学習通信030918
◎毎日が日曜日で何もすることがない……。
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合理化の末路
これまで「バカ」について、また思考停止を招いている状況、あべこべの状況について述べてきました。現代人がいかに考えないままに、己の周囲に壁を作っているか。そもそもいつの間にか大事なことを考えなくなってしまっていることを指摘してきました。
しかし、「どこがおかしいかはわかったが、じゃあどうすればいいと言うのか」という疑問が、当然、次には出てくるでしょう。フランクルの言葉を借りて、「人生の意味を考える」必要性については触れました。
それはすなわち、どういう社会なり共同体が私たちにとって望ましいのか、またはどういう状態を私たちは幸福だと感じるのか、というテーマになる。
我々は今日まで一生懸命、単調な社会を延々と作ってきた。例えば、かつては働かなくても食える状態に近づきたいという気持ちが共通の原動力となって、これだけ生活が便利になった。
以前なら、十軒で耕していた田んぼを今は一軒でやっている。そうすると、九家族は遊んでいるわけです。農村人口が減っていくのは当たり前で、合理化すれば、九家族は別なことをしなければいけない。
機械化等の合理化によって、一家族が働いただけで、かつてなら十家族が働いていただけの上がり、収穫が出てしまう。今よりさらに肥料をよくして、機械をよくすれば、もっと収穫が上がるかもしれない。
では、その遊んだ分は一体どうするのかということを本当に考えてきたか。合理化、合理化という方向で進んできて、今もその動きは継続している。が、それだけ仕事を合理化すれば、当然、人間が余ってくるようになる。
この余ってきたやつは働かないでいいのか。仮に、その分は働かなくていいという答えを出すのなら、今度は働かない人は何をするかということの答えを用意しなければいけない。
退社後、毎日が日曜日で何もすることがない老人は、それに近い状態です。しかし、彼を理想の境遇だという人は最早なかなかいない。そのへんのことをまったく考えないまま、よく言えば無邪気に、悪く言えば無責任でここまで来た。にもかかわらず、いまだに合理化と言っている人の気が知れない。
カーストはワークシェアリング
日本を始めとした先進国とは逆に、インドは、まったく合理化しないという方策をとっています。極端にいえば、鉛筆を落としても落とした人は拾わない。別にそれを拾う階層がいる。
これは、最近の言葉でいうところの「ワークシェアリング」が行われているということです。実はカースト制というのは完全ワークシェアリングです。本来なら一人でやれるような仕事を細分化して、それぞれの階層に割り振っているのですから。インドではそういうワークシェアリングを固定してしまった。
もちろん、日本にそれを導入しろと言うのではありません。しかし我々は、何をどうシェアすべきかを真面目に考えるべきです。これは所得の再配分というふうに言いかえてもいいのですが、それだけではなくて仕事の配分をしなくてはいけない。
純粋に機能主義をとれば、その人でなくては出来ないことというのが、仕事によっては確かに存在している。その人にそれをやらせるとしても、それに対してどれだけの人がそれをサポートして、そこから上がってくる収入なら収入をどういうふうに分配するかというのが、これからの社会の公平性を保つ上で非常に大きな問題です。
それが、具体的にどういうふうな形であらわれる社会が理想なのか、私自身にも、まだ答えを出せていないところがあります。ただ、戦後、我々が理想としてきた、働かないでも食えるということイコール理想の状態ではないということが歴然と見えてきたということは言える。
「働かなくても食える」の究極の形がホームレスだとも記しました。社会がいまだにどこか遅れているからホームレスが出てきてしまうのか、それとも社会の本来、健全な姿は、それぞれの人が何らかの形で働いている状態なのか。随分、基本的なことですが、
その間題をもう一遍、我々は問い直す必要があるのです。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p176-180)
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企業事故背景にリストラ
日本経団連の奥田会長
奥田日本経団運会長は十六日開いた理事会で、企業の製造現場で火災などの大事故が相次いでいることに関連し、出席者に対し完全管理を徹底するよう呼び掛けました。全会員企業千四百四十四社に対しても、文書で要請する方針です。
同日の記者会見で奥田会長は「火災事故が相次いだことは誠に残念。事故が起こらないよう点検する必要がある」「熟練労働者をリストラすれば、労働の質は落ちる。経費節減の利点はあるが、危険性もある。両面の問題を考えなければいけない」と述べ、事故の背景に過度のリストラがあることを指摘しました。(しんぶん赤旗 03917)
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「失業」とは何を意味するのか
一方では、生活と健康を破壊するような、非人間的とさえいえる猛烈な働き方をしている社員がいる。そして他方では、働きたいのに探しても探しても職がない失業者がいる。
前に述べたように、商品経済の社会では、働いて収入を得ることが、即、自分が社会から認められ、社会に必要とされていることの証明になる。また適切な労働環境のもとで働くことができれば、人は労働によって能力を伸ばし、熟達や創意工夫を通して自己実現をはかることができる。
労働を生きがいと感じるのは、このような労働の価値と本質があるからだろう。収入が事足りていても、定年退職後も働きたい人々がいるし、社会で働きたい主婦がいる。労働は人間的な欲求のひとつなのだ。
その裏返しが失業である。だから失業は、収入がなくなるだけでなく、社会から「あなたは不必要な人間だ」と宣言され、排除され、孤立することを意味する。それは人格の否定、生きがいの喪失にもつながる。
いったん職業を持っていた人が失業した場合は、生きがいの喪失感が大きいだけに、再就職への欲望も大きい。それに村して、学校を卒業して、はじめから職につけないまま失業している人は、喪失感の経験を持たないだけに、労働への意欲も湧きにくいのではないか。そのような若者が増えたとき、社会の将来にどんな問題が起きるのだろうか。
一九六〇年から一九七四年のオイルショックまで、日本の失業率は一%台にあり、オイルショック後も約二%の水準にとどまっていた。九五年に三%をこえ、九八年には四%台となり、そこからは急上昇して、現在は五・五%前後にある。
日本の失業統計は、たとえば調査期間中に一時間でも働いた人や、どんな少ないお金でも稼ぎを得た人は失業者から除かれたり、職があればすぐさま働ける状況にあっても職探しを止めている人は失業者に算入しないなど、失業率が失業者の実態からかけ離れていることが以前から指摘されている。
就業を希望しているが適当な仕事がみつからない五六八万人の潜在失業者を失業率に加えると、失業率は一三・八%になる(総務省統計局、労働力調査特別調査報告、二〇〇一年八月)。
失業者は、長年、蓄積してきた技能、知識、判断力などの能力を発揮できない。それは国富の大きな損失にほかならない。就職できない学卒者も、それまで勉強してきた学歴や成果を生かせない。経済の競争といいながら価値ある多くの富が無駄に捨て去られているのだ。
(暉峻淑子著「豊かさの条件」岩波新書 p25-27)
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◎リストラ、失業問題は、日本社会の深刻な問題です。働く場所が無いということは社会から「あなたは不必要な人間だ」≠ニ突きつけられるというわけですから、働く場所の無い若者にとって不安は深刻です。
◎小泉圧勝! などといわれていますから、いまある状況はさらに進むとみなければなりません。これに抗議する力が急がれます。学習と行動大いに展開しましょう。