学習通信031108
◎感覚についてC……一般に、人がもっとも好きになれないのは、いろいろと手をくわえた料理ということになる
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味覚の機能
四つの機能
味覚機能の第一は、いま食べているものがおいしいかまずいかの判断をすることである。おいしい、つまり、快感を呈すれば摂取行動に移り、まずいという不快感が生じればその食べ物を忌避し、飲み込まないようにする。一般においしいものは、栄養物やエネルギー源など体にとって都合の良いものであり、まずいものは、有害物、有毒物、腐敗物などの体にとって都合の悪いものであるから、おいしさ・まずさが判断でき、それに応じた行動をとれば生きていくことができるのである。
これはアメーバ、ゾウリムシなどの単細胞生物の示す走化性、線虫、ハエなどの下等動物の示す誘引行動、忌避行動に対応する。こうした感覚情報を直接行動に結びつける神経回路とほ別に、脳の発達した動物で生じる快・不快の感情は、味を記憶するうえでも重要な働きをする。
第二の働きは、ホメオスタシス(体内恒常性)の維持である。ナトリウムイオンやブドウ糖のように体に必要なものは、体内で一定の濃度を保つ必要がある。これらの必須栄養素が欠乏すると、探し求めて摂取しょうとするのであるが、その際、欠乏物質が無性に欲しくなり、それを口にすると非常においしく感じるのである。
疲れたときは甘いものが欲しくなるし、食塩が欠乏すると普通なら飲めないほどの濃い食塩水がとてもおいしくなることが知られている。のどが渇いているときの最初の一杯のビールは全然苦いと思わないが、飲み進むうちに、だんだんビールの苦味を感じるようになってくるのも右記のことと関連があると思われる。
味覚機能の第三は、おいしいもの、まずいものの味の質的特徴を分析し、記憶に留めることである。おいしいもの、まずいものは最初に経験したときに学習し、それを記憶に留め、次回からはその味を手掛りとして一口味わっただけで、摂取行動または忌避行動を生じさせるのである。食べ物の好き嫌いや、偏食など食物の選択行動に関与する味覚機能と考えることができる。味の学習や記憶については、第八草で詳しく述べる。
第四番目の味覚機能は反射的に生体反応を誘発することである。味による顔面表情変化、唾液分泌、消化管の運動と分泌、ホルモン分泌などである。味の刺激で唾液が分泌されたり、内臓消化器系の運動や分泌が盛んになるのは、咀嚼(そしゃく)中や嚥下後の消化、吸収を促すことに通じる。なお、消化液の分泌や消化管の運動は、味の刺激のみならず、食べ物を見たり、においをかいだり、あるいは想像するだけで活性化する。これは脳からの自律神経の作用で生ずるので、「脳相」の分泌とか運動と呼ばれる。(p82-84)
──略──
味覚の発達
味覚のハードとソフト
「味覚はいくつ位から発達するのでしょうか」といった漠然とした質問を時折受けることがある。質問者の意図としては、未熟な味覚機能を持つ赤ちゃんが次第に味を感じるようになり、味の識別能や好き嫌いの嗜好性の面で大人と同じ味覚機能を発現するようになるのは、何歳頃だろうかというものである。この質問に答えるためには二つのことを明確にしておかねばならない。
赤ちゃんの味覚機能は未熟なのだろうかという点と、年をとりさえすれば自然に味覚機能は成熟するのだろうかという点である。そのためには、味刺激を受容するための味蕾(みらい)はいつごろ完成するのかという末梢受容器の発達と味覚の識別・認知・学習などの脳機能の発達の二つの側面を考える必要がある。
味蕾の発生や発達に関する研究結果によると、味蕾は胎生三週目には認められるようになり、出生時には、形態的にはほぼ完成しているとされている。母体の子宮の羊水中に苦い味の物質を入れると、胎児の口の動きは止まってしまうが、甘い味の物質を入れると、口の動きはより活発になる。出生直後の赤ちゃんの口の中に、砂糖水(甘味)、クエン酸(酸味)、キニーネ溶液(苦味)を入れると、それぞれ特有の顔面、口、舌の運動を誘発することも知られている。
これらの知見は、基本的な味覚機能はすでに出生時には備わっていることを示唆するものである。ただし、生後三カ月までは、食塩に対する顔面表情変化は生じないこと、ラットを用いた実験でも食塩に対する応答は他の味刺激に対して少し遅れて始まることが示されていることから考えて、マクロな味蕾構造は完成していても、味細胞表面膜での食塩の受容機能の完成には生後数ヵ月を要する可能性がある。いずれにしても、離乳食の始まる頃には、口の中で味の刺激を受け取る機能は問題なく発達しているはずである。
