学習通信031109
◎感覚についてD……好ましい感覚を生じさせる食べ物は──「五感のバランスのよいもの」
 
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おいしさは二つに分けられる
 
 観念的な定義だけではなく、我々は、おいしさを実生活の中でどのようにとらえているのかを知るため、筆者が教鞭をとる大阪大学の学生に次のような質問紙を配って自由に記述してもらった。
「あなたにとって『おいしい』とはどういうことですか〜 あなた自身の『おいしさ』 の定義を思いつくまま述べて下さい」
 
 表はその結果を筆者が整理し、分類したものである。この調査結果から判断すればおいしさは二つに分けて考えた方がよさそうである。一つは、体が必要としているものを摂取したときの快感であり、他の一つは、口腔感覚とくに好ましい味覚を感じたときの快感である。
 
 前者は、「空腹感やのどがかわいたとき」に水やジュースなどを飲んだり、「寒いとき」に温かいスープやお茶を飲んだときである。これは体が要求しているときにのみ好ましく、摂取により要求が満たされた後は原則としておいしいとは思わなくなるものである。それに対して、後者の好ましい感覚を生じさせる食べ物は「甘いもの」「五感のバランスのよいもの」であり、「飽きることなく食べたい」と思い、「満腹時でも食欲をおこす」ものである。
(山本隆著「美味の構造」講談社選書メチエ p18-19)
 
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 耳がさえずりをとらえるのと同時に、鼻には山の夜明けにあふれる瑞々しい息吹と、それを呼吸する樹木の涼やかな香りが飛び込んでくる。舌には、冷たく甘い山の空気が、まるで天のアイスクリームのように染み込んできた。かじかんだ両手は、空のなかに指を入れたような感触に満たされていた。
 
「ここは、空のはずれなのだ」
 さえずりも、空気の匂いも、風の味も、両手に伝わってくる空の感触も、それまでは一つひとつの情報でしかなかった。それがこの朝、空のはずれにたたずむ私のなかで、一つの景色として形となったのだった。そして、さえずりの向こうには、分からないうちに私の命を育んでくれた生命の連鎖が、まるでパノラマのように果てしなく広がっているのだった。そこには、自然の気があった。
 
 その年の秋、私は東京郊外の高尾山で、鳴く虫の女王と言われるカンタンの鑑賞会に参加し、また一つ、新しい出会いを経験したのである。
 
 この日、寺の本堂で話を聞かせてくれたのは、カンタンを育てて数十年という経歴の持ち主だった。この人は、「虫の身になって」を座右の銘として、カンタンがどんな植物のどの部分を好むかに始まり、どんな虫籠、どんなベッドならうまく繁殖するのか、卵の生育方法は、声の質はどうかなど、さまざまな角度からこの虫とつき合っていた。
 
 この人の話を聞くうちに、私はそれまで自分が、小鳥や動物のような個体単位の命にしか目を向けていなかったことに気づかされた。たとえば一羽の小鳥はたいてい何年かは生きるので、こうした命とつき合う私たちも、一つの個体の生死をめぐって喜んだり悲しんだりする。
 
 ところが虫は、一年ごとに一つの世代が生まれては消えて種を残す。だから虫とつき合う場合、一世代が死ぬことを愁える気持ちは起こらない。むしろ、親が死ぬと同時に卵が生まれるので、次の命への希望が芽生える。言ってみれば、一匹の虫を見るとき、私たちはその卵が翌年に新たな命を形作るという、一連の、再生の営みを見るのだ。
 
 探鳥会というなじみの言葉のほかに、「探虫会」という言葉があると知ったのも、この席であった。それ以来私は毎日、聞いた鳥の名前だけを書き留めていた「探鳥日誌」に、鳴く虫の声も書き込むようになった。
 
 こうして、景色としてではなく、命の集大成としての自然と正対すると、今度は植物のたてる小さな音の数々が耳に飛び込んできた。たとえば十一月の日光を歩いていると、広大な湿原には笹原がうなるように揺れ、水面から地表までの厚みが感じられる。シラカバ林はあくまで静まりかえり、鵜の毛で突いたほども音がない。九月の福島では、あとからあとから落ちる枯れ葉の重く乾いた音が一面に散らばるのを聞いた。紅葉の音である。
 
 そしてなによりも素晴らしかったのは、はるかな笹原が波打つ音で、自分の体に当たる前に風の存在を察知したこと。さらに、その昔の強さや方向を聞き分けることで、空を流れているであろう雲の動きを感じられたことだった。
 
 そのとき私は、地上から空を聞いた。
 野尻湖での五感の開眼、そして高尾山の探虫会に参加したころから、野鳥との出会いは、自然との対話に大きく広がっていった。いまでは野鳥を聞きながら、鳥声の向こうに、わが命を育む雄大な命の層を意識している。
 
 だから鳥たちに会うとき、彼らだけでなく、彼らを介して見えるすべての命に、「ご拝謁を賜り恐悦至極でございます」と敬意を込めてご挨拶している。そしてこの気持ちは私にとって、境遇や社会生活といったさまざまな枠に閉じ込められがちな現実にあって、人類という種に生まれたという精神の根源を忘れないための、精神生命の原点にも思えるのである。
(三宮麻由子著「鳥が教えてくれた空」NHK出版 p53-55)
 
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 味覚にたいする嗅覚は、触覚にたいする視覚と同じようなものだ。嗅覚はいろいろな物質がどんなふうにそれを刺激するかを味覚よりも先に知り、味覚に注意してやる。そしてあらかじめうける印象に応じて、あるものをもとめさせたり、さけさせたりする。
 
