学習通信030920
◎息子にとって父親は乗り越えていくべき目標だと思うが、彼らにはそんな発想もない。
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(日経新聞 夕刊 030919)
「父を尊敬」若者増加の謎
実態は消極的指示
厳しい現実の直面、見直す
二十代前半の若い男性の間で父親を尊敬する人が増えているという。実社会の厳しさを、身をもっで経験する年齢となり、長年、そんな状況で頑張ってきた父親を息子たちが再評価しているらしい。家庭でのおやじの威厳が復活する兆しなのか。その背景を探ってみた。
「父親を尊敬しています」──。東京都内の私立大学で就職指導を担当しているA子さんはこんな男子学生の言葉に首をひねる。就職活動の基本は自分を見つめ直すことだ。指導の一環として尊敬する人物を学生に尋ねることがあるのだが、このところ父親を尊敬する男子学生が多くなってきたという。
「企業の採用担当者からも同じような話を聞いた。かつては男子学生にとって父親は乗り越えるべき存在で軽々に『尊敬する』なんて口にする学生は見当たらなかった」と話す。
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父性の喪失や家族の崩壊などが懸念されている昨今、なぜか二十代男性の間で父親を尊敬する傾向が出始めている。
博報堂が出版する雑誌「広告」は五月号で新入社員の特集を掲載した。記事では今年の新入社員の特徴を十項目あげている。その中に「『できません』と言えるリアリスト」や「徹夜はしない」などと並んで、「尊敬する人は両親」が入ったひ編集長の島浩一郎さんは「複数の担当者が聞き取り調査をして共通する特徴を絞り込んだ。私もおよそ五十人にインタビューしたが、その六割が尊敬する人として親をあげた」と説明する。
少しデータは古いが、名古屋銀行が二〇〇〇年に実施した新入社員の意識調査でも「尊敬または目標とする人物」として、ビル・ゲイツや坂本龍馬(ともに一・三%)を大きく引き離し、父親(二二%)が一位に輝いている。
なぜ今、親、特に父親が尊敬を集めるのだろうか。学生や社会人を対象にキャリア指導をしているジャパンビジネスラボ(東京)の杉村太郎会長は「失業やリストラも珍しくない厳しい経済状況が影響している」とみる。
「学内では就職が決まらない先輩や仲間も少なくないし、入社した企業ではきつい労働環境に置かれる。厳しい現実を突きつけられたとき、そんな状況でもひたむきにこつこつと働き、家庭を維持してきた父親への尊敬の気持ちが芽生えるのだろう」と鋭明する。
家庭での父親の存在感の薄さが問題にされる昨今、父性の復権は好ましい出来事のように思えるが、立教大学学生相談所カウンセラーの山中淑江さんは「本当に尊敬しているとは思えない」と懐疑的だ。日常、相談にやってくる学生の言動からは、むしろ信頼感が薄れている印象を受けるという。
立教大学では戦前から長年、すべての新入生に「あなたが理想とする人物」を尋ねてきた。戦前は西郷隆盛や乃木希典、吉田松陰といった人たちが上位を占めたが、一九七〇年代になると先生と父親がトップ争いをするようになり、九〇年代以降は父親が先生を大きく引き離して一位を占めるようになった。
「『尊敬』という言葉を使っていないが」質問の意図はほば同じ」と話す山中さんは回答の推移をこう分析する。
「まず戦後、教育の中身や社会の価値観が変わり、偉人伝などが読まれなくなって歴史上の人物などが消えた。さらに八〇年代になると校内暴力をはじめとする学校の荒廃が進み、先生への評価が落ちた。こうした消去法を経て残ったのが父親。かなり消極的な選択なのだろう」
実際、国際比較をみても、日本で父親の尊敬度は決して高くない。東洋大学の中里至正教授は二〇〇」−二〇〇二年に日本と米国、トルコの三カ国で親子(中高校生とその親が対象)の意識調査をした。父親を尊敬すると答えた中高校生の比率は九三・八%のトルコ、八二・七%の米国に対し、日本はわずか三七・一%だった。「『父親が好き』と回答する中学生・高校生も日本は極端に少ない。父親の存在は子どもの目にあまり入っていないようだ」と中里教授は話す。
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尊敬する人は誰かと問われれば父親と答えるが、心底から尊敬しているかといえば、そうでもない−。実態はそんな感じだろうか。
博報堂の島さんによると、今の二十代前半の特徴はこぢんまりしていることだという。「よく言えば現実的なのだが、チャレンジ精神が乏しく、非現実的な夢を見ることもない。息子にとって父親は乗り越えていくべき目標だと思うが、彼らにはそんな発想もない。結局、自分が実現できそうな将来モデルが父親でしかないのかもしれない」と説明する。
