学習情報031112
◎黙っていられないぞ〜。「貧乏で暮らすというのも、幸せな生きかたではないか……」
 
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大論争「金持ちお父さん」VS「年収三百万円」
   ロバート・キヨサキ / 森永卓郎
 
森永 『年収300万円時代を生き抜く経済学』と『ビンボー主義の生活経済学』というタイトルです。私はキヨサキさんが本に書いてらっしゃる金持ちになる方法≠ヘ、基本的には正しいと思います。まず、ラットレース≠ゥら抜け出せと。勉強して学校でいい成績をとって、就職したら会社のために一生懸命働いて、税金をたくさん取られて、死ぬまでがむしゃらに働き続ける──そんな生活を抜け出したいなら、金持ち父さん≠ノなりなさいと言うんですね。
 
キヨサキ そうです。私には影響力の強い、しかしお金に関する考え方が正反対の二人の父がいました。一人は高い教育を受け、真面目に働き、でも死ぬまでお金に苦労した実の父。この貧乏父さん≠ニ、もう一人は親友の父親で、ハイスクールすら卒業していないのに、ハワイで最も裕福な人間の一人になった金持ち父さん″です。私は九歳のときから、金持ち父さんに「お金のために働くのではなく、お金を自分のために働かせること」を実地に教わりました。
 
森永 日本にはもう一つ、税金を払わずに豊かに暮らす方法がありまして、生収三百万以下だと税金を払わずにすむ。だから、金持ち父さんもすごく幸せだろうけれど、貧乏で暮らすというのも、幸せな生きかたではないかと思うのです。
 
キヨサキ 私には、とても年収三百万以下の生活は我慢できませんが(笑)。
 
森永 日本で三百万円程度の収入を得るのは、それほど難しいことではありません。その二倍、三倍の収入を得る一部の勝ち組″を目指そうとするから、毎日上司の顔色をうかがい、寝る間も惜しんで働かなきゃならない。しかも、全国消費実態調査によると、年収三七三万円の世帯でも冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビは、ほぼ一〇〇%、電子レンジは九割強、革も七割以上が持っている。それなら、普通のサラリーマンがラットレースなんかする必要は、全然ない。
 
 私はこれからの日本は、社会的地位と持っているお金が比例するアメリカをモデルにするより、階級社会のヨーロッパ的発想でいくべきだと考えています。どう頑張っても貴族にはなれないのだから、ほどほどに働いて、ゆったり暮らす。成功を辞めることで、大変な努力をして金持ち父さんになるのと同じ結果が得られる、というのが私の提案です。
 
キヨサキ 一九一三年にアメリカ政府が初めて個人課税したときの税率はわずか一%、それが今や所得の六〇%ですからね。おっしゃるように、一番苦しい中流層にならず、無税階級に属すわるというのはいいアイディアだと思いますよ。
 
──略──
 
森永 でも、ラットレースに明け暮れる人のことは、不幸だと思いますよね?
キヨサキ ただ、それが幸せという人もいますよ。頑張ればラットレースから抜け出せると思い込んでいたり、その中にいることすら気づいてない場合には。五十歳をすぎリタイアして初めて、自分が無駄な時間を費やしてきたと気づく人が大半です。
 
──略──
 
キヨサキ 世界に目を広げれば、ユダヤ人です。イスラム教徒はお金に固執することをいやがりますね。宗教や民族、文化によって、お金に対する態度は大きく違います。
 
森永 おそらく日本でもキヨサキさんのいうお金持ち″を目指すのが絶対、得だとはわかってはいます。でも、江戸時代以来、日本にはお金をもつことは恥ずかしいことだという気風が流れてる、江戸っ子は宵ごしの金はもたないとか、着物の裏地に凝るのが粋だとか……。
 
