学習通信031102
◎不倫・浮気……「その媚薬とは、禁忌(きんき タブー)を犯すという罪の毒ではなかったかと思いつづけてきた」
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一度惚れた女の面倒を最後までみる
男が生きていれば、多少の波風はあります。離婚の慰謝料や、愛人の子どもへの養育費。
坂本竜馬の言葉で、鐘にたとえて、「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く」
拾った愛も捨てた愛も、もとは巡り合った愛です。相手の心に最後まで大きく響くような男になってください。
わけあって、離婚した建設会社経営の五十代のお客様。自分が乗っていたベンツを奥様に取られてしまったので、しばらく現場に乗りつけるための従業員用の軽自動車で銀座に来ていました。
体が大きい人で、見るからに窮屈そうに体を車内に押し込めて、ハーハーと吐く息で、フロントガラスが曇っていました。西銀座地下駐車場から出て来たのを見たときは、その心意気に惚れちゃいそうになりました。
しばらくして、元奥様が病気で入院ともなると、むしり取られた高額な慰謝料もなんのその。自分から申し出て、個室の費用を出してあげて……。気持ちまでは離婚できていなかったのですね。
「できる男」「できない男」。
されど、男ですから、一度でも惚れた女の面倒くらいは一生みると腹をくくってほしいもの。
そうじゃなければ、男じゃない。
本当のことでも、それが明らかな事実でも、
他人に話してはいけないのが、
銀座での恋愛ルールです。
口に出せない秘めた思いだから、
おとなの恋と呼べるのだと思います。
二人はおままごと気分でも、気がついて陰で悲しんでいる奥様がいるのです。
不倫は最後まで隠し通す覚悟があるときだけにしてください。
「できる男」は、自由な分だけ、背負う責任も重いものです。
(ますいさくら著「銀座のママが教える「できる男」「できない男」の見分け方」PHP文庫 p128-130)
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不倫
王妃イズーとその甥トリスタンはうっかりと媚薬を飲みかわしてしまう。二人は犯してはならない不倫の恋を突き進み、そして死に至る。<いやいや、それは葡萄酒ではない。それは情熱だ。激しい喜悦だ、無限の苦痛だ、して、それは死だった!>
(ベディエ編『トリスタン・イズー物語』 佐藤輝夫訳)
ケルト民族に古くから伝わる説話が中世に完成されて、西欧の恋愛情熱概念を形作り、恋愛小説の源となった。
トリスタンとイズーが飲んだ媚薬とは一体何だったのか。それは愛だったという人もいるが、僕はそうは思っていなかった。その媚薬とは、禁忌(きんき タブー)を犯すという罪の毒ではなかったかと思いつづけてきた。毒そのものの中に喜悦があり、苦痛があり、当然のごとく死がある。それを知っていればこそ、甘美な陶酔があり、絶望があり、愛はいやがうえにも高まっていくのだと。
「あんた、私の亭主と姦通したのね?」
「今時、姦通とは言わねえだ」
「じゃ、不倫だわ。不倫の罪の意識はないの?」
「おら罪の意識はないだ。愛しあったんだ。おら真剣だったんだ」
(映画『午後の遺言状』 新藤兼人監督)
最近の日本映画の中では最高に味わい深い作品だった。その一場面だけど、この会話のやりとりの中に、不倫という形の恋愛のもつ意味が見てとれるような気がする。
亭主を寝取られた女優(杉村春子)の台詞になんともいえない敗北感が漂うのは、不倫というものが恋の中の恋であることを知っているからであり、さぞや二人の心は燃えあがったであろうと想像しないではいられないからである。
