学習通信031105
◎家族に何がおこっているのだろうか……。
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大阪府河内長野市の家族殺傷事件で逮捕された長男の大学一年生(一八)と高校一年の女子生徒(一六)はともに「自殺願望」を口にし、奇抜なファッションに身を包んで二人だけの世界にふけっていた。事件の背後には、同じような服装やドクロの飾り、黒い化粧などで、死のイメージをファッション化する若者たち独特の価値観やえん世観が潜んでいる。
「邪魔なお互いの家族を殺し、ニ人だけの時間を過ごしたら一緒に死のうと考えていた」。女子生徒の供述は衝撃的だった。自宅で母親を殺害し、父親と弟に重傷を負わせたとされる学生は当初「自殺の道連れ」と話したものの、その後、今月一日に二人で双方の家族を全員殺害する計画を立てていたことを認めた。
ただ学生は父親や弟が病院に運ばれ、自宅は誰もいないと考えて現場に戻ろうとして捕まったし、女子生徒の計画では、遺体と一緒に「二人だけの時間」を過ごすことになっていた。捜査員は「おぼこい」と驚いた。
独りぽっち
女子生徒は落ち着いた様子で取り調べに応じ「自分は独りぼっち。彼だけが分かってくれる」と打ち明けたという。
「こんな不出来で手間の掛かる不可解な人間に付き合うなんて、皆さんも奇特なお方たちです」
女子生徒が中学の卒業文集に寄せたこの文章を読み、京都女子大教授(精神病理学)の野田正彰さんは「自分は優れているという意識が強い。凡庸でない自分が凡庸でない学生と出会ったと、思っているのだろう。リストカット(手首を切ること)をしたというが、自分の意思で死を操作できると思うことに快感を感じている」と指摘する。
女子生徒が作ったとみられるホームページ。自作の詩は「血」「死」「性器」などの言葉があふれ、血まみれの手首や顔に包帯を巻いた写真も。教師の父は「うるさい(声が)」、同じく教師の母は「うざい(触るな)」と表現するが、近所の人は「仲のいい家族」と口をそろえる。
事件当日に更新されたHPのトップには「往(い)ってきます」。
学校の外ではゴシック・ロリータ(ゴスロリ)″と呼ばれる黒ずくめのファッション。手帳には学生と顔を寄せ合った写真シールと一緒に「ギロチン」「虐殺」などの青葉が記されていた。
ゴスロリは学生も大学に入ったころから看るようになり、女子生徒とは「ビジュアル系ロック」の趣味も合った。「家族と接触がない」と学生は友人に漏らしたが、事件数目前から母親と深夜話し込んでいたという。
「いい子の反動」
一九九八年に自殺したビジュアル系ロックバンド「X JAPAN」の元ギタリストhide(ひで)。ゴスロリのファン多く、後追い自殺が相次いだ。大阪で活動するビジュアル系バンドの男性(一九)は、「ファンは破滅的な印象を好み、病んでいることを美しいと思っている」と話す。
リストカットした少女らを数多く取材してきたフリーライターの今一生さんによると、ゴスロリは中世貴族とメード服のイメージから「従順」の象徴で学校や家で「いい子」にしていて期待に応えようとする若者があこがれる。その反動から、死やこの世の文脈で語れない世界を求めるという。
「学生の『世の中が嫌になり、死ぬ道連れにした』という当初の供述はうそではない。言う通りにいい子できたのに、未来が見えず絶望した。どうせなら女の子と死にたいが、家族に復しゅうもしたいと思ったのではないか」と今さん。女子生徒は「家族殺害計画という物語に酔っただけだと思う」と分析する。
(京都新聞 031105)
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子供が家族と過ごす時間
モリソン
実際問題として私は、このテーマを議題別に分けることは非常に困難だと思いま少なくなってきていると思います。いまの子供たちは、起きている時間帯のうちの最も長い部分、三〇%から三五%を一人で過ごしています。
次に長いのは、他の子供たちと遊んだり、うろついたりして一緒に過ごす時間です。それに較べると、両親や、教師を含むほかの成人と過ごす時間は、本当に、本当に短くなっています。
第二点は、子供も大人も、ますます多くの経験に、私たちの文明の中で全く新しい経験に、次々と遭遇していることです。昔は、これほど生活が変化することはありませんでした。もし五百年前だったら、両親や周囲の大人たちの行動を見て、そのまねをすれば良かった。
