学習通信031116
◎人が育つということA ……「読み聞かせ」「本を通じて親子が気持ちのやりとりをする」ことに。
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子どもにとってテレビとはどういう存在か
《テレビは空気》
そのなかでテレビをはじめとしたメディアの問題は、大きな位置を占めていることは言うまでもありません。私は、今度、新日本出版社から『テレビ「デジタル時代」と子どもの成長』という本を一二月に出版します。そこでも小見出しとして使ったのですが、とりわけテレビは子どもにとって「空気」とも言える存在です。
大人にとっては「生活必需品」という言い方がいいと思います。子どもたちの遊びのグループも、どういうテレビの番組を見ているかで分かれるなどの影響があります。テレビをあまり好きでない子も、人気番組をチェックしていないと、学校で友だちとの会話が成り立たないという状況です。
ある調査で、「あなたにとっていちばん大事なのは何ですか」という問いに、「友だち」と答えた子どもたちは四割超であったのにたいして、「テレビ」と答えた子どもは八割でした。二番めに大事な「友だち」の倍です。
私も参加している「放送倫理・番組向上機構」の「放送と青少年に関する委員会」が七月下旬に京都でおこなったテレビフォーラムには、全国から五つの中学の生徒が参加してくれたのですが、そのなかで神奈川・川崎の公立中学校の生徒がおこなったアンケート調査の結果発表では、「テレビはどの程度必要か」という問いに、「絶対に必要」が四三%、「ある程度必要」が二九%。「あった方がよい」が二三%、「無くても困らない」はたった五%、「必要でない」「ない方がいい」はゼロだったそうです。つまり九五%の中学生が「必要だ」と言っています。
テレビ視聴時間も三〜四時間です。これにテレビ・ゲームの時間がプラスされ、多い子だと五〜六時間、テレビ画面に向かっていることになります。一日二時間弱テレビを見るとすると、年間では学校での体育など実技教科以外の総授業時数を超えることになるのです。平均二時間でもそのぐらい膨大なエネルギーを使っていることになる。
テレビの見方も変化しています。一人視聴が圧倒的に増えていることが最大の特徴です。子どもたちも自分の部屋で個人視聴しており、ほとんどの家庭でチャンネル争いがなくなっています。NHKの調査では三台以上テレビがある家庭が五割を超えたようです。
チャンネル争いがあれば、親は子どもがテレビを何時から何時まで見ているのかわかります。「お兄ちゃんに譲りなさい」だとか、「お父さんが楽しみに帰ってきたのだから、巨人阪神戦を見せてあげなさいよ」といった家庭での協力のしあいがあり、また、共通した文化に接することで、お父さんが「さんまさんも、もうちょっとこうやればいいのに」と一言感想を漏らすことで、親の価値観の伝達がおこなわれることもあったわけです。テレビを通して、家庭での文化やモラルの形成に一定の役割を果たしていた。
しかし今では、子どもたちが、部屋にこもって何を見ているのかもわからない。親の価値観を伝えるとか、テレビ視聴を通して家庭のなかに一定の文化が形成されることは困難になっています。かりに、小学生、中学生、高校生という三人の子どもがいたら、それぞれの部屋で、バラバラにメディアの影響をまともに受けているのです。その影響の強さから、親は、自分の思うような子育てがなかなかできないという状況です。
テレビ制作の人は、「番組を流すのは自分たちだが、どれを選ぶかなどは家庭の責任だ」とよく言います。しかし、子どもたちが圧倒的に個人視聴している現在、家庭の責任、家庭の指導力などと言っても実情にあいません。関係者自身が、子どもが見て大丈夫なものかどうかを直接考えるべきだと思います。私自身、テレビの制作者の人たちと、「子どもたちは本当に清濁あわせた影響に襲われているのです。大丈夫なのでしょうか」など話し合っているのですが。
今年はテレビ開局五〇年の節目です。私たちはあらためて、テレビをめぐる重大な環境の変化をしっかりととらえ、メディアリテラシーの実践を問い直さなければなりません。それも、メディアリテラシーといった場合、子どもにどう習得させるかだけを考えがちです。しかし、大人の私たちもメディアリテラシーを持つ、私たち自身が子どもとともに学んでいくというスタンスこそ大切に考えていかなければいけないのではないでしょうか。
《テレビの影響はどうあるのか》
テレビの子どもへの影響についての研究は、この間、大きな前進をみせています。この点で、社会一般でよく議論されるのは、モデリング効果とも観察学習効果ともよばれる、模倣=子どもがまねをするという問題です。量的には、実はそんなに多いわけではないのですが、たとえば人気アイドルがバタフライナイフを扱う番組を見て、すぐにナイフを購入、一五歳のブラジル人少年を刺し殺してしまった愛知の事件(一九九六年)は記憶に新しいところです。
