学習通信030917
◎政府が「自由にしていいです」といえば、競争はおのずと促進される……竹中平蔵氏は資本主義の本質をちゃんと知っていて……。
 
■━━━━━
 
◆メリトクラシーの社会システム
 
 そもそも、若者の相場観とは多かれ少なかれ、世間相場とは違っているものではある。それは、若者に見える前途に広がる洋々たる未来と、大人たちが歴史的に形成した現実の世間のありようとは当然、違っているからである。
 
そして、若者は社会に出てさまざまな経験を積み、知識をつけ、挫折や絶望、ささやかな成功の喜びを味わうなかで、徐々に相場観を現実の社会にアジャストさせていくものだった。
 
 だが、現代の若者には、その機会がなかった。いや、より正確にいえば、なかったわけではない。本来であれば、自身の相場観のズレに気づかされたであろう機会をいくつか経験してはいるものの、のらりくらりとかわしながら、食うに困らず、社会のなかでの自分の居場所を確保しながら生きてこられたがために、ついに自分の相場観を現実社会のそれにアジャストさせなかったのである。
 
親の言いつけを守らなくても一日三度のメシにありつけ、学費を出してもらえ、宿題を忘れても教師にとがめられることなく、会社では必死に働かなくとも毎月、給料は支払われた。こうして育った若者に、社会のルールや厳しい相場観を望んでも、それは無理な話であろう。
 
 したがって、まずわれわれは社会にメリトクラシーを根づかせることから始めなければならない。メリトクラシーとは、実力主義、能力主義といった意味合いの言葉だが、要は、優勝劣敗のルールである。
 
このルールをベースにした価値観と社会システムは、社会に活力と健全な向上心を生む。それは、メリトクラシーを経済活動に適用したかたちであるマーケットメカニズムを社会の根本原理に据えた西側諸国の前に、市場を否定することから出発した東側諸国がほぼ全滅した歴史的事実も証明するところである。
 
 この原理が社会システムに反映されれば、努力した者が適正に報われ、易きに流れる者はラクをしたぶん、得るものも少ないというマーケットメカニズムにもとづいた相場観が浸透するであろう。
 
努力が報われる社会になれば、つまり「投資」の量に相応の「利益」の量が期待できるということであるため、彼らの判断基準たるROI(投資利益率)も、いまよりは「頑張ること」を奨励するに違いない。若者たちは、意外に自分たちの利に聡く、敏感である。社会の基準が変われば、若者は従来とは逆のベクトルに判断をシフトさせると思われる。
 
 また、その判断の転換は、努力=投資の価値の見直しにつながり、勤勉さや持続性に意味的な価値をも認めるようになるであろう。ひいては、誠実さや責任感といった現代の若者が否定し、踏みにじってきた普遍的価値観の大系が、これまでの喪失のベクトルと逆循環で回復していくことにもなる。
 
 また、メリトクラシーは優勝劣敗という言葉が示す通り、「能力」を優遇する。体力や精神力や、そして現代社会において最も有効な能力であるインテリジェンスも求められるようになる。「努力」や「勤勉」だけでなく、インテリジェンスを活用して、より賢く、合理的に価値を生むほうが、その成果ははるかに大きいからである。
 
メリトクラシーが備わった社会は、インテリジェンスをもつ者に微笑みかけ、そのインテリジェンスによって社会に価値を提供することを求めるが、その報酬として、彼に富や社会的地位、そして望ましい生活を与える。ここに至って、「努力」「勤勉」「責任感」に加えて、「能力」としてのインテリジェンスまでもが若者の価値観のなかで地位を回復することになる。
 
 そして、さらにその延長線上には「ノブレス・オブリージュ」の出現までも期待できるかもしれない。これは、一言でいえば「高い社会的地位にふさわしい義務」という意味で、たとえばヨーロッパの貴族たちに見られる精神を指す。
 
いうなれば、社会的地位が高い人間には、その地位を維持するにふさわしい社会貢献の義務が課されているという考え方で、おういった精神が社会に能力的にも人格的にも優れた人材を生む。
 
 戦前、少なくとも明治期までの日本にも、ノブレス・オブリージュは存在した。だが、敗戦を境に、ある意味で、社会主義国より成功した社会主義の国となった日本は、国力の向上をリードするエリートを養成するためのキャリアパス制度をもたなくなった。その結果として、日本からノブレス・オブリージュは消えたのだった。
 
 しかし、健全なメリトクラシーが浸透すれば、本当の意味でのエリートが育ってくるだろう。それは、保身しか考えない官僚的人間でもなく、下劣な守銭奴でもない。メリトクラシーの世界を自身のインテリジェンスや精神力によって勝ち上がってきた真のエリートである。彼は、人々が自分に寄せる敬意によって、社会貢献の喜びを実感させられるはずである。
(波頭亮著「若者のリアル」日本実業出版社 p142-145)
 