両親の寿命は、いまよりずっと短かかったけれども、社会も、もっと静的な状態にありました。ところがいまは、余りにも多様な活動があります。子供たちだけでなく大人にとっても、それらを真に理解し、子供に指針を示すことが困難になっています。
例えば、消費主義です。子供を標的にした消費主義は、どのような衝撃を子供たちにもたらすでしょう。テレビはどうでしょう。テレビの暴力シーンは、子供たちの心理状態に悪影響を与えると言われています。これについては非常に論議されていますが、テレビゲームはどうでしょう。
テレビゲームの衝撃について、私たちは、まだほとんど理解していません。あるいはまた世代間の隔離状態や、家族の規模の変化、社会構造の変化などといったものが、子供たちに与える影響があります。
つまり、この問題に関しては、もっと多くの情報が必要とされていると私は思います。しかしながら、情報を求めようとしても、そこには非常な困難が伴います。技術が余りにも急速に進化しているので、青少年の生活に次に衝撃を与えるものが何か、私たちには良く分からない面があります。<チャールズ・モリソン ー ハワイ東西センター学長>
(江崎玲於奈 他「家族の力はとりもどせるか」中公新書ラクレ p7-11)
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性役割意識の変化と専業主婦世帯の減少
性役割意識が変化していることも、家族・結婚をめぐる環境として押さえておかねばならない点だろう。
内閣府の二〇〇二年「男女共同参画社会に関する世論調査」によると、「夫が外で働き、妻は家庭を守るべきだ」との考え方への賛杏が四七・〇%で並び、調査開始以来、もっとも反対意見が多くなった。つまり、男女性分業への意識が本当に大きく変わりつつあり、性役割を当然と思わない人が増えてきたということだ。わずか五年前の九七年調査では五七・八%の人が賛成の立場だったのだから、まさに性分業への意識は変わってきているといえる。
年齢別に見ると、「反対」とする者の割合は二〇歳代から四〇歳代で高くなっている。女性の仕事についても、「子どもができても職業を続ける」が三七・六%と、九七年調査より四・五ポイント増加した。性役割意識が若い世代で急速に変化していることは間違いない。
また、サントリー不易流行研究所の調査(狭間恵三子レポート『日本経済新聞』二〇〇二年九月八日付)によると、良好な夫婦像について、五〇代夫婦では「妻が専業主婦で、夫がイニシアチブを取ることで平穏な関係を保っている」という声が多かったのに対し、三〇代夫婦では「夫婦の会話量や内容が豊富」「夫婦一緒の行動」「夫が仕事など妻の生き方をサポート」という要素が見られた。とくに三〇代女性は、「経済的役割さえ果たせば夫として合格」とは考えておらず、夫に家事分担などを求め、男女間にズレが目立っている。
専業主婦世帯が減っているという事実も見ておかねばならない。
専業主婦(結婚している女性で非労働力となっている者)の数は、一九八〇年ごろまでは増加したがその後減少している。とくに、サラリーマン世帯の専業主婦の数は、着実に減少しており、結婚している女性のなかでのサラリーマン世帯の専業主婦の率は八〇年に三七・一%であったものが、二〇〇〇年には二六・五%にまで低下している。
つまり、「夫がサラリーマンで妻が専業主婦」ということを制度設計のときの前提にはできなくなってきているのだ。だが、新聞などの各種試算ではまだその「妻が専業主婦」モデルばかりが扱われているのが現状だ。
女性の社会進出はまだまだ増加する
家族をめぐる状況の変化という点では、被雇用者として働く女性が増えており、今後いっそう増えるであろうという点も見過ごせない。
女性の社会進出といわれて久しいにもかかわらず、意識上では、女性の幸せは結婚し母になること、仕事はそれまでの腰掛け、家庭と両立させるためにはパートなどでよいと考えでいる人がまだ多い。
だが、雇用者全体のなかでの女性割合は増えつづけており、二〇〇一年で四〇・四% (二一六人万人)となっている。つまり、男性:女性=六:四である。
また、女性の非労働力人口のうち就業を希望する者を加えた「潜在的な労働力率」を年齢別に見ると、図表6のように子育て期に労働力率が落ち込む「M字型カーブ」はほとんどなくなり、先進諸国と同じような台形型に近づく。日本型性分業による特徴的な「M字型カーブ」を形成する二五〜三九歳の女性においても働きたいと希望している者は多く、どの年代でも八〇%を超える。