味覚情報を処理し、適切な行動をとらせるのは脳の働きである。先に述べたように、味覚誘発性の表情変化などは、生後間もない赤ちゃんで観察されることから、呼吸中枢や血液循環など生命活動に必須の働きを司る脳幹郡での味覚反射の機能は、出生時にはすでに完成されていることがわかる。このように遺伝的に決定されている基本的な味覚機能はよしとして、問題は食べ物の味の識別や嗜好性はいつ形成されるかである。これには二つの大きな要因を考える必要がある。
一つは、上位脳の発達過程であり、もう一つは、食経験の豊かさである。ここで、上位脳というのは、脳幹部以上、とくに、大脳皮質のことであるが、食物の認知とそれを食したときの味の性質やおいしさ・まずさの嗜好性などの情報の分析、記憶などは大脳皮質の発達と大いに相関する。未発達の状態で生まれてくる大脳皮質は生後急速に発達し三つ子の魂百までといわれるように、ほぼ三歳頃に完成すると考えられているので、成熟した味覚機能の発達は三歳位まで待たねばならない。
しかし、これは成熟した味覚機能発現のための各人共通に持つハード面の発達であり、いわゆるソフト面の発達は個人的な食体験によるものである。何をいつ、どのように食べたかが大切である。離乳食から普通食に至る過程で、多くの種類の食材、食物を好き嫌いの偏りのないように食べさせる母親の努力が重要である。
親から子に食嗜好性が移る
味覚機能をより拡大した食行動の発達ということに関しては、広島修道大学の今田純雄教授らの興味深い調査結果があるので紹介したい。離乳間もなくの幼児はあらゆるものを口に運ぶので、たばこ、電池、硬貨などの誤飲事故が起きる。母親から与えられる食物を食べるという経験を積み重ねることにより、食物とは何かを認識していくのである。
離乳食開始期(七カ月)、一〇ヵ月、一三ヵ月にわたって、一〇の食品群(果物、麺・パン類、乳製品、菓子、ご飯類、野菜類、卵類、魚介類、肉類、海藻類)についての嗜好度を追跡調査した。一般にこの時期にはどの食品も好まれ、好き嫌いの顕在化は認められないが、七カ月から一〇ヵ月の間に、やや好き嫌いが増加する傾向にあった。
興味深いことに、男女児ともその嗜好は母親と似ていて、有意の相関を示したが、父親とは似ていないこと、また、第一子は他に比べて好き嫌いの度が低い、つまり、弟や妹に比べて何でも食べるという結果が得られた。次に、幼稚園児を対象に一〇九種の食品について両親との食嗜好の類似性について調べた。この時期になると、好き嫌いがかなりはっきりしてくるのであるが、その好き嫌いは親子の間でよく一致することがわかった。特に母親との一致度が父親よりも高いのである。このことは、噂好形成には特に母親の存在が大きな影響をもつことを意味している。
もう一つ興味深い知見は、相対的に嗜好の低い(あまり好まれない)野菜類や肉・魚介類に対する園児の食嗜好は、同性の親(女児と母親、男児と父親)の食嗜好とより強く一致するということである。このことは、これらの食品群は、性差をより強く反映するものであることを示唆している。上記の結果はなるはどとうなずかせるものであるが、研究者によっては必ずしも同じ結果が得られていないので、研究の方法が異なれば異なった結果が得られる可能性もあることを指摘しておかねばならない。
動物でも親から子に食嗜好性が移るという興味深い実験結果がある。視床下部の摂食中枢に刺激電極を埋め込んで母ネコを飼っておき、肉とバナナを用意して母ネコがバナナに近づいたとき、電気刺激を与える。このようにすると、食べないはずのバナナを母ネコは食べる。この母ネコの摂食行動を子ネコに見せると子ネコはバナナを食べるようになる。母ネコは摂食中枢に刺激を受けて強制的にバナナを食べさせられているのだが、子ネコは母ネコの食べるのを見て学習し、「これは食べるものだ」との認識を得たものと考えられる。
学習と文化的研究
親子の間というより、群全体への伝播であるが、サルの世界にも似た話がある。宮崎県石波海岸沖約二〇〇メートルの日向灘にある周囲約四キロの幸島(こうじま)という小島で、昭和二六年に野ザルの餌付けに成功した。間もなく、一匹の雌ザルが餌のイモに付いた泥を海水で洗い、塩気を付けて食べるようになり、これが群全体に広まった。この行動は、学習によって子孫に伝えられるようになり、人間文化の伝わり方に似ていることから注目を集めたとのことである(朝日新聞、一九八四年一月二四日)。