■━━━━━
 
競争力をつける王道は「競争すること」。
競争を促進するには「機会の平等」が不可欠
 
 では、私たちは未来に向かって、具体的に何をすればよいのでしょうか。
 まず、ここまで何度も出てきた「稼ぐ力」を高めること、つまり生産性を高めるにはどうしらたいいかを考えてみましょう。
 
 この間題は、そう簡単に答えが出る問題ではありません。世界中どの国も、生産効率をよくして競争力を高め、もっと経済発展したいと考えています。しかし残念なことに、そのための万能薬は存在しません。そんな薬があったら、誰も苦労などしないでしょう。ただ経験的に一つ確かなことがあります。
 
それは、競争力をつけるための王道は「競争すること」だということです。これはみなさんの経験からも実感できるのではないでしょうか。人生のなかで自分が進歩した、成長したという時期は、やはり厳しい競争に巻き込まれて努力していたときのはずです。その時期は、間違いなくつらいと思います。しかし、そのつらさのなかにある前向きなプレッシャーによって、私たちは前進してきたのです。
 
 日本の産業を見ても、これは明らかです。競争力のある自動車や電機・電子といった産業は、規制による保護などはないか極めて少ない産業です。常に、世界の最先端のマーケットで競争しています。
 
 逆に、これまで生産性がなかなか伸びないといわれていた産業はどういうところでしょうか。典型的なのは銀行と一部の農業です。これらの産業が、がっちりと政府に保護されてきた分野であることはいうまでもありません。こうした現実からもわかるように、競争力をつけるには「競争すること」が重要なのです。
 
 ということは、政府が行うべきことの第一は「競争を促進すること」になりますが、実は政府が「競争しろ」などといちいちいわなくても、私たちは本来的に、自分や家族の生活、あるいは自分の会社をよくしようと競争し、頑張るものです。したがって、政府が「自由にしていいです」といえば、競争はおのずと促進されることになります。
 
 ただし、そのときに重要になるのは、それに挑戦するチャンスは多くの人に平等に与えられていなければならないということです。いくら自由にやればよいといっても、自由にできる人が一人しかいなかったら競争になりません。チャレンジできる人がたくさんいることが、競争を促進し、競争力を高めることにつながるのです。
 
 そこで重要になってくるのが、誰でもチャレンジする機会がある、という「機会の平等」という考え方です。
 
 競争によって競争力をつけるという「競争のメカニズム」を利用することは、先に述べた一九九〇年代以降のグローバリゼーションの時代において、圧倒的に重要になってきています。世界のマーケットにおける競争の激しさ、競争のあり方は、それ以前とは根本的に変わりました。
 
そのなかで、日本の経済は従来の「追いつき、追い越せ」というキャッチアップ型のやり方から、今度は自分たちで先を切りひらいていくフロンティア型に変わっていかなければなりません。そのためには、先を走っていこうという人たちがたくさん出てくるような環境をつくる必要があります。こうして道をひらきながら、国内だけでなく海外でも競争していくことが重要になります。
(竹中平蔵著「あしたの経済学」幻冬舎 p52-54)
 
■━━━━━
 われわれは序説において、工業の激動がはじまるとすぐに、どのようにして競争がプロレタリアートをつくりだしたかを見た。
 
そのころ、織物にたいする需要が増加したために、競争によって織り賃が高くなり、そのため片手間に布を織っていた農民は、織機によっていっそう多く稼ごうとして農業を放棄するようになったのである。
 
われわれはまた、競争が大規模経営制度によってどのように小農民を駆逐し、彼らをプロレタリアに転落させ、そしてその一部を都市へひきいれたかを見た。
 
さらに競争がどのようにして小ブルジョアジーを大部分没落させ、同じようにプロレタリアに転落させたか、そしてどのようにして資本を少数者の手に、人口を大都市に集中させたかを見た。
 
これこそ、競争が近代工業において完全にその姿をあらわし、自由にその結果を展開して、プロレタリアートをつくりだし、拡大していった方法と手段なのである。
 
そこでこんどは、すでに存在しているプロレタリアートにたいして、競争がどんな影響をおよぼすかを考察しなければならない。そして、ここでわれわれはまず、個々の労働者のあいだの競争の結果を、たどらなければならない。
 
 競争は近代ブルジョア社会において支配的となっている万人対万人の戦争の、もっとも完全な表現である。
 
この戦争は、生活のための、生存のための、あらゆるもののための、戦争であり、したがってまた、やむをえない場合には、生きるか死ぬかのたたかいになるのだが、それはたんに社会のさまざまな階級のあいだだけではなく、これらの階級の一人ひとりの成員のあいだのたたかいでもある。
 
