学習通信030922
◎無限こそが神にふさわしいなら、このときこそが神の出番である。宇宙の始まりの一撃を加える役だ……。
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そのようなことを思うとき、私にとって最初のファインセラミック材料となるフォルステライトの開発は、いってみれば、まるで歩いていたら大きな石に当たったような感じさえ受けるのです。知的な作業を合理的に進めていた結果、そこにたどり着いたというのではなく、知識もないまま手当たりしだいに、いろんなことを試しているうちに、まぐれ″で当たったものであるかのようにさえ思えるのです。
さらに不思議なことは、「こんなことはもう起こらないだろう」と思っていたら、そのまぐれ″が、後々もずっと続いたことです。私は、人生のいろいろな場面で、このまぐれ当たりに遭遇しました。このことを私は、神様あるいは「サムシング・グレート」というような存在がつくった、「知恵の蔵(真理の蔵)」ともいうべき場所がどこかにあって、私たちのひらめきや発想は、その蔵から出てくるのではないかと考えたことがあります。
その「知恵の蔵」に行くには、何も専門的な知識がなくてもいいのです。ある状態のときに、その蔵から漏れてきたものに触れ、新しいイマジネーションなり、ひらめきなりが得られるのではないかと思うのです。
そう考えないと、私のような知識や経験のないものが、十分な設備のないなかで、世界に先駆けた発明などできるはずがありません。私は若いころに、そんな不思議な経験を何度もして、そのように考えるようになりました。
また、このことを強く感じましたのは、若いころ、ヨーロッパに行ったときです。ドイツのある街で、地下鉄の駅からローマ時代の遺跡が発掘されたというので、見学に行きました。そこにはタイルでつくられたモザイク状の石畳が残っていたのですが、これがほんとうに素晴らしい色彩と図案で構成されており、現代の一流の作品と比べてもまったく遜色ないものでした。現在も優秀なデザイナーたちがさまざまな図案を発表していますが、同じように優れたものを、ローマ人はおよそ二千年も前に描いていたのです。
これも、優れたデザインの源ともいえる「知恵の蔵」がどこかにあって、そこからにじみ出たものにたまたま触れた人がローマ時代にも現在にもいた、ということではないでしょうか。つまり、われわれ人類が新たに創造したように見えるものも、もともとは宇宙の「知恵の蔵」のなかにあるもので、それをある状態に至った人々が受け取っただけのことだと思うのです。
エジソンにしても、決して知識をたくさん持っていたわけではありません。それなのにひらめきにひらめきを重ね、現在の電気工学の基礎を完成させ、蓄音機から電球まで、現代にも通じるさまざまなものを発明していきました。これはまさに、宇宙の「知恵の蔵」から漏れてきたものをエジソンが感じとって、それを表現したということではないでしょうか。そうでも考えなければ、あれほど次から次へと、インスピレーションを重ね、発明を続けてきたエジソンの業績を理解することはできません。
アインシュタインにしても同様です。こうしたクリエイティブな業績を残した天才たちは、みな選ばれし人々で、彼らは創造主から「知恵の蔵」への道を教えてもらったのかもしれません。
そんな彼らが、創造性を発揮して、人類や社会をリードしてくれているように私は思うのです。何のことはない、創造とは宇宙の創造主がそういうふうに知恵を分配してくれて、よき方向に人類を導いてくれている、そんな感じがするのです。
(梅原・稲盛著「新しい哲学を語る」PHP p176-178)
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ニュートンの力学の決定性とその背景
ニュートンの力学の精髄はその運動概念の分析にある。運動は,物体が空間内を時間の経過とともに位置を変える現象であるから,そこには物体および物質概念,時間と空間の概念,そして運動の原因となる作用への考察が必要であった。
彼は全く空虚な空間の枠を考え(カントのいう直観形式),そこに物体がおかれると想定する。すなわち物体の存在は空間とはまったく独立である。そして運動にかかわる物体の性質は,基本的には形や大きさとは無関係で,すべてそこに含まれる物質の量一質量一に帰せられるものと抽象化する。
物体がこのように質点化されれば,その位置は空間内の一点で表わされ,運動は点の時間的変化という動的な幾何学の性質を帯びる。直線を基本とするエウクレイデス的な幾何学の括像との関連で,静止を含む等速直線運動を基本とする慣性の法則が定式化され,慣性系が定義される。
そして基本運動すなわち等速直線運動からのずれを引き起こす原因として,力が導入された。力は運動の原因として,動力学的な概念として用いられる。