最初の質問「味覚はいつ発達するのか」に対して、「基本的な味覚機能は出生時に備わっていて、三歳頃から高次の味覚機能は完成していくが、その程度は個人差があり、いかなる食経験を積んだかに依存する」というのが私の回答である。本来忌避するはずの苦い味を含むビールやコーヒーが本当に好きになるのはかなりの経験を積んだ後である。ビールの場合、法的に解禁される二〇歳を過ぎてからになることが多い。食経験とともに自然に味覚能が発達する場合の他に、強制的にある味(食べ物)を経験させられ、発達させられる場合もある。
これに関して、本来は避けるはずの刺激作用を持つカブサイシソ(唐辛子の辛さのもとになる物質)を含むキムチについて興味深い話がある。韓国では、辛いキムチを食べることが大人の、特に成人男子の必要条件であって、子供の頃から大人になるための儀式のような感じで強制的に食べさせるというのである。しかし、さすがに最近は子供の自由に任せる家庭も多いとのことだが、このように、社会的、あるいは、文化的圧力によりある特別の食物に対する食行動(味覚機能、食嗜好)が発達させられることもあるのである。(p103-108)
(山本隆著「美味の構造」講談社選書メチエ p82-108)
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わたしたちはこうして、わたしたちの体との関連における外部の物体の状態、それらの重さ、形、色、固さ、大きさ、距離、温度、静止、運動を十分に知ることになった。わたしたちが近づいていいもの、遠ざけたほうがいいものを、それらの抵抗にうちかつには、あるいはそれらに傷つけられるのをふせいでくれるものを対抗させるにはどうしなければならないかを、わたしたちは教えられた。
しかし、それだけでは十分でない。わたしたち自身の体はたえず消耗していく。それはたえず更新される必要がある。わたしたちはほかの物をわたしたち自身の肉体に変える能力をもっているとはいえ、それを選ぶことはどうでもいいことではない。
すべてのものが人間の食料になるわけではない。そして食料になりうるものにも、人類の身体組織、その人が住んでいる風土、個人の体質、さらにその人の身分によってやむなくされている生活条件、そういうものから考えていっそう適当なものとそれほど適当でないものとがある。
わたしたちに適当な食物を選ぶために、経験がそれを知り、それを選ぶことを教えてくれるのを待たなければならないとしたら、わたしたちは飢えて死んでしまうか、あるいは毒物のために死んでしまうだろう。しかし、至高の恵みは、感覚的な存在者の快楽をかれらの自己保存の手段としてあたえ、わたしたちの口に快く感じられることによって、わたしたちの胃に適当なものを教えてくれる。
もともと、人間にとっては、自分の食欲よりもたしかな医者はない。そして、人間を原始状態において考えれば、その時かれがいちばんうまいと思った食物がいちばん健康にいいものでもあったことは疑いないと思われる。
そればかりではない。万物をつくる者は、かれがわたしたちに感じさせる必要をみたしてくれだけではなく、さらにわたしたち自身がつくり出す必要をもみたしてくれる。そして必要のかたわらにつねに欲望をおくことにして、わたしたちの好みが生活のしかたとともに変化し、変質するようにしている。
わたしたちは自然の状態から遠ざかるにしたがって、ますます自然の好みを失っていく。あるいはむしろ、習性が第二の自然となり、わたしたちはそれをすっかり第一の自然に代えてしまうので、わたしたちのだれ一人としてもはや第一の自然を知らなくなっている。
そこでもっとも自然な好みはもっとも単純な好みでもあるはずだ、ということになる。それはもっとも容易に変わる好みだからだ。ところが、わたしたちの気まぐれのために鋭くされ、刺激されると、それはもはや変化しない形をとる。まだどこの国にも所属していない人は、どんな国の習慣にも苦もなくなれることができる。しかし、ある国の人間はもはやほかの国の人間にはなれない。