キヨサキ 武士道など確かに日本文化は素晴らしい、でも甘い文化でもあります。互いの文化の流入が激しい時代になると、新しい考えに切り替えなければ、どんどん後ろへ取り残されます。お金に関しては特にね。──私は日系四世としてハワイに住んでいました。そのおかげで、ハワイを訪れる世界中の観光客から、お金に関する様々な考え方を垣間見られたのはいい勉強になりました。たとえば、ハワイに住んでいても、日本人は日本人としか結婚しませんが、中国人はハワイの人間と結婚する。そうして土地を自分のものにするのです。
 
 いまハワイの地価も上がりきって、金持ちは白人と中国人ばかり。中国人は生まれながらの起業家ですから、お金を悪だなんて絶対、考えない。貧しさこそ悪なんです。政府が経済開放を進める現在、さらに本性を露わにして、世界に追いつこうとする勢いを感じます。次の時代は中国が支配するだろうと思いますよ。
 
 森永 日本ではこの四月から、医療費の自己負担と健康保険料が引き上げられ、発泡酒とたばこの税率もアップしました。来年からは配偶者特別控除も廃止されます。その一方、相続税・贈与税の最高税率や株式投資、研究開発投資の税率は大幅減です。要するに、大金持ちは税金を払わなくていいけれど、一般庶民はたくさん払いなさいという変化です。
 
キヨサキ アメリカも同じです。金持ちが政府を動かして、政府は中流階級や貧しい人たちのポケットに手を突っ込んで、税金という名目で引き抜いて金持ちに渡しています。
 
森永 小泉首相はブッシュ大統領に会うなり、「アイラプユー」と言った人なので、何でもアメリカの真似をするんです。日本はお金をもつのは悪いことだから、持ってる人は皆に平等に配るものというメンタリティでずっとやってきた。ところが小泉首相はそれは間違いだ、金を持っているやつが偉いんだと言い出した。それをいま日本では 構造改革≠ニ呼んでいます。
 
キヨサキ 富裕層と勤労者層の格差が広がったのは、アメリカでも五〇年以降のこと、そこで頭をうまく使った人間は、一足飛びにリッチになりました。「ニューヨーク・タイムズ」によると、過去三十年で給料の上昇率はわずか一〇%だそうです。しかし金持ちの所得は飛躍的に伸び、同時に彼らの税金は実質的には下がっている。ところが、中流階級の税率は非常な勢いで上がっています。
 
 七一年、ニクソンがドル紙幣に刷られていた「金の兌換券」という文字を、「連邦準備理事会証書」と書き換えたこと、これが大きな転換点(ニクソン・ショック、金・ドルの交換停止)でした。それまで金に裏打ちされた資産だったドル紙幣が、一瞬にして負債と化しました。政府はいくらでも紙幣を刷れますが、借金を重ねることになる。そのつけが回ってくるのは、中流階級と貧困層です。
 
 森永 その紙切れにすぎない米ドルやアメリカの国債を、世界で一番大量に買い受けているのが日本です。日本長期信用銀行に四兆円ほど公的資金をつぎこんで、リップルウッドにたった十億で売られました。今となっては、三兆円ぐらいの価値があると言われています。これでは日本の国民の税金をアメリカにあげちゃったのと同じですからね。
 
キヨサキ 「ファイナンシャル・タイムズ」に、りそなグループが半年で一兆七千六百億円の赤字を出し、日本政府が銀行を救済するのは謎だという記事が載りましたが、謎どころか泥棒ですよ。一体なぜ金持ちのために、中流階級と貧しい人達が税金を支払わなければならないのか。
 
森永 トップがバカだからそうなるんです。以前、橋本龍太郎という首相が「米国債を売りたい誘惑にかられることもある」と言っただけで、袋叩きにあい、最終的に総理をクビになりました。日本では中曽根政権にしろいまの小泉政権にしろ、アメリカの言うことを何でも聞く人が、長期政権になるという厳然たる事実があります。来年以降も、同じことが日本のメガバンクで繰り返されると思いますよ。いまや、日本という国自体が貧乏父さん≠ノなってしまっているのです。
 
●お金と幸せは両立するか?
 