ニュートンのこの定式化は,運動を各瞬間における変化としてとらえる点で特徴的であった.運動の結果としての物体の移動を扱うのではなく,各瞬間における動的な状態をダイナミックに把握し,それを運動方程式の形に書き表わす。
有限な時間経過後の運動状態は,このつぎつぎに起こる状態を積算することで,すなわち数学的には積分と呼ばれる操作によって与えられる。運動の必然的経過は微分方程式のなかに,現実の運動の実現は初期条件と呼ばれる積分定数のなかに表現されている。
そして運動の決定論的性格(因果的性格とも呼ばれる)がこれを通じて貫徹されているのである。
ニュートン力学のこのような決定論的性格は当時の思想や政治体制と比較される。かつての神学は神を全能者とし,すべてをつくり出すとともにそのすべてを支配した。しかしニュートンの力学は運動のしくみを与えることによって,神が司っていたいとなみを運動の法則でおきかえた。
しかしそれは神の役割を全くなくしてしまったのではない。太陽系の諸惑星の運動はニュートン法則によって与えられても,最初にそれをつくり出し配置し,「最初の一撃」すなわち初期条件を与えてその後の状況をすべて定めたのは神にほかならない。創造者としての神の役割は保持されたのである。
この事態は,見方によっては絶対主義的王制から立憲君主制への移行という政治体制の変化にも対応させられよう。すべての権力を掌中にもつ絶対主義的王が,議会に運営を委任し,議会を任命する権利を保有する形で支配を推持する体制へ移行したのは,これと遠くない16世紀のことであった。
(「科学その歩み」東京教学社 p108-109)
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さて、アインシュタインが言うように、原子や光のふるまいを確率でしか予言できないということは、私たちが発見している物理法則が不充分であるためと考えるべきなのだろうか。それとも、微視的世界の物質が従う法則とは、本質的にそういうものと考えるべきなのだろうか。
前者の立場で言えば、宇宙を創った神は完全で、われわれの理解が不完全ということになる。つまり、神はサイコロ遊びをしないという立場である。他方、後者の立場で言えば、神の完全性はいざ知らず、微視的世界の物理法則がそういうものなら、それをそのまま受け取って神はサイコロ遊びが好きだと考えればいいのである。
実際、これから見ていくように、神は思いの外、賭博が好きなのだから。
ともあれ、量子論は大成功をおさめた。現在の私たちは、量子論が明らかにした法則の下で動くIT機器に取り巻かれているし、原子より極微の素粒子世界にも量子論が貫徹していることがわかってきた。悪魔は失業してしまったのだろうか。
神の一撃
量子論が発見されてまもなく、当時の物理学者を悩ませていた「宇宙の熱死」問題について、思いがけないところから救いの手が差しのべられた。1929年、アメリカの天文学者ハッブルが宇宙膨張を発見したのである。
宇宙がどのように創成されたかは、神話の重要な主題であった。世界中のほとんどの神話の冒頭で宇宙誕生物語が語られているからだ。たとえば、日本神話ではイザナミとイザナギによる国産みから話が始まり、旧約聖書では神が6日で世界を創ったことになっている。
ところが、どういうわけか、いつしか、人々は始まりも終わりもない永遠の宇宙を考えるようになってしまった。時代が下がって世俗権力が確立するとともに、わが世の永遠を願うようになり、宇宙も永遠不変とみなすようになったのかもしれない。
ニュートンは、万有引力が支配する宇宙は無限でなければならない、と述べた。有限の宇宙では中心と周縁の区別があり、万有引力が働けば、すべての物質は中心に引きつけられるから、宇宙は有限の時間で潰れてしまうことになる。そこで、永遠に潰れない宇宙とするためには、無限でなければならないと推論したのだ。
この推論自身は正しいが、必ずしも永遠の宇宙を考える必然性はなく、したがって有限時間で潰れる宇宙であってもよいはずなのだが、ニュートンはそんな宇宙を露ほども考えなかったらしい。
また、アインシュタインは、自らの宇宙方程式を改変して万有引力に抗する斥力を導入し、むりやり潰れない宇宙を提案した。彼も宇宙を永遠不変と考えていたので、膨張も収縮もしない静的な宇宙を自らの手で作り上げたのだ。といっても、星から放出される廃熱が溜まっていくから、宇宙はいずれ熱死してしまうことになる。
アインシュタインは、永遠を願って静的な宇宙を考案したのだが、やがて熱死してしまうから彼の宇宙も永遠ではないのである。サイコロ遊びをしないまじめな神は、宇宙の永遠性を保証してくれないのだ。