そして不倫をはたらいた方の女(女優の別荘香、乙羽信子)の堂々としたものいいは、不倫こそが真実の恋であり、私はあんたの亭主とそういう仲だった、現実の生活の上では一緒になれなかったけれど、魂は固く結ばれていたのだ、という勝利宣言を匂わせているからである。その不倫の忘れ形見に今や二十歳になった娘までいる。
女優は亭主と日常生活を積み重ねて愛を延々と育んできたに違いないが、愛だけで人間は満足できない。亭主は知らぬ間に別荘番の女と人生の出会いをして、恋に陥っていた。そう、人間には情熱というものがあり、それは時々ある対象をみつけて燃えあがらないではいられない。大抵の場合不倫という恋をする。
遅すぎた恋、ままならぬ恋、一緒に暮らせない恋、許されない恋、人の道に背き、つらく苦しく、胸かきむしる恋。嫉妬にもだえ、絶望に身を焼く恋。不倫こそが真の恋だと思いつつ一層愛する人への思いを募らせていくのである。「愛しあったんだ。真剣だったんだ」とはそういう意味である。
がしかし、いかに真剣だったとしても、この二人が結婚でもして一緒に暮らしたりすれば、退屈な日常生活が始まり、愛は確かに育っていくかもしれないが、やはり人間はそれだけで満足はできず、行き場を失った情熱は「恋がしたい、恋がしたい」とわがままを言いだすのである。これは仕方のないことなのだ。人間に情熱というものがあるかぎり。男も女も。
むしろ結婚生活そのものを情熱の対象にしている人の方が、もしいたとしたら、例外的な幸福な人といっていいのではないだろうか。
大抵の女性は一生に一度くらいは死ぬの生きるのといった不倫の恋に身を焼いてみたいと思っているに違いない。でも実際には勇気がないし、そういう対象にも中々出会えない。だから間に合わせに本を読んだり、映画やテレビの不倫ものに胸ときめかしている。『マディソン郡の橋』や『失楽園』が大ベストセラーになったことを見ても、女性の深層心理における不倫願望は明らかであります。
ただし不倫は浮気ではない。つまみ食いでもない。恋である。しかも毒ある恋である。歓喜と破滅が隣合わせになっている危険な恋である。
妻ある男と独身の女。独身の男と家庭のある女。男も女も家庭のある身。そういう二人が、出会ってしまったのである。人と人の出会いは神の意思である。宿命的なものだ。好きになってしまって気がついたら不倫だったのだ。だからといって引き返せないからこそ恋なのだ。恋には法則も方法論もないのが原則だ。
想像もしなかった人と恋に陥り、まさかと思われるようなトラブルを引き起こし、まわりの人には迷惑をかけ、悩みに悩んだあげく世間からは白い目で見られる。その中でのたうちまわったり、世間を敵にまわしてにつちもさっちもいかなくなって死んでしまったりする。
はたから見たら、禁忌を犯した何やら罪深い汚れたものに見えるかもしれないが、そういう悪徳があればこそ、不倫は世にも美しい物語を生むのだ。
『クレーヴの奥方』『緋文字』『ボヴアリー夫人』『チャタレイ夫人の恋人』『肉体の悪魔』『アンナ・カレーニナ』『フェードル』『それから』『美徳のよろめき』『武蔵野夫人』『薪能』『海市』『愛しい女』…‥・恋愛小説の傑作はほとんど不倫小説だし、映画だって『死んでもいい』『死刑台のエレベーター』『逢びき』『旅愁』『旅情』『ライアンの娘』『ドクトル・ジバゴ』『逢う時はいつも他人』『ピアノ・レッスン』……とヒット作はかぞえきれない。
で、その女主人公たちには不倫の恋もやむをえないとするような理由が用意されている。たとえばボヴァリー夫人の、夫の凡庸さによる死ぬほどに退屈な結婚生活とか。チャタレイ夫人の、夫の不能による生きながら死んでいるかのような生活とか。フランチェスカ(『マディソン郡の橋』)の、若い頃に夢見ていたものとはかなり隔たりのある現在の生活とか。
不倫の理由は「生活」の中にある。現実の生活にいささかの不満もない女が一体何人いるだろう。しかもその一人一人がみな「情熱」を持っているのである。あとは「出会い」を待つばかりだ。出会いさえあれば、理由はいくらでもあとからついてくる。実に危険がいっぱいの毎日を女性たちは送っていることになる。