キヨサキ 必要なのは、税制の改革より教育の改革だと思いませんか。学校では卒業して一度も使わないことは山ほど教えても、お金については何も教えてくれない。しかし、金持ちだろうが貧しかろうが、みんなお金を使うんです。
 
 私は子供のときから、どうして学校では、自分で金持ちになる方法を教えないのかずっと疑問に思っていました。今ならその理由がわかります。金持ちが資産と政府を牛耳り、政府が学校を支配している。政府にとっては、納税者たるサラリーマンになるように大衆を教育したほうが好都合なのです。
 
森永 日本でも近ごろ、一般庶民の子供にはゆとり教育≠ニいって、わざと子供を馬鹿にする教育を政府でやってますよ(笑)。政府を批判しないように、金持ちの領域に入ってこないように。ビジネス・チャンスは金持ちの子供達だけのものというわけです。
 
 構造改革≠ノよる弱肉強食システムの導入で、日本の社会はいずれ(所得の三層化)が現れると私はみています。上は一億円稼ぐような大金持ち、これはむしろ資本家ですね。真ん中が年収三百万〜四百万円の一般サラリーマン、そして年収百万円台のフリーター層です。やがて親の年収格差がそのまま子供の学力に反映されるようになるでしょう。
 
キヨサキ 私はブッシュ・ファンでもない代わりに、政府に反抗するものでもない。ただ、無知や愚かしさに対しては声をあげるつもりです。たとえば、サラリーマンがしがみついている仕事、それは本人のものではありません。雇用を握っているのは会社のオーナーです。サラリーマン連は自分のものでもない、実体のないもののために、必死に働いている。家にせよ車にせよ、税金を納める点では一部、国のものだし、ローンがあれば銀行のものですからね。
(月刊:文藝春秋12月号 p160-166)
 
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文句を言えない「若者たち」
 
「だけどあれは映画の中の話なんだから、所詮フィクションなんだから、そんなこといちいち気にする必要なんかないじゃないか」
 なるほど、そういう意見もあるだろう。が、「はたして、本当にそうなのか〜 そういうふうに片付けてしまっていいのか〜」
 私には、こんなふうに思えるのだ。なぜなら、「決まっちゃったことはしょうがない」という価値観ほ、決して映画の中に描かれた世界の中だけでなく、すでに現実の社会の中で、相当広く浸透しているように思えるからだ。
 
 現実に出会う若者たちの言動を見ていると、「近ごろの若いもんは……」、思わずそう言ってしまう場面がしばしばある。
 とはいえ、私が思わず、「近ごろの若いもんは……」と言ってしまう時、「…」に続く言葉とは、「近ごろの若いもんは、どうしてすぐに『決まっちゃったことはしょうがない』で納得しちゃうのかねえ?」、なのである。
「無気力」、というのとは違うと思う。
「素直」「従順」がかなり近い気もするのだが、「まさにその通り・・」、とも言い切れない。
 なんというか、こう、
「悪いのは向こうなんだから、もっとちゃんと怒れよ!」
 他人事ながら、思わずこう言いたくなってくる場面に、近ごろしょっちゅう出くわすのだ。
 たとえば、チケットだの、限定発売のグッズだのを買うための列に割り込まれた時。
 割り込んでくるのは、たいてい若者ではない。すでに厄年を過ぎた私よりもさらに年上のおっさんやおばはんが、私のように、(絶対に横入りなんかさせないぞ!)と、万全のガードをしつつ並んでいる人間の前ではなく、もっと後ろに並んでいる、脇の甘い「若者たち」の前にスルッと割り込んでくる、といった光景は決して珍しいものではないのである。
 