このようなジレンマに悩んでいたおり、思いがけずも、ロサンゼルス郊外にあるウィルソン山に建設された口径100インチ(約2・5メートル)の大望遠鏡が宇宙熱死の問題を解決してくれることになった。遠方の銀河の速度を測っていたハッブルは、ほとんどの銀河がわれわれから遠ざかっていることに気がついたのだ。
さらに、それらの銀河の距離を測定すれば、遠ざかる速さが距離に比例している事実が浮かび上がってきた。これを「ハッブルの法則」と呼ぶが、宇宙が膨張している直接の証拠とされた。というのも、アインシュタインの宇宙方程式そのものに、宇宙が膨張していれば、銀河の遠ざかる速さが距離に比例することが予言されていたからだ。
アインシュタインは、膨張する(運動する)宇宙を嫌って、この解を詳しく調べなかったのだ。
宇宙が膨張しているなら、宇宙は熱死から免れられる。膨張によって宇宙空間の体積が刻々と大きくなっていくから、廃熱を捨てられる場所も増えていき、宇宙の温度は上昇しないからだ。それどころか、宇宙の膨張が速いので、温度が上昇するどころか、逆に宇宙は冷え続けていることがわかった。
宇宙が膨張を続けている限り、けっして熱死しないのである。宇宙は理想的な廃熱の処分場であったのだ。こうして、宇宙の熱死は避けられることがわかったが、永久不変な宇宙は諦めねばならなくなった。そして、新たに宇宙の創成や進化という厄介な問題をしょい込むことになった。
永久不変の宇宙ならば、いつも同じ姿ですと澄ましておられたのだが、刻々と変化する宇宙ならば、当然その誕生の様子や現在までの進化が問題となるからだ。
宇宙が現在膨張しているなら、過去の宇宙は小さかったはずである。それを極端まで押し詰めれば、宇宙の始まり、つまり時間がゼロの状態を考えねばならない。そのとき、宇宙のサイズはゼロになってしまう。体積がゼロだから、物質の温度も密度も無限大になってしまう。ところが、無限大は人知の及ぶところではない。
しかし、無限こそが神にふさわしいなら、このときこそが神の出番である。宇宙の始まりの一撃を加える役だ。この一撃によって宇宙は膨張を開始し、今なお膨張を続けているとすればよい。いったん膨張し始めると、あとはアインシュタインの宇宙方程式がすべてを完全に決定してくれる。
神は傍観するのみでよいのだ。きっと神は、サイコロを転がして、見えない原子や電子の世界の行く末を占う役に徹しているのだろう。とはいえ、神は、いかにして宇宙の始まりの無限大の圧力に耐えたのだろうか。
ある皮肉な人が、「最初の一撃を加える前、神は何をしていたの?」と尋ねたそうだ。「そんな嫌な質問をするやつのために地獄を創っていたのさ」、という答を予想されるかもしれない。それはあまりに人間くさい。もう少し高尚に言えば、次のいずれかと考えられる。
一つは、神は宇宙を創る前もサイコロ遊びをしていた、というホーキング博士のご託宣である。宇宙の始まりは、原子そのものよりサイズが小さかったから、量子論的な状態にあったと考えられる。そのような状態では、この宇宙は確率論でしか論じられず、いつ宇宙開聞をおこなうかを、神はサイコロを振って占っていた、というものだ。
そして、たまたま130億年前にサイコロの目がうまく合って、量子論的な状態から急膨張してこの宇宙が現実化したのである、と。とすれば、この宇宙は、神のサイコロ遊びの結果の偶然の景品なのかもしれない。
もう一つは、時間そのものが宇宙創成とともに始まったのだから、「宇宙誕生以前」という時は存在しえない、という考えかたである。時間がなければ、それ以前もそれ以後も定義できない。つまり、神も宇宙とともに誕生したことになる。
しかし、それでは神の一撃すら与えることができないから、神は何の仕事もしなかったという寂しい結論になってしまう。それならいっそ、曖昧な神なんて考えなくてよい。この人間が宇宙誕生の秘密を握っているのだ、という不遜な考えかたを吹聴する者も登場した。それについてほ、第6章で述べる。
ともあれ、時々刻々と変化する宇宙像は、ラプラスの悪魔たる科学者の絶好の研究対象となった(かくなる私も)。それは、神に代わって、銀河を作り、地球を作り、人間を作る作業、と言えないでもない。旧約聖書の神は、6日間でこの宇宙のすべてを創らねばならなかったが、私たちはたっぶり130億年かけて宇宙を造ればいいのである。
(池内了著「物理学と神」集英社新書 p122-127)
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デューリング氏よりも前に、唯物論者たちは、物質と運動とについて語った。デューリング氏は、運動をその根本形態であると称する力学的な力に還元し、そうすることによって、物質と運動とのあいだの現実の連関を理解できないようにしてしまう、──もっとも、この連関は、以前のすべての唯物論者たちにとっても明らかではなかったのであるが。