最近では、昨年一月、早食いや大食いを競う「フードバトル」という番組をまねて、愛知の中学二年生が、給食で早食いをやって、喉につまらせ意識不明になり、四月に亡くなるという事件がありました。実は、あの番組の模倣は全国で大流行していたのです。子どもたちは先生にわからないようにやっていたようですが、保健室には「お腹が痛い」と生徒たちがやってくるので、養護の先生たちのあいだでは話題にはなっていたようです。
とくに子どもたちの遊びの内容には、テレビのバラエティ番組の影響をうけていることは明らかです。先に紹介した、テレビ・フォーラムで発言した中学生たちも、バラエティでおこなわれるいろいろなコントやゲームなどをまねて楽しく進んでいる様子を実際に実演もして発表してくれました。しかし、その番組のつくられ方が、きわめて無責任であったりもする。
たとえば「USO JAPAN」という番組があります。アイドルが出演する子どもには人気の高い番組ですが、これを何と読むかわかるでしょうか。「うそ」なのです。プロデューサーを交えて議論したのですが、「タイトルからして嘘≠ネんですから」と真面目に言う。これには、フォーラムに参加していた子どもたちも、「うそであることを真実っぽく描くので、わからない」と怒っていましたが。
ただ、私は、テレビのまねをして遊ぶにしても子どものほうが健康的だなと思ったのは、たとえば「学校に行こう」という人気番組では、必ず「デコペン」という鉛筆をおでこに当てて、ゲームに負けた子に罰を与えるというのがあるのですが、子どもたちは「いたい目にあたったら危ないし、やられると痛いし、イヤなことだから、楽しくなくなる。だから、私たちはやりません」と言いました。「番組のほうはそれをやればうけると思ってんじゃないか」と批判もしていました。
子どもたちの言葉遣いへのテレビの影響も大きいものがあります。保育園、幼稚園、小学校低学年など年の若い子どもほど大きな影響を受けています。
このテレビの影響は、何もバラエティに限ったものではありません。報道番組、ニュースでも影響があります。私は、イラク戦争のときと九・一一事件、アフガン報復戦争のときの二回、アンケート調査をおこなったのですが、子どもたちに大きな影響を与えていました。九・二からアフガン報復戦争のときは、戦争ごっこが保育園で流行り、お絵かきでは飛行機が突っ込んでいくものを描く子どもが増えました。
ブロックを積み上げてドーンと体当たりする遊びなどもはやりました。また、保育園も今ではかなり国際的になっていて、ブラジル人の子どもや中東や東南アジアからの子どもたちも多数在籍しています。その日本人以外の子どもたちにたいして「ビンラディンだ」と言っていじめる「ビンラディンいじめ」が流行りました。こうした事態も単純なモデリング効果、模倣という領域です。
《子どもたちのモラルや希望にも影響が》
しかし、これらモデリング効果や観察学習効果というのは、大人にも見えやすい。よくないと感じればすぐにも指導できます。むしろ、私が怖いと感じるのは、カルティベーション効果や脱感作効果と言われるものです。
脱感作効果というのは、たとえば暴力シーンを見ているうちに暴力に慣れ、感じなくなること、自分が直接暴力をふるわなくとも、暴力の被害者への同情心がうすれたり、加害者にたいする怒りが弱まる効果をいいます。暴力シーンをまねて、同じように殴ったりする子がほとんどいなくても、これだけ多くの番組で暴力シーンが次々放映されると、自分のクラスで友だち同士で殴り合いをしていても、「やめろよ、痛いよ、かわいそうじやないか」とブレーキをかける感情が薄れてしまうわけです。
また、いじめのシーンについても、テレビ関係者は、「こんないじめなどをまねする子はいないよ、そんなに子どもたちバカじゃない」とよく言われます。たしかに、私たち大人が見ても、「こんなのはいかにもやらせでコントだ」とわかっているのですが、その番組を見ることによって、いじめに対する感度が鈍り、モラルの低下がどんどん引き起こされる。いわば慣れ効果≠ニ言ってもいい。
これはモラルの問題、社会的な規範の問題で、テレビが極めて重大な影響力をもっていることをしめしています。しかし、制作現場は、そこの自覚がない。視聴率をどうとるのかで汲々(きゅうきゅう)とさせられています。私もテレビ出演もふくめ、テレビと二十数年かかわってきて、モラルの確立に与える影響では、大変な事態だと痛感します。
もう一つのは、カルティベーション効果というのは、テレビと現実との間に混同が生じ、過度に恐怖感が高じることをいいます。本人が暴力化するのではなく、「世間は悪意に満ちている」と思い込む効果です。私は、子どもたちが社会に希望を持てない、世の中ってこういうもんだというとらえ方、価値観が形成されてしまうことの危険性を感じます。