 で、その後は、割り込んできたおっさんと、割り込まれた若者との問で大乱闘が繰り広げられ……てなことには決してならない。だって、自分の前に割り込まれた若者が怒らないんだもの。
 
 とはいえ、全然気にしてない、というわけでもない。連れ同士で、「どうする〜 どうする〜」と、心細そうにささやきあっているのだ。私のところにまで聞こえてきているのだから、当然、割り込んだ人間の耳にも達しているはずである。が、割り込んだ側はと言えば、そんな「抗議にさえなっていない囁き」のことなど意に介することもなく、「まったく、こんなに並ばされるなんてイヤになるよ!」とわめいていたりする。
 (だったらとっとと出ていかんかいっ!)
 と、心の中で私は叫ぶ。
 
 なるほど、私だって、実際には「面と向かって怒る」なんて真似ができるわけもなく、「近ごろの若いもん」のことをどうこう言えた義理ではないのかもしれない。
 
 が、あくまでも自分の「後ろ」で起きている出来事なわけだから、私が怒るのは「筋違い」かな、とも思うわけだし、もしも自分の前に割り込まれたなら、きっと私はすごく怒るだろうし、そもそも、割り込みをしてくるような輩と関わりたくないからこそ私は、体を使ってガードをしたり、(私の前に割り込むんじゃねーよっ!)オーラを発しながら並んでいたりするのである。
 
「どこか適当なところに割り込んでやろう」と考えながら列に近づいてくる人間なら、おそらく、私のこのオーラをちゃんとキャッチしているほずである。だからこそ、今のところ私は、そういった目に遭わずにすんでいるのだと思う。
 
 で、「近ごろの若いもん」である。
 なぜ、そういった理不尽な目に遭った時に怒らない〜
 なぜ、そういった理不尽な目に遭いそうな時に自衛をしない〜
 
 たとえば、段取りの悪い主催者のせいで、無駄に長時間並ばされた時。
 たとえば、能力の低い店員のせいで、レジでトラブルに遭った時。
 たとえば、自身の支持母体以外に属する人間の側に立った政策を実行する気のない政治家のせいで、会社員の医療費の自己負担が一割から三割になった時。
 たとえば、日露戦争の戦費を捻出するために酒税が強化された時のごとく、発泡酒の税率が上がった時。
 たとえば、「団塊の世代は数が多いんだから」と、若年層は払った額よりも少ない額の年金しかもらえなくても我慢せよ、と言われた時。
 
「近ごろの若いもん」にとって、「イヤな思いをさせられる場面」はどんどん増えつつある。にもかかわらず、今の日本は、「若者の間に不平・不満が渦巻いている」といった空気からはほど遠い。これはいったいなぜなのか。
 
 もちろん一番に責められるべきほ理不尽な真似をする大人たちなわけだが、ああいう輩は、年を取るにつれて「良くなる」ことはありえないので、おそらく死ぬまで同様な言動を繰り返すことだろう。
 
 むしろ私が気になるのは、被害者となっている側の「近ごろの若いもん」の言動、すなわち、理不尽な目に遭っても、抗議することなく、「決まっちゃったことはしょうがない」で納得してしまっているその振る舞いについて、である。
 
 思えば、私の世代までは、たとえば、「世の中の理不尽に怒る人」=「女のくせに『働きたい』などとぬかすやつ」、という図式があった。私の世代がもの心つき、世の中のことがわかるようになった当時には、「日本」=「女だけがイヤな思いをさせられる国」、という図式が存在していたからである。
 
 ところがなんと、今の日本は、「女だけがイヤな思いをさせられる国」から、「男女ともにイヤな思いをさせられる国」へと変わりつつあるのである。
「女だけがイヤな思いをさせられる社会」 から「男女ともにイヤな思いをさせられる社会」へ。
 