つまり、仕事に就きたいと思っているが適当な仕事がないという理由から仕事探しをしていない「潜在失業」者や、家庭との両立が可能な仕事がないから仕事を探していないとする者がまだ多いのである(『平成一四年度版労働自書』参照)。
このような状況を考えると、女性の働きやすい環境が整っているスウェーデンでは女性の労働力率(女性のうち労働力となっている者の割合)が七四・八%(一九九九年)なので、日本の女性の労働力率四九二一%(二〇〇一年)はまだまだ低く、上昇の余地は多いと考えるべきであろう。
つまり、女性は現在でも被雇用者として社会をかなり担っているが、今後環境が整えばいっそう働く女性が増え、共働きも増加していくのは間違いないと見ていいだろう。そして、その事実から、今後の家族のあり方、男女関係のあり方を考えるべきであろう。
このように働く女性が増えているために、保育所を利用している家庭が増加しており、さらに保育所の待機児童数(認可保育所への入所待ちをしている児童)も増加している。その数は、二〇〇二年四月一日現在で三万九八八一人(前年より約四七〇〇人増)。施設数(二万二二七二カ所、前年比五人カ所増) や入所者数(一人七万九三四九人、前年比五万一二一二人増)は少子化村策で拡大しているものの、入所希望者が都市部を中心にこれを上回る勢いで増えでいるためである。
子育ての閉塞感が問うもの
女性の社会進出が進んでいるのは事実だが、にもかかわらず、相変わらず(働いていようと専業主婦であろうと同じように)女性に育児役割が集中しているという問題がある。総務省の「社会生活基本調査」(二〇〇一年)でも、夫は「家事・育児など」に一日平均三六分しかかかわってないのに対し、妻はその人・四倍の五時間二分かかわっている。
働く女性の割合(労働力率)は、育児を担う三〇代前半で五八・八%(二〇〇一年)、三〇代後半でも六二・三%で、男女平等、女性の社会進出が進んでいる西欧各国と比べると、かなり低い状態が続いている。家事、とくに育児のために仕事を辞める女性が多いので、いわゆるM字型就労の状況が続いているわけである。
そのなかで、子どもの養育に責任をもたされている女性たちの閉塞感は、何かしらの発想の転換が社会に必要なことを知らせているように思うのだが、どうであろうか。
以下は、『読売新聞』の子育て企画に届いた読者からの悩みである。
──略──
このように、自分のやりたいことができないいらだち≠多くの母親はもっている。それを母親になったのだから、子育てを第一に考えなさい、昔の人はそんなことを考えなかったと諭してすませられるであろうか。
非婚や離婚が増え、家族・結婚というものを再考しなければならないという時代状況は、こういう女性の閉塞的意識とも、またつながっているのである。
過去に戻れという主張は有効か
だが、ここまで見たような新しい状況に対して、「家族を大事にしないわがままな人の増加」というように個人の責任に帰する発想の人がまだ多い。
最近の学校の荒廃や子どもたちの犯罪についても、「父親がガツーンと怒らないからダメなんだ」「母親が社会参加を優先して子育てをおろそかにするからだ」というような父性(父親)復活論、母性復権論を目にすることは多い。
林道義の一連の主張──『父性の復権』(中公新書、一九九六年)、『主婦の復権』(講談社、一九九八年)、『フェミニズムの害毒』(草思社、一九九九年)──はその代表例であろう。
自民党の亀井静香は、「少子化の原因は男がだらしなくなったから。家が狭いとか共稼ぎとか、それも理由の一部だが、一番は男性がだめになり生物学的にもオスの機能を果たさなくなったから。女性からみてきらめくような男性がいなくなった。まず結婚したがらないでしょ。この人の子どもを、という気にならない。たくさん仲人をしたけどね、離婚は全部女性から。父親が母親から尊敬されないとだめ。
(中略)児童手当とか、金でつったってだめ。それも整備すればいいが、それだけで少子化がなくなるか。国家が誇りと自信をもつことです。土下座外交していて、日本男児が育つはずがない」(『朝日新聞』二〇〇二年三月二九日付)と話している。
ある有名プロゴルファーも、二〇〇二年の新聞で次のように語っていた。「子育ては何より母親の存在が重要。父親はたまに怒ったり、誉めたりするだけで十分。大事なところでがつんと衝撃を与えるくらいでいい。子どもは母親の胸を、父親の背中をみて育つのが一番いい。最近はその母親が母親の第一の義務を忘れている」