未開人はわたしたちとはまったくちがったふうに刺激される嗅覚をもち、よい匂い、悪い匂いをまったくちがったふうに判断するということをわたしは聞いたことがある。わたしもそれは十分信じられることだと思う。匂いそれ自体は弱い感覚だ。それは感官よりも想像力を刺激し、それがあたえるものよりも、むしろ期待させるものによって影響をおよぼす。
 
そうだとすれば、その生活法によってほかの人の味覚とはひじょうにちがったものになっている人の味覚は、味について、したがってまたそれを予告する匂いについても、まったくはんたいの判断を行なわせることになるはずだ。ダッタン人は死んだ馬の悪臭をはなつ肉をかいで、わたしたちの国の狩人が腐りかけた蝦蛄(しゃこ)の匂いを嗅いだときと同じ程度の快さを感じるだろう。
 
 たとえば花壇の花の匂いを感じるといったどうでもいいような感覚は、歩いてばかりいるので散歩などしたくない人、また十分に仕事をしないのでじっとしていることに快感をおぼえることのない人にはわからないだろう。いつも飢えている人は、食べられそうなものがあることを知らせてくれない香水の匂いなど、それほど快く感じることはできない。
 
嗅覚は想像力の感覚である。神経にいっそう強い調子をあたえ、それは脳に多くの刺激をあたえることになる。そのためにしばらくのあいだ気分をいきいきとさせ、そしてついには疲れさせてしまう。嗅覚は恋愛においてよく知られている効果をもつ。化粧室のあまい匂いは人が考えているほど役にたたない落とし穴ではない。
 
そしてわたしには、愛人が胸にさしている花の匂いに胸をわくわくさせるようなこともない、感じのにぶい、賢明な人を祝福しなければならないのか、それともあわれまなければならないのか、よくわからない。
 
 嗅覚は、だから、最初のころはそれほど強くはたらくはずはない。まだ情念がほとんど刺激することもない想像力は感動をうけることがあまりないからだし、まだ十分に経験がないので、ある感官がわたしたちに約束するものをほかの感官によって予知することができないからだ。このような結果は観察によっても完全にみとめられる。
 
そして大多数の子どもでは、この感覚がまだにぶく、ほとんどもうろうとしていることはたしかだ。それは子どもの感官が大人と同じ程度に鋭敏でないからではなく、たぶん大人より鋭敏なのだが、子どもはそれにほかのどんな観念も結びつけないので、それにともなう喜びや苦しみの感情に容易に動かされないからだし、それによってわたしたちのようになぐさめられたり、傷つけられたりしないからだ。
 
この説明法からはなれることなく、また、両性の比較解剖学の助けをかりることなく、なぜ女性は一般に男性よりも匂いに強く刺激されるかという理由を容易にみいだすことができるとわたしは信じている。
 
 カナダの未開人は若いときからひじょうに鋭敏な嗅覚をもち、犬がいてもそれを狩りにもちいようとはせず、自分で犬の役割りをはたすということだ。じつさい、犬が獲物を嗅ぎつけるように昼飯を嗅ぎあてるように子どもを教育するとしたら、たぶん、かれらの嗅覚をそれと同じ程度に発達させることができるにちがいないとわたしは考える。
 
しかしわたしは、結局のところ、この感覚から子どものためにそれほど有効なもちいかたをひきだせるとは思わない。ただこの感覚と味覚との関係を教えることは別だ。自然はわたしたちがどうしてもその関係を知らなければならないように心をくばっているのだ。自然は味覚のはたらきを嗅覚のはたらきとほとんど離れがたいものにしている。
 
それらの器官をすぐ近くにおき、直接に両者をつなぐ通路を口のなかにおいているので、わたしたちは味わうときにはかならず匂いを嗅ぐことになる。わたしはただ、この自然の関係を変化させ、子どもをだまそうとして、たとえばにがい薬を快い香料でつつむようなことをしないように望みたい。そのばあいにも二つの感覚の不一致はあまりにも大きく、子どもをだますことはできない。
 
よくはたらくほうの感官が他方の作用を吸収して、子どもがそれほどいやがらずに薬を飲むことにはならない。その嫌悪は同時にかれを刺激するどちらの感覚にもひろがる。弱いほうの感覚を感じるときにも、想像が強いほうの感覚も呼び起こすことになる。ひじょうにあまい香りもいやな匂いにすぎなくなる。こうしてわたしたちは思慮のない心づかいをして、不快な感覚の量を大きくし、快い感覚をへらしているのだ。
 
 つづく編において第六感ともいうべきものの修得について語ることがわたしに残されている。それは共通感覚と呼ばれるが、それはすべての人に共通のものだからというよりも、ほかの感官の十分によく規制された使用から生じ、あらゆるあらわれの綜合によって事物の性質をわたしたちに教えてくれるからである。
 
この第六感は、だから、特別の器官をもたない。それは頭脳のうちにあるだけで、純粋に内面的なその感覚は知覚、あるいは観念と呼ばれる。わたしたちの知識のひろさがはかられるのはそれらの観念の数によってである。精神の正確さをつくりだすのはそれらの観念の明確さ、明瞭さである。人間の理性と呼ばれるものはそれらの観念を比較する技術である。
 
そこで、感覚的理性、あるいは子どもの理性とわたしが呼んでいたものは、いくつかの感覚の綜合によって単純な観念をつくりあげることにある。そして、知的な理性、あるいは人間の理性とわたしが呼ぶものは、いくつかの単純な観念の綜合によって複合的な観念を形づくることにある。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p268-271)
 
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◎5つの感覚のすべてをルソーは説明しています。そして第六感です。「ほかの感官の十分によく規制された使用から生じ、あらゆるあらわれの綜合によって事物の性質をわたしたちに教えてくれる」というわけです。感覚についての話し終えたルソーは、理性へと話しをすすみます。