 そう、これが、女である私にとっての、近ごろの日本に対する印象なのだ。そのことについてどう思うか、と問われれば、
「ざまあみさらせ♪」
 と言ってしまいたくなる、というのが、女である私の忌憚のない本音である。本音ではあるのだが、そんな本音を自覚した上で、なお、「けど、これってやっぱマズイんじゃないの……」、そう思っている私がいるのである。なぜこうなってしまったのか。
 
 今、この本を手に取っている人の中で、現在の生活に対して、何の不満も不快感も感じていない、という人ほあまりいないと思う。
(今、書いていて、勢いで「不安」という語句も入れそうになったが、「イヤ、それはこの本の主たる文脈とは違う」と思い、書かなかった。「不満」「不快感」と「不安」とは違うのである。例を挙げてみれば、国保や税金に対して抱く思いが「不満」であり、年金に対して抱く思いが「不安」である、と言えよう)
 
 とはいうものの、「一体何がほしいのか、一体何が不満なのか、そして、一体どこへ行きたいのか、それらすべてがわからない」、そう、まるで「あゆ」(浜崎あゆみ)の歌「BOyS&GirlS」の詞のような気持ちでいる人がほとんどである、とも思う。これらの「不満・不快感」を、「システム」だけに着目するのではなく、「人間」にも着目して読み解くとこうなる。
 
「一緒にいたい、と思える人」が少なくなった。
 いや、それどころか、「関わり合いになりたくない、と思える人」=「イヤなやつ」が多ぐなった、そんな気がするのである。こう書けは、「うんうん、確かに」、そう納得してくれる人は結構いると思う。年齢、性別にかかわらず、だ。このことと、「団塊ジュニアが社会人となり、圧倒的に数の多い団塊の世代&団塊ジュニアが、完全にこの国の主流派となった」ということとをすり合わせれば、はたしてどういった結論が導かれるのだろうか。
 
 私は何も、「昔はよかった」、と言いたいのではない。女である私にとって、「昔より今のほうがずっといい」、そう言いたくなる場面は数えきれないはどあるからだ。
 
 が、「昔より今のはうがずっといい」、そう言いたくなる場面は数えきれないほどある、にもかかわらず、「今の世の中は好きになれない」、そう言い切れてしまうのも、また事実なのである。
 なればこそ、その原因を見極めたい、そう思ってしまうのだ。
 
 あなたが今感じている「不満」「不快感」は、あなたが「男だから」、あるいは「女だから」、味わわされているものなのか。
 もしくは、男女にかかわらず、あなたがとある世代に「属しているから」、あるいは「属していないから」、味わわされているものなのか。
 
 私たちは、今の世の中の、一体何がイヤなのか。
 何が原因でそうなっているのか。
 どうすれば改善できるのか。
 あるいは、改善する術はもしかして存在しないのか。
(荷宮和子著「若者はなぜ怒らなくなったのか」中公新書ラクレ p15-22)
 
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 しかし貧しさ以上にイギリスの労働者にもっと堕落的な影響をおよぼしているのは、社会的地位の不安定さ、賃金でその日暮らしの生活をしなければならないこと、ようするに、彼らをプロレタリアにしていることである。
 
わがドイツの小農民の大部分もまた、貧しく、しばしば困窮に苦しんでいるが、しかし彼らは偶然に支配されることが少なく、少なくともいくらか安定している。しかしプロレタリアは、両手以外になにもなく、昨日稼いだものを今日食べつくし、ありとあらゆる偶然に支配され、最低限の生活必需品を手にいれることができるという保証さえまったくない
 
──恐慌がおこるたびに、雇主の気まぐれのたびに、彼は失業するかもしれない ──プロレタリアは、およそ人間が考えうるかぎりの、もっとも腹だたしい、もっとも非人間的な状態におかれているのだ。
 
奴隷はその主人の私利私欲によって、少なくともその生存を保障されており、農奴は一片の土地をもち、それで生活していて、奴隷も農奴も少なくともぎりぎりの生活は保障されている ──しかしプロレタリアはただ自分だけがたよりであるのに、自分をたよりにしていけるような仕方で自分の力を用いることができない状態におかれている。
 