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たしかに、子どもたちには、共感と愛情で包み込むこととともに、問題があれば、きちんと「お前は間違っている」としつけることの双方が必要なのはいうまでもないことだからだ。また、林さんの本を読んで、父親の育児への関心が広がれば、それはそれでいいのではないかと思う。
ただ、気になるのは、やはりどこかで「父性は父親」「母性は母親」と決めつけている点だ。父親が、愛情をもって包みこんでも、また、母親が厳しい言葉を発してもいいではないか。
このことをきちんと説明しておかないと、「父性」を、単なる「厳しいしっけ」と短絡してしまう男親も出かねないからだ。そして、こうした男親の思い込みは、男の子にとって、逆の効果を生み出しかねないと思うからだ。
というのも、「男親は厳しくすればいい」という思い込みは、「しつけ」という名の「虐待」につながる可能性ももっているからだ。そして、男親の虐待が、子どもたちの他者への暴力的対応へと継承・連鎖していくことも、さまざまな研究がすでに明らかにしていることだ。
その意味で、母性、父性は、生物学的な性差にかかわらず双方必要なのだという、林さんが当初提示した議論に従えば、男の子を育てるにあたって、今、問われているのは、(ぼくは、性別を連想させる「父性」「母性」という用語はあまり使いたくないのだが、あえて使わせてもらえば)、男の「父性」ではなく、男の「母性」なのではないかと思っている。つまり、身近な同性として、関係を「切る」 のではなく、男として生まれ、育てられるなかで感じてきた同じような悩みや不安を、男の子と共有していることをきちんと示すことなのではないか。
しかし、多くの男たちは、<男らしさ>の鎧をまとった姿ばかり見せるだけで、その「弱さ」や不安を男の子たちに示そうとはしない。ましてや、心をひらいて、男の子とコミュニケーションすることもない。
もっと言えば、仕事中心の生活は、<男らしさ>の鎧をまとった姿を、男の子たちの前に見せるチャンスさえ奪ってしまっているように思われる(コケンやメンツにこだわる大人の男たちの<男らしさ>に縛られた姿を男の子に見せることも、実は、「男のくだらなさ」を男の子自身が感じ取るために必要なプロセスなのかもしれないと思うときもある)。
特に男親にとって問題なのは、単純に「切る」「父性」の復権なのではなく、男の子ときちんと向き合い、ときには、包み込み、共感しあう力(当然、問題があれば、きちんとそれを言葉で伝えることも含めて)なのではないだろうか。
(伊藤公雄著「「男らしさ」という神話」NHK人間講座テキスト p73-75)
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はじめに
もう一〇年以上前のことになる。一九八九年の暮れ、新聞紙上で、ぼくは、一つの「予言」をした。それは、次のようなものだった。「国際的な女性の運動の動きに対応して、一九七〇年代から八〇年代にかけて、他の国々と同様、日本社会においても、女性問題についての多くの議論や運動があった。性差別という人権にかかわるこの女性問題は、今後、さらに重要な課題となるだろう。そして、こうした動きに対応するかたちで、一九九〇年代以後の日本社会では、男性間題の時代が開始されるだろう」
この「予言」はどうも的中したようだ。その当時、「現代社会で、男性もまた多くの問題をかかえている」という声は、日本社会においてほとんど語られることはなかった。しかし、九〇年代に入ると、予想通り、さまざまなメディアが、「男性もまたこの男性主導社会でさまざまな矛盾や問題をかかえている」という意味での「男性間題」について語り始めたのである。
いじめ自殺の多くは男の子
男性間題は世代を超えて広がりつつある。日本においては、そのひとつの例として、いじめ自殺の問題をあげることができるだろう。いじめ自殺と男性間題などというと意外に思われるかもしれない。しかし、いじめ自殺の背景には、現代日本社会がかかえるさまざまな問題が複合的にからみあっているのである。
受験の勝利をゴールとするような学歴による序列社会、制服・丸刈り・校則の縛りなどにみられる管理教育、たてまえとしての「平等」という名の横並び文化が生み出した、個々の人格を無視した実質的な人権破壊、メディア社会が生み出した現実感の希薄化と身体性・身体感覚の喪失、外部に対して「問題がない」と叫ぶ事なかれ主義型の学校の対応、研修や日常的管理の進行のなかで締め付けられている教師たちの現状などなど、ちょっと思いつくだけでも、いろいろな社会的背景が想定できる。