じつはこうした保守的な議論は別に目新しいことではなく、戦後の家族に関する理論にその原型を見ることのできるものであった。
すなわち、フロイトやユングの精神分析学、社会学のパーソンズの人格形成理論などでは、近代家族を前提に男女・父母の区分に基づく家庭像を描いていた。父性・母性の両方があってこそ正しい家族となるという考え方である。それの亜流には、男女の脳の違い、動物的な機能の違いがあるとして、それをもとに家族のあり方、男女のコミュニケーションのあり方を説くような議論もある。
つまり、依然として、役割・性質の異なる父母がいて子どもを育てていく家族というものが社会の基本単位という発想に立って、「父は父らしく、母は母らしくあれ」という父性の復権論、母性の復権論を唱えているわけだが、こうした主張は現在の状況に本当に有効に機能するのだろうか。
(伊田広行著「シングル化する日本」洋泉社新書 p24-33)
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一般的にいって資本主義的な搾取やそのもとでの政治の矛盾は、そこでくらす人々の生活にさまざまな困難をもたらしますが、人間性の根幹を破壊しかねないほどの深刻な作用を及ぼす場合があります。働く人々のくらしを守るルールが弱く「ルールなき資本主義」ともいうべき今日の日本は、まさにそういうケースではないか。これが、私たちが、独自の柱として位置づけた理由です。
労働のあり方と子育ての関係をみてみましょう。
日本は国際的にみて長時間労働の国ですが、なかでも子育て世代が、もっとも長時間労働をしいられています。子育ては手間ひまがかかる営みです。その最中に親が極端に長時間働けば、家庭生活や子どもの人間形成にいい影響をあたえるはずがありません。しかも、日本では核家族化が進み、父親(母親)不在は深刻なダメージです。
国際調査をみると、平日、子どもと接触する時間がほとんどない父親の割合はアメリカではわずか〇・九%なのにたいして、日本は一八・八%にものぼります。また、「単身赴任」というアメリカやヨーロッパでは考えられないことが平気でおこなわれるのも日本ならではです。
子どもが一人で朝食や夕食をたべる「孤食」がひろがっていることも、ここ十年くらいマスコミなどでも問題になってきましたが、こういうことも世界では例がありません。食事をいっしょに食べるという、社会性や人間関係をつくる土台のような時間もままならない社会のあり方がとわれます。
おとなもそうですが、とくに子どもにとって豊かな人間関係があることは、それこそ空気のように必要なことです。ところが、この空気のように必要なものが平然と奪われているのが日本の現状ではないでしょうか。
私たちの「よびかけ」を読んで、あるマスコミの記者の方が「私も単身赴任だ。身をつまされる話だ」と述べられましたが、この分野の国民の要求は、政党支持や考え方とか生活水準などの違いをこえた、ほんとうに切実な要求だと思います。
《マルクス、エンゲルスの告発》
じっは資本主義のもとでの過度の労働が人間性を破壊することは、マルクス、エンゲルスの時代からおおきな問題となっていました。当時イギリスの工業部門では、資本のあくなき利潤追求により、女性をふくむ過酷な成人労働、際限ない児童労働などが広がり、労働者階級の生活を一変させてしまったのです。マルクスやエンゲルスがそれを痛烈に告発したことはいうまでもありません。
「自分の子供の世話をし、生まれた最初の一年間にも、ごくふつうの愛育さえ子供に示す余暇もない母親、自分の子供の顔をほとんど見ることさえできない母親は、これらの子供にとっては母親であるはずがない。彼女は必然的に愛児にたいして無関心となり、愛情もなく、やさしい心づかいもなく、まるで赤の他人の子供のように自分の子供を取り扱うにちがいない。
そして、このような状態のなかで成長した子供たちは、大きくなると完全に家族の命取りとなり、自分でつくつた家族のなかでも、たった一人の孤立した生活しか知らないので、うちとけた家族的な気分にさえなれない」(エンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」全集第二巻三七六n)