どの成員にとってもほかの人が邪魔になり、したがってみんなが邪魔ものをすべておしのけて、自分がそれに代わろうとする。ブルジョアがたがいに競争するのと同じように、労働者もたがいに競争する。
 
機械織工は手織工と競争し、失業した手織工や低賃金の手織工は、仕事についている手織工や賃金の高い手織工と競争し、これをおしのけようとする。
 
しかし、この労働者同士の競争は、労働者の現在の状況のもっとも悪い面であり、労働者にたいしてブルジョアジーが握っているもっとも鋭い武器である。
 
だからこそ労働者は組織化することによって競争をなくしようとするのであり、だからこそブルジョアジーはこういう組織にたいして憤慨し、それが敗北するたびに勝ち誇るのである。
 
 プロレタリアには頼るものがない。彼は自分だけでは一日も生きていられない。ブルジョアジーは、言葉のもっとも広い意味での生活手段をすべて独占している。
 
プロレタリアはその必要とするものを、国家権力によってその独占を保護されているこれらブルジョアジーからしか、手にいれることができない。したがってプロレタリアは、法律上も事実上も、ブルジョアジーの奴隷である。
 
プロレタリアを生かすのも殺すのもブルジョアジーの勝手である。ブルジョアジーはプロレタリアにその生活手段を提供するが、それは一つの「等価物」、つまり彼の労働と、ひきかえである。
 
しかもブルジョアジーは、まるでプロレタリアが自由意志で行動し、自由に、強制なしに同意して、一人前の人間として自分と契約を結んだかのように、見せかけている。
 
美しい自由だ。そこではプロレタリアには、ブルジョアジーが提供している条件に同意するか、そうでなければ──餓死するか、凍死するか、裸で森の動物と寝るか、という選択しか残されていないのである! 美しい「等価物」だ。
 
その金額はまったくブルジョアジーの思いどおりなのだ!──そしてもしプロレタリアが、彼の「もともとの目上の人」であるブルジョアの「公正な」申し出にしたがうよりは、むしろ餓死した方がよいとする愚かものであるなら──それならほかのプロレタリアを簡単に見つけることができる。世間にはプロレタリアは十分にいるし、みんなが気が狂っているわけでもなく、生よりも死をえらぶわけでもないのだ。
 
 こうしてプロレタリアはたがいに競争する。もしすべてのプロレタリアがブルジョアジーのために働くよりも、むしろ餓死したいという意志を表明しさえすれば、ブルジョアジーは独占を放棄しなければならないであろう。
 
しかしそういう状況ではないし、それはむしろほとんど不可能なことだ。だからこそブルジョアジーはいつものんびりと暮らしているのである。労働者の競争にはたった一つの限界がある──どんな労働者もその生存に必要な賃金以下の賃金では働かないであろう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態」新日本出版社 p123-124)
 
■━━━━━
 労働組合 その過去、現在、未来
 
 (a) その過去。
 資本は集積された社会的な力であるのに、労働者が処理できるのは、自分の労働力だけである。
 
したがって、資本と労働のあいだの契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない。
 
それは、一方の側に物質的生活手段と労働手段の所有があり、反対の側に生きた生産力がある一社会の立場からみてさえ、公正ではありえない。
 
労働者のもつ唯一の社会的な力は、その人数である。しかし、人数の力は不団結によって挫かれる。労働者の不団結は、労働者自身のあいだの避けられない競争によって生みだされ、長く維持される。
 
 最初、労働組合は、この競争をなくすかすくなくとも制限して、せめてたんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試みから生まれた。
 
だから、労働組合の当面の目的は、日常の必要をみたすこと、資本のたえまない侵害を防止する手段となることに、限られていた。
 
一言でいえば、賃金と労働時間の問題に限られていた。労働組合のこのような活動は、正当であるばかりか、必要でもある。現在の生産制度がつづくかぎり、この活動なしにすますことはできない。
 
反対に、この活動は、あらゆる国に労働組合を結成し、それを結合することによって、普遍化されなければならない。
 
他方では、労働組合は、みずからそれと自覚せずに、労働者階級の組織化の中心となってきた。それはちょうど中世の都市やコミューンが中間階級〔ブルジョアジー〕の組織化の中心となったのと同じである。
 
労働組合は、資本と労働のあいだのゲリラ戦にとって必要であるとすれば、賃労働と資本支配との制度そのものを廃止するための組織された道具としては、さらにいっそう重要である。
(「マルクス・エンゲルス8巻選書」第4巻 大月書店 p142)
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎競争とはなにか、どんな風に作用するのか、それを制限する、それを止めさせる方法はあるのか。
 
◎「競争はイヤヤ……」といっていた若者。イヤヤだけでは避けることはできません。労働組合や労働学校の役割を改めてつかみ、先を争って団結すること、社会を学ぶこと、闘うことの必然性を労働者・青年にひろげてほしいものです。