのかということである。私はそれを、終わってしまった二十世紀という時代のせいだと思う。
二十世紀は「わかる」を当然とした
二十世紀は、「わかる」が当然の時代だった。自分はわからなくても、どこかに「正解」はある──人はそのように思っていた。既にその「正解」はどこかにあるのだから、恥ずかしいのだとしたら、その「正解」を知らないでいることが恥ずかしいのであり、「正解」が存在することを知らないでいることが恥ずかしかったのである。
だから、人は競って大学へ行ったし、子供達を競わせて大学に行かせた。ビジネスの理論書を必死になって読み漁ったし、誰よりも早く「先端の理論」を知りたがった。それをすることと、現実に生きる自分達が知らないままでいる「正解」を手に入れることとは、イコールだと思っていたのである。
たとえば、大学へ行くことを当たり前にして、多くの日本人は、大学がそうたいしたものではないという幻滅に訪れられた。しかし、それは果たして、「日本の大学がたいしたものではないから」なのか、あるいはまた、日本の大学に「自分達の思い込みをなんとかしてくれるだけの万能性がなかったから」なのかはわからない。
だからこそ、「日本の大学はたいしたものではない」と思ってしまった人達の中には、「外国の大学だったらまた別かもしれない」という思い込みだって生まれる。外国の大学へ行くには金がかかる。「それだけの金がかかる以上、外国の大学にあるものは本物≠ナあるはずだ」という思い込みだって生まれる。
外国の大学には外国の大学なりのよさとすごさはある。しかし、それと「外国の大学だからすごい」という思い込みとは、別である。それが、「自分達の知らない世界にはまだすごいものがあって、そこには正解≠ェあるはずだ」と思い込んだ結果なら、外国の大学だとて、「どうってことはない」のである。
たとえばまた、大学を出て社会人になり、しばらくして壁にぶち当たることがある。その時に、「会社を辞めて大学に入り直そう」という決断をする人もいる。それは、あるいは必要なことかもしれない。しかし、もしかしたらそれは、錯覚かもしれない。「社会に出て未熟な自分のメッキが剥げた」という事実があるのなら、その未熟さは、自分で克服しなければならない。
その克服手段が「大学に入って学び直せばなんとかなる」であるのは、もしかしたら、短絡かもしれない。この人が、「自分は正解から離れた。大学には正解がある。その正解に近づけば、もう一度成功を取り戻すことができる」と思い込んでいるのだとしたら、この人のあり方は、「どこかに自分の知らない正解はある」と思い込んでいる二十世紀病なのである。
「正解がある」は二十世紀病
二十世紀は、イデオロギーの時代であり、進歩を前提とする理論の時代だった。「その正解である理論≠マスターしてきちんと実践できたら、すべてはうまく行く」──そういう思い込みが、世界全体に広がっていた。そういう状況の中では、「自分の現実をなんとかしてくれる正解≠ヘどこかにある」という考え方もたやすく生まれるだろう。その人達は学習好きになって、次から次へと「理論」を漁る。
一つの理論がだめになったら、もう一つ別のナントカ理論へと走る。思想さえもが流行になったら、その後では、「流行」さえもが思想である。「それを知らなかったら、時代からおいてきぼりを食らわされる」──そういう不安感の下では、流行もたやすく思想になり、であればこそ、二十世紀末には、わけのわからない 「宗教もどき」がさまざまな事件を引き起こしもした。
「理論の合理性を求めて、どうして人は宗教という超理論へ走ってしまうのか?」 ──二十世紀末の「宗教もどき」が引き起こした惨劇に対して、多くの人達はこのように首をひねった。しかし、その求められた「理論」が、「なんでも解決してくれる万能の正解」と一つだったとしたら、この矛盾はたやすく解決されるだろう。「なんでも解決してくれる万能の正解」は幻想であり、これはそもそも宗教的なものだからだ。
二十世紀は理論の時代で、「自分の知らない正解がどこかにあるはず」と多くの人は思い込んだが、これは「二十世紀病」と言われてしかるべきものだろう。「どこかに正解≠ヘある」と思い、「これが正解≠セ」と確信したら、その学習と実践に一路邁進する。二十世紀のそのはじめには社会主義があって、これをこそ「正しい」と思った人達は、これを熱心に学習し実践しようとした。
やがてそこにさまざまな理論が登場して、第二次世界大戦後の二、三十年間は、「一世を風靡(ふうび)したナントカ理論」の花盛りとなる。そこで激化したのは、子供の進学競争ばかりではない。大人だとてやはり、やたらの学習意欲で猪突猛進(ちょとつもうしん)をしていたのである。
学習──つまりは、「既に明らかになっているはずの正解≠フ存在を信じ、それを我が物としてマスターしていく」である。ここでは、「正解」に対する疑問はタブーだった。それが「正解」であることを信じて熱心に学習することだけが正しく、その「正解」に対する疑問が生まれたら、「新しい正解を内合している(はずの)新理論」へと走る──これが一般的なあり方だった。