<わが夫は生きてゐらるる、しかもわが心は恋に燃え立つ! 誰のために? わが願いを掛くるは如何なる人の心ぞ?>
(ラシーヌ『フェードル』 吉江喬松訳)
道ならぬ恋に身を焼いたフェードルは毒をあおって死ぬ。
不倫ほど愚かな情熱はない。しかし不倫の毒をあおることを夢見ない人がいるだろうか。
<ドルジェル伯爵夫人のような心の動きは、時代おくれなのだろうか?>
(ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』江口清訳)
揺れ動く女心は、永遠に新しい。
(なかにし礼著「恋愛 100の法則」新潮文庫 p439-444)
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Lesson1
なぜ「不倫はいけない」のですか
「好きになった人が、たまたま奥さんのいる人だった。人を好きになることがいけないことなのか」というのは、不倫の当事者が述べる典型的な台詞である。
少なく見積もっても、20代後半から30代の経済力ある未婚女性の3人に1人は不倫をしている、と私は推測している。どうやら彼女たちは、不倫を結婚とは違う上級な「恋愛」と考え始めているようだが、そんな彼女たちに「不倫がなぜいけないことなのか」を説明することができるだろうか。
そもそも「不倫」とは何を意味するのか。
辞書を見ると、「不倫」とは、「道徳に反すること。特に、男女の関係が人の道にはずれること」(『大辞林 第二版』)と記されている。
また、不倫の同義語である「姦通」は、「(1)男女が道徳や法にそむいて情を通ずること。不義。密通。(2)夫または妻が、他の異性と肉体関係を結ぶこと。旧憲法下の刑法では、妻が夫以外の男と肉体交渉をもつことをいった」とある。
このように「不倫」と「姦通」という言葉を比べてみると、「姦通」は妻が夫以外と肉体関係を持つという意味合いが強い。他方、「不倫」は妻に限らず、男女が広く道徳に反する関係を持つといったニュアンスがある。
男女関係における道徳とは、何だろうか。
家父長制と姦通罪
日本の場合、昭和22年に刑法が改正されるまで、刑法第183条に「姦通罪」が規定されていた。また、妻の姦通は民法上の離婚理由だった。すなわち、妻が夫以外の男性と肉体関係を持つと、夫から離婚請求が可能となり、妻は姦通罪で処罰された。
他方、夫には姦通罪の適用はなく、既婚女性と肉体関係を持ち、女性の配偶者から告訴された場合にのみ、例外的に「姦淫罪」で罰せられたに過ぎない。相手が未婚女性であるかぎり、妾を何人かこってもお咎めなしで、離婚理由にもならなかった。
民事裁判の場では、夫から妻の姦通相手に対する損害賠償請求が認められた。妻の姦通は「夫権」の侵害とみなされたからだった。つまり、「妻が夫以外とは関係を持たないこと」「妻の性的な魅力・能力を独占すること」が夫の権利とされたのである。これは、妻を夫の所有物とする考え方に他ならない。当時の一部の裁判官は、夫にも貞操義務があると唱えたが、それは支配的な考え方ではなかった。
余談として、昭和初期に男性が女性の妾同様の生活をしていたケースもないではない。岡本太郎の母親でもある作家・岡本かの子(1889〜1939)は晩年、夫・岡本一平と若い医師の恋人と、3人で同居していたという。妻妾同居、ならぬ「夫妾同居」である。これはかなり珍しいケースではあるが、家父長制が完全に人々の行動を支配していたわけではないことがうかがえる。
話はもとに戻るが、妻の姦通は家父長たる夫の名誉を傷つける。妻が浮気相手の子供を産むことは、家督相続の面で家制度の根幹を揺るがす。ゆえに姦通は非難の対象となった。すなわち、夫婦関係以外の男女の結合が倫理的・社会的に非難されるべきかどうかを判断する道徳的基準は、家父長制にあったのである。
戦後の不倫と夫婦観
それでは、戦後はどうなのか。