このことはあらゆる意味において真実であるように思われる。未来の意味の好み、味覚について言えば、なおさら真実であるように思われる。わたしたちの最初の食物は乳だ。わたしたちは徐々にしか強い味覚になれることができない。最初のうちはそういうものが好きになれない。果物、野菜、草、そして最後に、なにかの肉をあぶったもの、味つけもせず、塩気もつけないものが、太古の人間のごちそうだった。
未開人がはじめて酒を飲むと、顔をしかめて捨ててしまう。わたしたちのあいだにおいてさえ、二十歳になるまで醗酵飲料を味わったことがない者は、年をとってもそれになじむことができない。だから、若いころに酒を飲まされなかったら、わたしたちはみんな酒ぎらいになるにちがいない。結局、わたしたちの味覚は単純であればあるほどいっそう普遍的なのだ。一般に、人がもっとも好きになれないのは、いろいろと手をくわえた料理ということになる。
水やパンがきらいな人があったためしがあろうか。それが自然の示していることだ。だからまた、わたしたちの規則となることだ。子どもにはできるだけその最初の好みをもちつづけさせるがいい。食物はありふれた単純なものにし、口をあっさりした味だけになれさせるように、そして好き嫌いが生じないようにすることだ。
そういう生きかたがいっそう健康的であるか否かをわたしはここで検討するのではない。わたしはそんなふうに考えてみようとするのではない。そういう生きかたのほうが好ましいと考えるには、それがもっとも自然に一致したもので、もっとも容易にほかのどんな生きかたにも適応できることがわかればわたしには十分なのだ。大きくなってから口にすることになる食物に子どもをなれさせなければならないと言ってる人は、まちがった考えかたをしているように思われる。
子どもの生活がまったくちがっているのに、どうして食物が同じでなければならないのか。労働、心配、労苦に疲れはてた大人は、新たな生気を頭脳にあたえるおいしい食べものを必要とする。遊びたわむれたあとの子どもは、体が成長していく子どもは、乳糜(にゅうび=乳でつくった粥(かゆ))を多量につくる豊かな食物を必要とする。さらに大人は、すでにその身分、仕事、住居がきまっている。しかし、運命が子どもにもたらすものをだれが確実に知ることができよう。
どんなことにおいても、子どもにきちんときまった形式をあたえて、必要が生じたときにそれを変えることにひどくつらい思いをさせるようなことはしまい。フランスの料理人をどこへでも連れて歩かなけれは、ほかの国へ行って飢え死にするようなことをさせまい。
食べることをこころえているのはフランス人だけだ、などといつか言わせるようなこともしまい。ついでに言えば、これはおかしなほめことばではないか。わたしなら.はんたいに、食べることを知らないのはフランス人だけだ、と言うだろう。フランス人が口にすることのできる料理をつくるにはまったく特別の技術が必要なのだから。
わたしたちのさまざまな感覚のなかで、味覚は、一般的にいって、わたしたちにもっとも強い刺激をあたえる。だからわたしたちは、ただわたしたちをとりまいているだけの物質よりもわたしたちの体の一部となる物質を十分によく判断することにいっそう大きな関心をもつ。触覚、聴覚、視覚にとっては無数のものがどうでもいいものだが、味覚にとってはどうでもいいというようなものはほとんどなにもない。
さらに、この感官のはたらきはまったく肉体的で物質的なものだ。この感覚だけはぜんぜん想像力にうったえることがない、とまでは言えなくても、この感覚には想像力が関係することがもっとも少ない。ところがほかのすべての感官の印象には、模倣と想像がしばしば精神的なものを混じえる。だから、一般的にいって、心のやさしい、そして快楽を好む人々、情熱的で、ほんとうに感じやすい性格の人々は、容易にほかの感覚によって動かすことができるが、そういう人も味覚にたいしてはかなり冷淡なのだ。
このことは味覚をほかの感覚よりも劣ったものとし、それをわたしたちに楽しませる傾向をいっそういやしいものとしているらしいが、まさにそのことから、わたしははんたいに、子どもを指導していくうえにもっともいい方法はかれらを口によってひきまわすことだ、と結論するだろう。食いしん坊という動機はとくに虚栄心という動機よりも好ましいと言える。
食いしん坊は自然の欲望にもとづき、直接、感官に結びついているが、虚栄心は臆見(おっけん)がつくりだしたもので、人間の気まぐれとあらゆる種類の誤りに左右されるからだ。食いしん坊は子どものころの情熱だ。この情熱はほかのどんな情熱にたいしても抵抗できない。すこしでも対抗するものがあらわれると、それは消えてなくなる。