ニュースを良いことと悪いことに分けるのは一面的なのかもしれませんが、どのニュース番組を見ていても、事件や事故など悪いものばかりです。しかし、世の中でおこっていることで悪いことは実際には数少ない。日常的には希望をはぐくめるような、さまざまな人たちのいろいろな努力や地道な活動があるわけです。そちらへ目が向かずに、もっぱら殺人やガソリン爆発で何人亡くなったなどの衝撃的な報道だけがおこなわれれば、子どもたちは、世の中をそんなものだと思い込んでしまわないでしょうか。
むしろ、社会に希望をもつ子どもがいたらおかしいとも言えます。少なくとも半分くらいは積極的ないいニュースを掘り起こしてくるなどの努力がおこなわれ、少子化のなかでこんな努力をしている自治体があるなどのニュースがトップで流れてもいいのではないでしょうか。
このように、テレビの三つの効果には大きなものがあると言えます。日本で、模倣がいつも問題にはされますが、モラルにかかわる効果、子どもたちの生きがいや希望にかかわる効果の側面は実はもっと重要です。こうしたことをもっと議論し、いろいろな提案がなされていいのではないでしょうか。
これからテレビは、いっそうのデジタル化がすすみ、文字どおりに双方向性になります。見るテレビの影響から今度は「使うテレビ」の影響ということを考えなければいけません。さまざまな政治的な世論などもより操作されやすくなるのではないか。
しかし、一方で、デジタル化は、私たち市民の新しい判断の感性で、うまく使いこなせば、たとえば戦争をストップする力にもなるでしょう。今年二〜三月に世界を揺るがせた反戦運動もインターネットというメディアが力となったことは言うまでもありません。日本の若者たちの反戦運動もネットで動いた。メディアがもつ否定的な面を防ぐと同時に、積極的に使いこなす、コントロールするスキルを培っていかなければならないのだと思います。
(尾木直樹「子どもを守る社会の自己規律をつくる」月刊:前衛03年12月号 p53-57)
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言語獲得の過程
「テレビを見せ続けることによって言葉が遅くなる」ことを、私はこの章の最初で問題として取り上げました。ではなぜそのことにこだわるのかというと、赤ちゃんの「発声」は、あらかじめ遺伝子でプログラムされていて、適当な時期が来ると始まり、それが言葉の獲得につながるからです。
耳に障害をもって生まれてきた赤ちゃんも、健常児と同じように、「クーイング」と呼ばれる赤ちゃん独特の発声をします。そして、その後に耳からの刺激が与えられないので、通常は声が失われていきます。
では、赤ちゃんがどのような経過を経て言語を獲得するのか、標準的な発達を追ってみます。
赤ちゃんが、あたかも自分の存在を確かめるように指をしゃぶり、手と手を合わせ、足をつかむことは序章でも述べました。
そして生後五ケ月ごろになると、自分の足を口に入れるようになります。汚いと思いがちですが、よく観察すると、その姿勢はお座りに似ていませんか。もしかすると、これはお座りをするための練習かもしれません。それと前後して、赤ちゃんは自分の周りにある物を頻繁に触ったり舐めたりします。
八−一〇ヶ月ごろになると、赤ちゃんは「手さし」や「指さし」を始めます。たとえば、遠くの物を指さして「とって!」、母親がそばにいると「抱っこして!」、ドアを見ると「連れていって!」というように、言葉が出なくても、指や手を伸ばして意思表示をし始めるようになります。また、人と視線を合わせたり、人が向けた視線のほうへ向いたり、名前を呼ぶと振り向いたりもします。
このころの「指さし」は、赤ちゃんの要求を周りに伝える大事なしぐさです。赤ちゃんが指さした物を見て、親はそこへ連れていったり、「ママよ」とか「プープーが走ってるわね」などと言って自然に名称を教えたりします。
次に赤ちゃんは、「バ」「ダ」「ガ」などの破裂音を唇や舌を使って出すようになります。さらに大人から言葉や発音を引き出して真似たり、自分の発声を自分で確かめたりして、破裂音を続けて出すようになります。
赤ちゃんが最初に発する「マンマ、マンマ」「パパパパパパ」「バーバーバーバー」に、親は子どもの言語獲得を実感するものです。これら「繰り返される言葉」が短く切れて、「パパ」「マンマ」など人や物の名前をあらわす「単語」になります。
親は、それを「有意語」──意味のある言葉だと理解し、ウンウン(ウンチ)、ちゃぶちゃぶ(風呂)、マンマ(食事)などの簡単な単語を使ったコミユニケーションへと発展するのです。
ここまでの過程は、たいていどの子も同じです。子どもの順調な発達と、親子の相互作用が絡み合って自然と進行していくものです。これら一連の発達過程では、物に触れ、会話を交わすことによって赤ちゃんの興味が助長されていきます。