そこで、ここでは男性間題という観点からいじめ自殺の問題を考えてみよう。というのも、自殺した子どもたちを、ジェンダー・センシティブな(社会的につくられた性別という問題に敏感な)視点から見ていくと、はっきりわかることがあるからだ。いじめによる自殺と報道されたケースを見ていくと、すぐに見えてくることがある。
いじめで自殺していく多数は中学二、三年生の男子生徒だということだ。いじめで自殺するのが中学二、三年生という問題も、重要な要素を含んでいるが、ここではふれない。強調したいのは、いじめによって自殺に追い込まれた子どもの多くが男の子だ、ということだ。
このことを別の角度から考えてみよう。「いじめ電話相談」を開設している人たちの書いた本などを読むと、「いじめ」で電話をかけてくるのは圧倒的に女の子だという。つまり、いじめによる自殺という点で多数を占める男の子たちは、いじめ電話相談とコンタクトをとりたがらないのだ。
そこに、「男はこうあるべきだ」という強い思い込みは影響していないのだろうか。男の子たちは、幼児段階から「男は泣くな」という縛りがかかる。「男は弱みを見せてはならない」、「男は自分の感情を表に出してはならない」、「男はがまんできなければならない」といった<男らしさ>の縛りが、男の子たちを電話相談から遠ざけているということはないのだろうか。
他方、女の子たちは、小さいときから、「相手の感情に配慮しなさい」「相手の気分を快適な状況に保ちなさい」という、感情処理のトレーニングを受ける。だから、男の子と比べて、困ったとき、電話相談はもとより、親や先生、友だちに気持ちを伝えることができる。心の悩みは、こうした相談によって、一定、緩和することができるのは多くの人が知っている通りだ。ところが、これが男の子にはできないのではないか。
過労死社会・日本の中高年男性たち中高年世代の男性にとって問題はより深刻かもしれない。中高年男性のかかえる問題を象徴するもっとも残酷な例は、過労死だろう。もちろん、女性の過労死も存在している。しかし、過労死で死んでいくのは、その圧倒的多数が男たちであるのも事実だ。
労災認定された死者数は上のグラフの通りであるが、実際には年間数万人を超えるともいわれる(大阪過労死問題連絡会編『Q&A過労死・過労自殺一一〇番』民事法研究会、二〇〇三)。「過労死一一〇番」の弁護士さんの話によると、過労死で死んでいく男たちの圧倒的多数は、妻が専業主婦の家族をもっているという。
「家のことは妻にまかせた」と言って、昼夜にかかわらず働き続け、そのあげくに体を壊したり、あるいは死んでいく男たち。これもまた、「男は仕事」という現代日本の男性文化の生み出した悲劇といえるだろう。
過労死だけでなく、産業構造の変化やそれにともなう労働形態の変貌、さらにリストラの嵐もまた男たちを苦しめている。特に、中高年男性にとって、時代の変化は、彼らを着実に追い詰めようとしている。そのひとつの現れとして、ここ一〇年ほどの間に広がりつつある四〇代・五〇代男性の自殺の増加がある。
戦後の日本の自殺者数を見ると、中高年男性の増加が最近目立つことがすぐに見て取れる。この世代は、一九七〇年代初頭までは、仕事がおもしろく、もっとも充実した世代だったということだろう。それが、一九九〇年前後から、明らかに「山」を形成し始めたのである。
これに気づいたぼくは、ここ一〇年ほど「中高年男性の自殺の急増」について、男性学・男性研究の観点から警告を発し続けてきた。しかし、九〇年代も後半に入ると、この傾向は、ぼくの予想をはるかに超える形で社会問題化することになった。
男性の自殺の急増の背景には、リストラの動きとともに、産業の「高度化」にともなう労働の変化、価値観の変容、複雑化・多様化する労働形態などなど、多くの複合的な原因がある。いずれにしても、四〇代から五〇代の、それも男性の自殺率が急上昇しているということは、明らかに男性受難の時代がきているということだろう。
この背景にも、いじめ自殺の男の子たちと同様、<男らしさ>の縛りが存在しているように思われる。弱みを見せまいと感情を抑圧し、「自分のことは自分一人で解決すべきだ」と家族にも悩みを語らない。一人でつらい思いをかかえこんだまま我慢に我慢を重ねて、ときには過労死や自殺という悲劇にまで至る。マイナスの面での<男らしさ>の縛りが生み出した悲劇ともいえるだろう。
(伊藤公雄著「「男らしさ」という神話」NHK人間講座テキスト p7-12)