昭和21年、新憲法が制定され、男女平等の世の中となった。民法の改正によって相続や婚姻関係においても男女の平等がうたわれ、刑法の姦通罪も削除された。「姦通」という用語は過去の姦通罪と混同されるので、徐々に裁判からも姿を消し、「不倫」または「不貞行為」という用語が使われるようになる。
かつての姦通、すなわち今日の不倫においては妻だけが責められるのではなく、夫も、そして不倫相手も等しく非難されるようになった。
現在の民法下の裁判では、不倫相手の行為は「婚姻共同生活の平和の維持という権利または法的保護に催する利益」を侵害するものとして損害賠償(慰謝料)請求が認められている。また不倫に伴う夫婦間での慰謝料請求は、夫婦が相互に負っている「貞操義務」の違反が根拠とされる。
つまり、一夫一婦制の下で夫婦が結婚生活を平和に送るためには、互いに貞操を守ることが必須である。不倫と知って肉体関係を結んだ者は、このような平和な夫婦生活を送るという権利または人格的な利益を侵害したに他ならない。だから不倫は「不法行為」であり、配偶者の権利を侵害し精神的苦痛を与えた不倫相手は、慰謝料を支払う必要があるのだという。
以上の論理では、夫の権利・妻の権利の内容を、家父長制的「家」及びその名誉の維持というものから、夫婦の共同生活の「平和」というものに置き換えたとみなすことができる。
現在の憲法は第9条を筆頭に「平和憲法」と称されるが、国家間に限らず、夫婦間においても「平和」の重視が、不倫を非難する根拠となったのだ。
この結果、例えば夫婦関係が破綻した後に不倫関係が始まった場合には、保護すべき「婚姻共同生活の平和」が存在しないので、不倫は配偶者の利益の侵害にはならず、不倫相手は慰謝料を払う必要がない。またこの場合には、夫婦間でも不倫についての慰謝料の支払義務は生じない。
夫婦共同生活の平和を保護すべき利益と捉える現在の考え方は、家制度の維持を目的としていた旧憲法下の考え方よりも妥当に思える。
配偶者の責任と不倫相手の責任
しかし現在の判例が、不倫をした配偶者だけでなく、不倫相手にも慰謝料の支払義務を認めていることには批判も強い。不倫相手への慰謝料請求は制限すべきだと主張している学者も多い。
不倫によって配偶者が精神的苦痛を被ることは確かだとしても、第一義的な責任は、貞操義務を破った夫や妻の側にある。これを横において、不倫相手ばかりを攻撃するのはいかがなものか。妻、夫の立場にいるというだけで、慰謝料を請求する根拠を与えているのとかわらないのではないか。公の機関が、当事者である夫婦以外の第三者の恋愛問題に立ち入るべきではない、という考え方だ。
この批判にはそれなりの説得力がある。
判決で認められる不倫相手が支払う慰謝料の額が一般に300万円未満であるのに対し、不倫をした配偶者が支払う慰謝料はこれを上回る傾向があるのは、こうした意見への考慮が働いているからだろう。
夫婦の平和は、お互いの積極的な努力なくして得られるものではない。もし、第三者の干渉によって平和が乱れたとすれば、干渉を許した当事者こそが非難されるべきである。
裁判は社会の変化に半歩遅れて追随する。そして、画期的な判決が出ることによって法改正に結びつく。今後は、不倫は夫婦間のプライベートな紛争であって、公の場で非難される問題ではないという判断も出てくるかもしれない。
宗教的な戒律が人の生活を縛ることが少ない日本人にとって、生活の規律であった道徳や常識が著しく相対化した現在、何が倫理的に良くて、何が悪いのかを判断することは難しくなっている。「不倫だって恋愛の一種。幸福追求権(憲法第13条)の問題だ」と主張する人だっているだろう。
不倫はいけない。配偶者を裏切ることになる。でもそれは、裁判所すなわち国家権力が介入するような問題なのだろうか。
(日野いつみ著「不倫のリーガル・レッスン」新潮新書 p14-20)