「どこかに正解≠ヘあるはずだ」という確信は動かぬまま、理論から理論へと走って、理論を漁ることは流行となり、流行は思想となる。やがては、なにがなんだかわからない 混迷の時代≠ニなって、そこに訪れるのが、「正解である可能性を含んでいる(はずの)情報をキャッチしなければならない」という、情報社会である。
どこかに「正解」はあるはずなのだから、それを教えてくれる「情報」を捕まえなければならない──そのような思い込みがあって、二十世紀末の情報社会は生まれるのだが、それがどれほど役に立つものかはわからない。しかし、「正解≠ノつながる(はずの)情報を仕入れ続けなければ脱落者になってしまう」という思い込みが、一方にはある。だから、それをし続けなければならない。
それをし続けることによって得ることができるのは、「自分もまた正解はどこかにある≠ニ信じ込んでいる二十世紀人の一人である」という一体感だけである。だからこそ、情報社会の裏側では、得体の知れない孤独感もまた、同時進行でひっそりと広がって行く。情報社会でなにを手に入れられるのかは知らないが、情報社会の一員にならなければ、情報社会から脱落した結果の孤独を味わわなければならないからである。
そもそもが「恥の社会」である日本に、「自分の知らない正解≠ェどこかにあるはず」という二十世紀病が重なってしまった。その結果、「わからない=恥」は、日本社会に抜きがたく確固としてしまったのである。
二十一世紀は「わからない」の時代
しかし、その二十世紀は終わってしまった。終わって行く二十世紀には、「もしかしたらもう正解≠ヘないのかもしれない…」という不安感が漂っていた。どこにも「画期的な新理論」はない。理論の代用物でもあった「画期的なヒット商品」もない。パソコンやインターネットが画期的であったとしても、それがどこまで必要なのかはわからない。なぜかと言えば、その必要≠ヘ、「どこかに正解があるはず」という、二十世紀的な思い込みの上に存在するものだからである。
よく考えてみればわかることだが、「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な正解=vなどというものは、そもそも幻想の中にしか存在しないものである。「二十世紀が終わると同時に、幻滅もやって来た」と思う人は多いが、これもまた二十世紀病の一種である。二十世紀が終わると同時にやって来たのは、「幻滅」ではなく、ただの「現実」なのだ。
人はこまめに挫折を繰り返す。一度手に入れただけの自信は、たやすく役立たずになり変わる。人はたんびたんびに「わからない」に直面して、その疑問を自分の頭で解いていくしかない──これは、人類史を貫く不変の真理なのである。自分がぶち当たった壁や疑問は、自分オリジナルの挫折であり疑問である。「万能の正解」という便利なものがなくなってしまった結果なのではない。それを「幻滅」と言うのなら、それは、「なんでも他人まかせですませておける」と思い込んでいた、不精者の幻滅なのである。
二十世紀に定着してしまったものは「個人の自由」だが、そこから生まれるのは、「自分の挫折は自分オリジナルの挫折である」と言い切る権利である。「自分オリジナルの挫折」は、結局のところ、自分で切り開くしかないものなのである。
二十世紀が終わって、人間は再び過去の次元に戻った。そこでは、困難を切り開くものは、常に「自分の力」だった。「自分の力」がふるえるようになる前に、「どうしたらいいのかわからない、なにがなんだかわからない」という混迷に呑み込まれても不思議ではない。人類は常に、そういうところからスタートしてきたのである。
「わからない」は、あなた一人の恥ではない。恥だとしたら、「この世のどこかに万能の正解≠ェある」とばかり信じて、簡単に挫折しうる「自分自身の特性」を認めないことが恥なのである。「特性」がいいものだとは限らない。
「どこにも正解はない」という混迷=@の中で二十世紀は終わり、その混迷≠フ中で二十一世紀がやって来た──そう思ってしまったら、もう二十一世紀は終わりだろう。「わかる」からスタートしたものが、「わからない」のゴールにたどり着いてしまった。これが間違いであるのは、既に言った通りで、であればこそ二十一世紀は、人類の前に再び訪れた、「わからない」をスタート地点とする、いとも当たり前の時代なのである。(橋本治著「「わからない」という方法」集英社新書 p16-25)
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それはそれとして、われわれがこんにち立っている認識の段階が以前のすべての段階と同じように決定的なものではないからといって、けっして驚きあわてるには及ばない。こんにちの認識の段階は、すでにおびただしい認識材料を包括しており、なにか或る専門分野に精通しようと思う人は、だれでも、研究をいちじるしく特化しなければならなくなっている。