この過程を、私は、GM運動やハイハイや独歩と併せて「赤ちゃん自らの発達」と考えています。ですから、出生直後から過度に言葉を強制したり、長時間テレビを見せ続けたりする親の話を聞くと、「ではいったい、赤ちゃんはいつ自分の好奇心のままに外界へ働きかけるのだろうか。
親の要望に応じて好奇心を調節してしまうのではないか」と疑問に思うのです。それでは親と子のコミユニケーションは生じないのです。そして、そんな状態が続く家庭も少なくありません。このことを私は非常に危険だと感じています。
「語りかけ」には「語り返し」があることが大切
さて、親子でコミユニケーションをとるために「語りかけがいい」と言われて、語りかけをすればそれで情操教育はOKだと思っている親がいます。確かに「語りかけ」は、赤ちゃんが言葉の数を増やし、言葉の組み立てを学習するのに役立ちます。
しかし本来「語りかけ」には、相手からの「語り返しがあること」が前提となっているのです。いくら好きな相手にプロポーズをしても、返事がなければことが先へ進まないのと同じように、いくら語りかけても返事が返ってこないような語りかけでは、それは語りかけとはいえません。
「読み聞かせ」も同じです。ともすると、「何を読むか」「どんな本の評判がいいか」に焦点があたってしまいがちです。しかし「読み聞かせ」の基本的な目的は、本の種類だけではなく、「本を通じて親子が気持ちのやりとりをする」ことにあるのです。
親が本を読む、いろいろな顔をする、声が違う、今日は疲れている、親と同じ気持ちになれた、親はおもしろそうだが僕はいま一つ、などと、子どもが内容の不思議さと同時に人間関係のおもしろさを学ぶのが、読み聞かせ、語りかけだと思います。
私がこの本を読んでいる親に言いたいのは、語りかけや本の読み聞かせ、玩具を使っての遊びも、赤ちゃんと親が一緒に楽しむためのものであって、大切なことはそれを使いながらどうコミユニケーションをとるかということです。何を使うか、どれだけたくさん使うかはお金さえあればできることです。でもどう使うかは、親や周囲の人々が考え、一緒に遊ばなければ気づくことができません。
玩具だけをもらった赤ちゃんは、親のほうを向かずに玩具だけに熱中してしまうでしょう。おそらくテレビも同じです。親は、玩具を与えるだけの人、テレビを見せるだけの人にはならないでほしいのです。
これからのテレビとのつき合い方
テレビやビデオがこれからの育児にもたらす影響は、今後さらに検証していく必要があります。同時に、テレビやビデオをどう見るかという、私たち見る側の姿勢も問われることになってくるのです。
最近、テレビゲームによる「ゲーム脳」やテレビの視聴が子どもに与える影響を取り扱ったいくつかの報告がなされ、メディアの子どもへの影響は、多方面で大きな問題になりつつあります。「ゲーム脳」とは「ゲームをしていると脳の活動が低下する」というものです。
しかし、その研究方法や結論については不充分であると、専門家による批判が相次いでおり、一概にゲームをしていると脳の機能が低下するとはいえないようです。結局この間題も、もう少し整理しなければ、かえって余計な不安を親たちに与えかねません。
確かにこれからの時代、さまざまなメディアとのつき合いが必要なのは間違いないでしょう。ですからその文明の発展とうまくつき合っていくために、これまでのデータを整理し、さらに科学的な研究をしなければなりません。具体的には、
@テレビやビデオは、いつどろからどのくらい見せたらよいのか。
Aテレビ、ビデオを見る以外の時間をどのように過ごしたらよいのか。
B子どもにとって長い番組やゲームとはどのようなものであるのか。
などを考えなければなりません。人間は、外部から与えられる情報による受動的な教育と自ら求めて新たな情報を得る能動的な教育のバランスを保ちながら、成長、発達を遂げていく生き物です。
極端に生活の中からテレビを排除したり、逆に生後間もなくからテレビを長時間見せ続けるようなことは避けるべきです。
(小西行郎著「赤ちゃんと脳科学」集英社新書 p144-149)
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◎相当影響をうけている大人もいます。
「人間は、外部から与えられる情報による受動的な教育と自ら求めて新たな情報を得る能動的な教育のバランスを保ちながら、成長、発達を遂げていく生き物です。」
「テレビの三つの効果には大きなものがあると言えます。日本で、模倣がいつも問題にはされますが、モラルにかかわる効果、子どもたちの生きがいや希望にかかわる効果の側面は実はもっと重要」と。
◎子どものライフハザード=c… 実は日本の未来につながっている問題です。