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浮気心について
「浮気」とは何だろうか。辞書をひらいてみると「心のうわついて変わりやすい性質。男女の愛情の変わりやすいこと」と書いてある。それなら、落ちついて一つことに打ちこみ、愛しあって一緒に暮らしている男女には、浮気心はないものだろうか。いいえ、特別の人をのぞいては多かれ少なかれ、あるものだろう、と私は思う。男にも女にも、若い人にも年寄りにもー人間は困ったことに、誰しも「飽きる」という性質を持っているものだから。
どんなにおいしくて栄養のあるご馳走も、毎日並べられればうんざりする。たまには屋台のおでんも食べてみたくなるのが人情というもの。貞女でりこうで、よけいな口をきかず、こづかいがなくなるころには、そっと財布に何枚かのお札をいれておいてくれるような、やさしい美人の女房でも、長い間、毎日朝晩顔つき合わして、同じように気をつかわれれば、どうしても飽きがくる。
そのあげく、言いたい放題のじゃじゃ馬女に、ふっと心をひかれ「あんないい奥さんがあるのに、ばち当たりな……」とまわりの人たちを嘆かせる。よくある話である。
人間は誰しも浮気心を持っているもの、ことに男は……と、わかっていても、夫の浮気を無理もない、と割り切れる妻はいない。それなら、なんとかして食いとめる方法はないものだろうか。
女房が先に立って、家庭に「変化」を持ちこんで、亭主に「飽き」を感じさせないこと、それがいちばんいい方法だ、と私は思う。といっても、この物価高に、どう家計簿をひねくっても、夫が帰宅するたびに眼をみはるほど家の中のたたずまいを変えるわけにはとうていいかない。ただ「できないのが当たり前」と思いこまないことが大切である。なにしろ、できないはずの浮気どめをしよう、というのだから。
「買えないから仕方がない」と、ふだん着のブラウスや寝巻のゆかたが、垢づいても、ほころびてもすましているのは、夫の浮気の手伝いをしているようなもの。「私にはこの髪しか似合わない」とがんこに思いこまずに、たまには変わった髪型を工夫する。しわにアイロンはかけられなくても、ときには顔もそり、うす化粧をしてもみる。
たいていの夫は、自分のために粧う妻を、ふっと見直す。外出のときだけ大騒ぎする奥さんが多すぎるから……。畳替えやふすまの張り替えまでは無理でも、机や椅子の位置を変えるようなささいなことも、まず、してみることである。
そして、それよりも大切なのは気持ちの上の変化である。食後のあとかたづけもときにはサボって、夫の傍にすわり、夫の好きな野球や拳闘のテレビを一緒に見れば、夫は得意になって説明してくれるだろう。ルールがわかれば自分も楽しく、互いのひいきでロげんかするのも、変化の一つ。
つまり浮気心を小だしに、すこしずつ溶かしてしまう、という涙ぐましい努力である。そしてそれを重ねれば、妻自身も「飽き」を感じることもなく、したがって「浮気心」もおきず、まずはめでたしめでたし、というわけになればいいけれど……どうかしら。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p166-167)
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昔のわりあい自由な性交は、対偶婚の勝利をもっても、ないしは個別婚の勝利をもってさえも、決して消滅しはしなかった。「古い婚姻制度は〔いまや〕ブナルア集団の漸次的な消滅によっていっそう狭い範囲に縮小されていったが、それでも、発展していく家族をとりまき、文明のあけぼのにいたるまでそれにつきまとった。
……それはついに、婚外性交という新しい形態のなかに消滅していったが、この形態は、家族のうえにたれこめる暗い影のように、文明時代のなかまで人類につきまとっている」。