プロレタリアが自分の状態を改善するためになしうることはすべて、彼がさらされている、そして彼にはどうすることもできないこの世の荒波の前では、バケツのなかの一滴の水のように消えてしまう。彼は、どのようにでも組みあわされる状況のなかの、自分の意志を失った物体のようなもので、ほんの短期間でもぎりぎりの生活を送ることができれば、まだしも幸運ということができよう。
 
そして自明のことではあるが、彼の性格と生活様式もまた、こういう事情に適応していく。彼はこのような渦巻のなかで水面に浮かびあがり、人間性を守ろうとするのか、そしてそれは、彼をこのように情け容赦なく搾取したうえで運命のままにほうりだし、こういう人間にふさわしくない状態にとどまるよう彼を強制する階級、つまりブルジョアジーにたいするはげしい怒りのなかでのみできることなのだが
 
──あるいは自分の状態についてのたたかいを無駄なこととあきらめて、できるだけチャンスを利用しようとする。節約してみてもなんの役にも立たない。なぜなら、どんなに貯えてみても、二、三週間食べていくのに必要なものぐらいなのだから──そしていったん失業すれば二、三週間ではすまないのだ。彼は永久に財産をもつことができないのである。
 
もし財産をもつことができるとすれば、彼は労働者であることをやめなければならず、そしてほかの人が彼の代わりになるだろう。したがって、もし高い賃金が手にはいるなら、それで暮らしむきをよくする以上に、なにができるだろうか? イギリスのブルジョアは、賃金が高いときに労働者が豊かに暮らしているのを見て、おどろき、猛烈に憤慨している
 
──しかし、彼らがお金を貯める代わりに、できるときには生活を楽しんでいる方が、まったく当然であるばかりでなく、まったく合理的なのである。こういう貯えは彼らにはなんの役にも立たず、結局は虫がついたり錆びてしまったり、つまりブルジョアに食いつぶされてしまうのだ。しかしこのような生活はほかのどんな生活よりも退廃的である。
 
カーライルが綿紡績工についてのべたことは、イングランドのすべての工業労働者にもあてはまる。
 
──略──
 
 カーライルは事実においてはまったく正しいが、ただ彼が上流階級にたいする労働者の荒々しい激情を非難している点だけは誤っている。
 
この激情、この怒りは、むしろ、労働者が自分の状態は非人間的だと感じ、動物にまで落とされたくないと思い、いつかはブルジョアジーへの隷属から自分たちを解放しようとしていかことの証拠なのである。こういう怒りを共有していない人がいることは、われわれも知っている
 
──彼らは、自分たちが出会った運命におとなしく服従し、できるだけ上手に誠実な個人としての生活を送り、世の中の動きには無関心で、ブルジョアジーが労働者の鎖をもっと固く鍛えあげるのを助け、工業化以前の精神的には死んだ立場に立っている──そうでなければ彼らは、運命にもてあそばれ、運命とたわむれ、すでに外面的には失ってしまったしっかりとしたよりどころを、内面的にも失い、漫然と日をすごし、ジンを飲み、女の子の尻を追いまわす
 
──いずれの場合も彼らは動物である。この後者こそ、「悪徳の急速な増加」のおもな原因となっているのであって、感傷的なブルジョアジーは自分でそのことのもとをつくりだしておきながら、それにおどろいているのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p178-181)
 
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◎幸福とはなにか……。つづけて学んでみよう。
 
 で、「近ごろの若いもん」である。
 なぜ、そういった理不尽な目に遭った時に怒らない〜
 なぜ、そういった理不尽な目に遭いそうな時に自衛をしない〜
 
 やはり私たちの働きかけです。それもエンゲルスの指摘している内容が理解できる働き手が大量に必要なんでしょうね。