それでも事柄はまことに簡単なのである。運動は物質の存在の仕方である。運動ぬきの物質は、かつてどこにもなかったし、あるいは、ありえない。宇宙空間における運動、個々の天体の上でのもっと小さい物体の力学的運動、熱としての・または電気や磁気の流れとしての分子振動、化学的な分解と結合、有機的生命、──こうした運動形態のどれか一つのうちに、または、同時にそのいくつもの形態のうちに、どの与えられた瞬間にも、宇宙のどの個々の物質原子もいる。
すべての静止・すべての平衡は、ただ相対的でしかなく、ただあれこれの特定の運動形態にかんしてだけ意味をもっている。一つの物体がたとえば地球上で、力学的な平衡状態にあり力学的に静止している、ということはありえる。
それだからといって、この物体が地球の運動にも太陽系全体の運動にも参加していないということにはけっしてならないし、同様にまた、この物体の最小の物理学的粒子が当の物体の温度で引き起こされた振動を行なっていないとか、その物体の物質原子が或る化学的過程をたどっていないとか、ということにも、けっしてならない。
運動ぬきの物質が考えられないのは、物質ぬきの運動が考えられないのと同じである。運動は、だから、物質そのものと同じく、創造することも破壊することもできないわけである。このことを以前の哲学(デカルト)は、(宇宙に存在している運動の量は、つねに同一である〉、と言いあらわしている。
運動は、つまり、生み出すことはできず、ただ伝達することができみだけである。運動が或る物体からもう一つの別の物体へ伝達される場合には、自分を伝達し能動的である限りでの運動を、伝達され受動的である限りでの運動の原因であると見なすことができる。
この能動的な運動をわれわれは(力)と名づけ、受動的な運動を(力の発現)と名づける。これによると、力がその発現と同じ大きさであることは、両者において実際に同一の運動が行なわれるのだから、明々白々である。
物質の無運動の状態というのは、これで見ると、最も空虚で最も愚劣な観念の一つでありまったくの「熱病やみの幻想」であることがわかる。ここまでやってくるためには、〔まず、〕この地球の上の一物体が置かれる場合がある相対的な力学的平衡の状態を、絶対的静止と思い描き、つぎにそれを全宇宙へ押しひろげなければならない。
普遍的な運動をただの力学的な力に還元してしまえば、こういう作業はもちろんやりやすくなる。そのときには、運動がただの力学的な力に局限されることによって、或る力を静止しているもの・拘束されているもの・したがって目下のところ作用していないものと思い描くことができるという、もう一つの利益が得られる。
すなわち、或る違動の伝達が──終始起こることであるが──さまざまな中間項がはいるいくらか込み入った出来事である場合には、連鎖の最終の環を取りのけておくことによって、実際の伝達を或る任意の瞬間まで延期させることができるのである。
たとえば、小銃に弾丸を装填(そうてん)しておいたうえで、引き金を引いてこれを発射するその瞬間を、すなわち、火薬の燃焼によって解き放された運動の伝達が行なわれるその瞬間を、留保する、という場合がそれである。つまり、こう思い描くことができるわけである、──<物質は無運動の自己同一的な状態にあったあいだに力を装填されていたのだ>、と。
そして、デューリング氏が、物質と力学的な力との統一ということで──そもそもなにごとかを言っているとして──言っているのは、このことであるように思われる。この考えが背理であるのは、本性上は相対的である一つの状態を、したがって、いつでもただ物質の或る一部が同時にそうでありえるにすぎない状態を、全宇宙へ押しひろげているからである。
けれども、この点を度外視してさえも、つぎのような難点は引き続き残る。第一に、宇宙は──小銃が現今ひとりでに装填されるということはないので──どのようにして装填されるようになったのか?
第二に、そのあとで引き金を引いたのはだれの指か? あちこちどううろついてみたところで、われわれの行きつく先は、デューリング氏の指揮のもとでは、いつものことながら──神の指である。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p88-90)
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◎「創造とは宇宙の創造主がそういうふうに知恵を分配してくれ」、「最初の一撃」、「神のサイコロ遊び」「神の指」……「神」はどこにいて、どんな役割をはたしているのか……。
◎自民党総裁選で野中元幹事長が国会議事堂への落雷を神のおつげ≠ノしたてて「退路をたって闘う」と、言ってました。ブッシュも神≠フ名を借りるのが好きなようです。神≠ノどんな役割を果たさせようというのでしょうか? しっかりと学んでください。