しかし、もろもろの認識に──事柄の性質からいって、数多くの世代にわたって相対的なものであり続け、少しずつ完全なものにしていかなければならないものか、それとも、宇宙生成論・地質学・人類史においてのように、歴史的材料が不足しているという理由だけからでも、今後ずっと空きのある不完全なままのものか、そのどちらかである、こういう諸認識に──本物の変わることのない究極の決定的真理という尺度をあてがう人は、これによってただ自分自身の無知と愚かしさとを証明するだけである。
これは、ここでと違って個人的不謬性の主張が本来の背景となっていない場合でさえ、同じことである。真理と誤謬とは、両極的対立というかたちで運動しているすべての思考規定と同じように、まさしくただごく限られた領域にたいしてしか妥当性をもっていない。
これは、われわれがいましがた見たとおりであるし、デューリング氏にしても、まさしくすべての両極的対立の不十分さを論じている弁証法の初歩をいくらかでも知っていたなら、このことがわかったであろうに。真理と誤謬との対立を右に述べたあの狭い領域の外に適用すると、この対立はたちまち相対的となり、したがって、正確な科学的な表現には使えなくなる。
もしまたこの対立を絶対的に妥当するものとしてあの領域の外に通用しょうとやってみるなら、われわれは、それこそ本当に破綻してしまう。この対立の両極がその反対物に急転して、真理は誤謬になり誤謬は真理になるのである。よく知られたボイルの法則を例にとろう。この法則によると、〈温度が一定であれば、気体の体積は、その気体が受ける圧力に逆比例する>、というのである。ルニョーが〔実験によって〕調べてみると、この法則は、或る種のケースにはあてはまらなかった。
ところで、もし彼が現実哲学者であったなら、こう言わなければならなかったであろう、<ボイルの法則は、変わることのないものではない、したがって、本物の真理ではない、したがって、そもそも真理ではない、したがって誤謬である>、と。
これによってしかし、彼は、ボイルの法則に含まれている誤謬よりもずっと大きな誤謬をおかしたことになったであろう。彼の一粒の真理は、誤謬の砂山のなかに消えてなくなったであろう。彼は、つまり、自分のもともとは正しかった結論を一つの誤謬に仕立てあげてしまったことになろうし、それに比べれば、ボイルの法則は、わずかな誤謬がそれにこびりついていたとしても、真理に見えたことであろう。
ルニョーはしかし、科学的な人間として、そのような子どもじみたこととはかかわりあわずに、さらに研究を進めた。そうしてみると、ボイルの法則は、そもそもただ近似的に正しいだけで、とくに圧力によって液化させることができる気体の場合にはその妥当性を失い、しかも、圧力が液化の起こる点に近づくと、たちまちそうなるのであった。
こうして、ボイルの法則は、ただ一定の限界の内側でだけ正しいことがわかったのである。しかし、この限界の内側ではそれは絶対的に究極的に真であるのか? 物理学者は、だれもそんなことは主張しないであろう。こう言うであろう、──<この法則は、圧力と温度との或る限界の内側で、そして、或る種の気体にたいして妥当性をもっている>、と。
そして、このようにいっそう狭く定められた限界の内側でも、将来の研究によってこの限界がさらにせばめられたりこの法則の言いあらわしかたが変えられたりする可能性があることを、否定しないであろう。<究極の決定的真理>については、そういうわけで、たとえば物理学では、こういう事情になっているのである。
真に科学的な著作は、だから、通例、誤謬と真理というような教条的=道徳的な表現を避けるものであるが、これにたいして、からっぽなとりとめのないおしゃべりが、至上の思考の至上の結論としてわれわれに押しつけられようとしている、現実哲学のような書物のなかでは、いたるところでこういう表現にぶつかるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」p130-132)
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◎「わからないからやる」──これはかなり自信のある人間の言うこと……。「いっそう狭く定められた限界の内側でも、将来の研究によってこの限界がさらにせばめられたりこの法則の言いあらわしかたが変えられたりする可能性がある」と。
◎「この世のどこかに万能の正解≠ェある」とばかり信じて、簡単に挫折しうる「自分自身の特性」を認めないことが恥……。
○と×≠ナしかもの事をとらえないとしたら求めるものは<究極の決定的真理>……しかし○は×になるのです。労働学校で学ぶ「科学の目」 大切です。