まあ、わたしの言うことを信じていただきたい。食べもののことを考えるようなことは、子どもはあまりにもはやくやめてしまうだろう。そして心がいっぱいになれば、口のことなどほとんど考えなくなるだろう。大きくなればさまざまの激しい感情が食いしん坊を忘れさせ、虚栄心ばかりかきたてることになるだろう。この虚栄心という情念はひとりでほかの情念を利用し、やがてはそれらをすべてのみこんでしまうのだ。
おいしいものを重要視して、目をさましたとき、きょうはなにを食おうかと考えているような人、そしてポリュビオスがある戦闘を記述しているとき以上の正確さをもって食事のことを記述している、そういう人をわたしはときどきしらべてみたことがある。わたしは、そういういわゆる大人がすべて、たくましさもしっかりしたところもない四十歳の子どもにすぎないこと、「食うために生まれてきた」人間にすぎないことを知った。食いしん坊はすぐれた資質をもたない人々のもつ欠点だ。
食いしん坊の人の魂はその口のなかにあるにすぎない。かれは食うためにつくられているにすぎない。愚かでなに一つできないかれは食卓についたときにだけその場所にいる。かれには料理のことしかわからない。そういうことは残念がらずにかれにまかせておこうではないか。わたしたちのためにもかれのためにも、ほかのどんな仕事よりそういう仕事のほうがかれにはふさわしいのだ。
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それに、子どもにどんな食事をあたえるにしても、ふつうの単純な料理にだけなれさせることにすれば、あとは好きなように食べさせ、走りまわらせ、遊ばせるがいい。そうすれば、子どもはぜったいに食べすぎるようなことはせず、消化不良を起こすようなこともないと思ってさしつかえない。
しかし、長いあいだ腹をすかせておくようなことをすると、そして、子どもがあなたがたの目を盗む方法を発見するようになると、かれらはできるだけのことをしてつぐないをつけ、腹がいっぱいになるまで、はちきれるまで食うことになる。わたしたちの食欲に際限がなくなるのは、自然の規則とは別の規則をあたえようとするからにほかならない。
たえず制限したり、命令したり、つけくわえたり、へらしたり、わたしたちはなにをするのにも秤を手にもっている。しかし、この秤は、わたしたちの気まぐれを基準にしているのであって、胃袋を基準にしているのではない。これについてもやはりわたしはじっさいに見たことをひきあいにだす。農家では、パンの箱も果物の倉もいつもあけっぱなしだが、子どもも大人も同じように、消化不良ということはどういうことか知らないのだ。
それにしても、わたしの方法でやればありえないことだとは思うのだが、子どもが食べすぎるようなことがあったら、なにかかれの好みにあった遊びでそれをやめさせるのはじつにやさしいことで、子どもは知らないうちに栄養不良でやつれさせてしまうことだってできるだろう。まったく確実で容易な方法がどうしてどの教師にもわからないのだろう。
ヘロドトスが語っているところによれば、リュディア人はひどい飢餓にせまられて、空腹をまぎらし、何日間も食うことを考えることなくすごさせるような競技やそのほかの遊びごとを工夫することになったという。あなたがたの博学な教師はたぷん百回もその文章を読んでいるのだが、それが子どもに適用できるとは気がつかなかったのだ。
かれらのうちのだれかは、子どもというものは喜んで食事をやめて学課を勉強しにいくものではない、と言うかもしれない。先生、あなたのおっしゃるとおりだ。わたしはそういう楽しみごとは考慮にいれなかったのだ。(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p256-268)
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◎人間の存在をまさに左右する感覚=c…。
「わたしたち自身の体はたえず消耗していく。それはたえず更新される必要がある。わたしたちはほかの物をわたしたち自身の肉体に変える能力をもっているとはいえ、それを選ぶことはどうでもいいことではない。」
「労働、心配、労苦に疲れはてた大人は、新たな生気を頭脳にあたえるおいしい食べものを必要とする」と。