モーガンは、婚外性交〔英語でヘテリズム〕という語を、個別婚とならび存する、男と未婚の女との婚姻外での性交、と解しており、こうした性交は、周知のように、文明時代の全期にわたって千差万別の形態でさかえ、ますます公然たる売春に変じていく。
この婚外性交は、まったくじかに集団婚に、女性が貞操の権利をあがなうためにはらった肌身提供の犠牲に、源を発すを金銭ひきかえでの肌身まかせは、最初は一つの宗教的行為であって、それは愛の女神の神殿で行なわれ、金銭はもともとは神殿の金庫に流れこんだ。
アルメニアのアナイティス女神やコリントスのアブロディテ女神のヒエロドゥーレ〕、さらにはいわゆるバヤデーレと呼ばれるインドの寺院付属の宗教的な舞姫は、最初の売春婦であった。肌身提供は、もともとはあらゆる女子の義務であったが、のちにはほかのすべての女の身代わりとして、もっぱらこれらの巫女たちによって行なわれた。
他の諸民族にあっては、婚外性交は、婚姻前に乙女たちに許された性的自由にじかに源を発する──だから、これもまた集団婚の残澤(ざんし)であって、ただ別の径路をへて今日に伝えられているだけである。
財産の不同が生じるにつれて、したがってすでに未開の上段階に、奴隷労働とならんで賃労働が散発的に現われ、また同時に、賃労働の必然的な相関物として、女奴隷の強制的な肌身提供とならんで女子自由人の職業的売春が現われる。
このように、集団婚が文明時代に遺贈(いぞう)した遺産は二面的なものであって、それはあたかも、文明時代の生みだすすべてのものが二面的で、二枚舌的で、自己分裂的で、対立的であるのと同じである。
つまり、こちらには一夫一婦婚が、あちらには売春というそれのもっとも極端な形態をふくむ婚外性交があるというわけである。婚外性交は、他のすべてのものと同じくまさしく、一つの社会的制度であって、それは昔の性的自由を存続させる──男子のために。
実際にはそれは大目に見られているだけでなく、とりわけ支配階級によってさんざんやられているのに、口先のうえでは非難される。
だが実際には、この非難の的になるのは、それにくわわった男たちでは決してなく、女たちだけである。彼女たちは追放され排斥されるが、それは、こうして女性にたいする男子の無条件な支配を社会の根本法則であるともう一度宣言するためになされるのである。
だがそれとともに、一夫一婦婚そのものの内部に第二の対立が発展してくる。自分の生存を婚外性交によって楽しいものにする夫のかたわらには、夫にかえりみられない妻がいる。そしてリンゴは半分食ってしまえば、まるまる一個はもう手に残らないのと同じように、対立の一面は他の一面なしにはありえない。
それにもかかわらず、夫たちは妻に迷いをさまさせられるまでは、それがありうると思っていたらしい。個別婚とともに、以前には知られなかった二人のおさだまりの社会的役者が登場する。妻のおさだまりの色男と妻に間男された夫がそれである。
男性は女性にたいして勝利をはくしたが、勝者に冠をかぶせる仕事は高潔なことに敗者が引きうけた。個別婚と婚外性交とならんで、姦通が不可避な社会的制度になった──厳禁され厳罰に処されはするが、しかしこれを防遏(ぼうあつ)することの不可能な社会的制度に。
子どもたちの父たる身分の確実性は、あいかわらずせいぜい道徳的信念に立脚していただけであって、この解きえない矛盾を解くためにナポレオン法典第三三条はこう規定した。すなわち、「婚姻中に受胎された子の父は──夫である」。これが、三〇〇〇年にわたる個別婚の最後の帰結である。(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p91-93)
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◎わたしたちの周辺にも「不倫・浮気」というものを聞くことがあります。それは何を意味しているのでしょうか。エンゲルスから学んでみたらどうでしょうか。当人たちにもおすすめします。