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多くの場合家族は妻の労働によって完全に解体されてしまうのではなく、逆立ちしてしまうのである。妻が家族を養い、夫が家にいて子守をし、部屋の掃除をし、料理をする。こういうケースがきわめてひんぱんにおこる。マンチェスターだけでも、家事労働を背負わされている男性は何百人も集められるであろう。
このような事実上の去勢が、労働者のあいだで当然の憤激をどれほどひきおこしているか、そして、それ以外の社会的な関係は変わらないのに、このためにすべての家族関係がどんなにひっくりかえされているかは想像がつく。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p216)
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この手紙のなかに書かれている状態以上に異常な、ばかげた状態が考えられるだろうか? しかし、男を去勢し、女から女らしさを奪っておきながら、男に真の女らしさを与、急ことも、女に真の男らしさを与えることもできないこの状態、男女双方と彼らの人間性とをもっとも卑劣なやり方で恥ずかしめているこの状態こそが、おおいにほめたたえられているわれわれの文明の究極の結果なのであり、数百世代にわたって自分自身の状態と子孫の状態を改善しょうとあらゆる努力をしてきたことの最終的な結果なのだ!
われわれのあらゆる努力と労働の成果そのものが、このように物笑いの種にされているのを見るとき、われわれは人間に、そして人間の意志や実績に、まったく絶望してしまわなければならないか、あるいは、もしそうでなければ、人間の社会がこれまで間違った方向で幸福をもとめてきたということをみとめなければならないであろう。
われわれは、男女の地位がこんなにも完全にさかさまになっているのは、男女がはじめからたがいに間違った関係におかれていたためだということを、みとめなければならない。工場制度が必然的にうみだす夫にたいする妻の支配が非人間的であるとするなら、妻にたいする夫の原始いらいの支配も非人間的であるに違いない。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社p218-219)
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もう一つ、エンゲルスの女性観についてコメントしておきたい。エンゲルスが 『家族・私有財産・国家の起源』で「母権制の転覆は女性の世界史的敗北であった」といい、女性の解放を訴えていることは周知のところであり、そういうエンゲルスが本書では女性が働きにでることは家庭の崩壊や男女の関係の転倒を生みだすといっているのは、意外な感じがするであろう。
本書で、男が靴下のつくろいのような女の仕事をしている状態ほど、「異常な、ばかげた状態が考えられるだろうか?」(上巻二一八ページ)というとき、エンゲルスは性別役割分担論におちいっているといわれるかもしれない。「既婚女性が工場から締めだされるときがくることを、ひたすら希望し、期待している」というホーキンズ博士の見解(上巻二ニーページ)にも、エンゲルスは賛成しているように見える。
しかし、これは当時としては一般的な考え方であり、エンゲルスもそこからぬけきっていないのは事実であるが、こういう男女関係の転倒の原因は「男女がはじめからたがいに間違った関係におかれていた」ことにあるというエンゲルス独自の指摘に私はむしろ注目したい。
「夫にたいする妻の支配が非人間的であるとするなら、妻にたいする夫の原始いらいの支配も非人間的であるにちがいない」(上巻ニー九ページ)。この非人間性の基礎は、家族の財産の共有が本物でなく、収入の多いものが家族のなかでも支配的な立場に立つということにある。
家族は財産によって結ばれるのではなく、家族愛によって結ばれなければならない。こういう主張は『家族・私有財産・国家の起源』の結婚観や家族観につうずるものといってよいであろう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-下-」新日本出版社浜林解説 p232)
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◎親子、夫婦、家族……現代をとらえる重要なキーワード。
◎エンゲルスの女性観の発展。私たちの認識も10年、20年あとには大きく発展している。と語れるように学びましょう。
◎「イギリスにおける労働者階級の状態」はエンゲルスが24歳(1845年)の時の論文です。「家族・私有財産・国家の起源」1884年に出版されます。