「九歳や十歳の少年が、三時間の休憩だけで六十時間もぶっ通しで働くとは! 労働者が教育をおろそかにしているなどと雇い主に言わせてはならない。前記の一人、わずか九歳の少女アン・Bは、その六十時間のあいだ疲れ果てて床に倒れて眠り込んでしまった。だが、起こされて、泣き叫んだが、また仕事をさせられたのだ!」(マルクス「好況−労働問題」一八五三年十一月三十日付「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」全集第九巻四六八n)
そして、マルクスが指導した第一インタナショナルは、この問題を重視して、第一回ジュネーブ大会で次のようにたたかいをよびかけました。
「労働者階級の啓蒙された部分は、自分自身の階級の将来、したがってまた人類の将来がひとえに若い労働者世代の育成にかかっていることを、十分理解している。何よりもまず、児童と年少労働者を現行制度の破壊的作用からすくってやらなければならないことを彼等は知っている。これは、社会的理性を社会的な力に転化することによってしかなしとげられない」(マルクス「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」一八六六年九月三〜八日、全集第十六巻一九一n)
「社会的理性を社会的な力に転化する」とは、立法によって労働時間を制限したり、児童の教育を保障したりすることです。イギリスの労働者階級は長年この課題にとりくみ、その結果、労働時間や児童労働の制限、近代学校の制度を実現させていきました。
時代はことなるとはいえ、私たちの日本社会でも、「社会的理性を社会的な力に転化する」──ルールある経済社会をつくる「日本改革」が、子どもやおとなたちの人間性をまもるうえでも、まったなしの課題となっている。このことを強調したいと思います。
日本共産党の「よびかけ」では、労働のルールのほかに、国連から指摘された「過度に競争的な教育制度」、政治家による「レイプ容認」発言など政治の世界での深刻なモラルの崩壊、侵略戦争という最大の暴力にたいするまともな反省が日本の支配層に欠けている問題などを、今日の道義的な危機の根本にあるものとして指摘しました。ここでふれる余裕がありませんが、それぞれ世界からみても例がないような歪みであり、その克服は労働のルールと同様、大切な課題です。
(月刊「前衛」12月号 「社会の道義的危機の克服への日本共産党の提案」p26-29)
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──略──女性が工場で働くことは必然的に家庭を完全に解体させる。そしてその解体は、家族を基盤としている今日の社会状態においては、子どもにたいするのと同様に夫婦にたいしても、もっとも彼らを堕落させる結果を生むか子どもの世話をする時間もなく、一歳までのあいだ、子どもにごくふつうの愛情さえしめす時間のない母親、ほとんど子どもを見ることもできない母親は、子どもにとって母親とはいえない。
彼女は必然的に子どもにたいして無関心になり、愛情もなく、心づかいもなく、まったく他人の子どものようにあつかうに違いない。そしてこういう状態のなかで成長した子どもは、のちに家庭にはまったくあわなくなり、孤立した生活しか知らないために、彼自身がつくった家庭のなかでも家庭的な気分になることができず、そのために、すでに労働者のあいだにひろがっている家族の解体を、さらにすすめることとなる。同じような家族の解体は子どもが働きにでることによってもすすめられる。
子どもの労働がひろがり、両親が子どもを養うのに必要な費用以上を子どもが稼ぐようになると、あるきまった金額を食費および部屋代として両親に支払い、残りを自分のために使いはじめる。こういうことがしばしば、すでに一四歳や一五歳のころにおこる(工場報告のなかのリーズにかんするパワーの報告、各所と、マンチェスターについてのタフネルの報告、右ページなど)。
ようするに、子どもたちは自分を解放し、両親の家を下宿屋と考え、その家が気にいらなければ別の下宿屋ととりかえることもしょっちゅうである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態」 p214-215)
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◎資本主義そのものが人間の生活を破壊するのです。一人ひとり(夫婦)も問われていることに間違いないのですが、それ以上に資本主義社会そのものを改革しなければ……。
◎「社会的理性を社会的な力に転化する」……。「資本論」第8章・労働日で深く学びます。