学習通信030915
◎労働者が沈黙することは現状をみとめることであり、そのことは、好況期には労働者を搾取し、不況期には労働者を飢えさせるブルジョアジーの権利をみとめることになる
 
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●本当に「豊かな」生き方とは
 
 もういままでのように収入が増えていく時代ではない。
 収入が減っていくのは避けられないし、いままでのような「安定」は失うとしても、すでに日本は物質的には十分に豊かなのだ。物は溢れるほど持っている。生活のリストラをしても、それほど生活水準が悪くなるわけでもない。
 
 それなのに、「負け組」になる不安に怯えながら毎日走り回るような生活を続けるのか。あるいは「勝ち組」になるという幻想を捨てて、自由な時間を余裕を持って楽しめる生活を求めていくのか。
 私は後のほうがずっとまともだと思う。だが、何故か私のようなことは誰も言わないのである。
 
 人はたった一度の人生を幸せに暮らすために生きている。こう言うと、当たり前だと文句を言われるかもしれない。
 だが、最近の日本人の生活は本当に幸せなのだろうか。
「負け組」になることを恐れ、何とか「勝ち組」に残ることを目標とした人生は、手段と目的を取り違えていないだろうか。
 
 私は、エリート・ビジネスマンは社会の「必要悪」であると思っている。24時間操業で働き、ビジネス・ジェットに乗って世界中を飛び回り、月に1〜2回しか家に帰れないほど働く人は、社会には必要だ。
 だが、彼らのようなライフスタイルを全員が踏襲する必要性はどこにもない。それを真似ようとするから、暗くなってしまうのだ。
 
 日本経済が悪い悪いと言っても、命まで取られるわけではない。現に日本では、真面目に働いてさえいれば、飢え死にする可能性はほとんどない。
 むしろ、日本で年間3万人以上の人が自殺していることの方が大きな問題だ。
 以前、アルゼンチンの経済危機を取材したスタッフから聞いた話で、とても印象に残ったことがある。
 アルゼンチンの経済危機は、日本とは比べものにならないくらい凄惨なものだ。本当に飢餓の危機にさらされている人が多くいる。にもかかわらず、アルゼンチンでは自殺する人がほとんどいない。自殺者が出ると、ニュースとして新聞に載るというのである。
 
 どんなに経済が悪くなろうと、生活が大変だろうと、アルゼンチンの人は自殺しょうなんて夢にも思わないのだ。
 このエピソードは、アルゼンチンの人たちの楽天性を示しているように聞こえる。
 日本人には関係ないなんて言わないでほしい。
 
 こうした前向きな楽天性は、これからの日本人が学ぶべき美徳のひとつだと思う。ラテンの人たちも本当は不安を抱えて生きている。イタリア人もスペイン人も南米の人たちも、ただ能天気に明るいだけではないのだ。
 ただ、どこが違うのかといえば、彼らは日本人のように、すぐに「ダメだ」とか「未来がない」と悲観的なことばかり言わないのだ。
 その代わりに「悪いことばかりは続かない。そのうち神様が救ってくれる」と考えて前向きに明るく生きるのだ。それは生きるための知恵と言ってもよいのではないか。
 
 実は日本人のすべてが暗いのではない。
 1章で、回帰分析をすると、自殺率増加の72・8%が失業率の増加で説明できるということを書いた。
 自殺率と失業率は県別でも数字が分かるから、全国データで得られた回帰式を都道府県のデータに当てはめてみると、まったく合わない県がたくさん出てくる。
 
 失業が多いのに自殺が少ない県と、失業が少ないのに自殺が多い県があるのだ。
 そこで、県別失業率のデータを無理矢理全国式に当てはめて得られた推定自殺率から実際の自殺率を差し引いた数字を計算してみた。つまり、県民性によって、自殺を抑制できている度合いである。ここでは仮に「ラテン度指数」(2011ページの図4)と名付けた。
 
 もちろん、簡単な推計でラテン度を計れるはずもないのだが、県によって相当違うことが分かるだろう。そして、私の大好きな沖縄県と大阪府は、それぞれトップと4位という上位を占めている。
 これは、もし沖縄県と大阪府の県民性がなかったら、高い失業率の下で、はるかに大きな自殺が生まれたであろうことを示している。
 
 イタリア人やアルゼンチン人になるのは難しいとしても、沖縄人や大阪人になら、同じ日本人として、なれる気がしないだろうか。
 いまの日本人は何だかんだ言っても、戦後ずっと経済が順調だったから、少しのショックにも耐えられなくなっている。
 
 例えば夫の賞与が減っただけで、専業主婦の奥さんは「私たちの生活はどうなってしまうの」と右往左往してしまう。
 だが、これからもっともっと大きなショックがやってくる。
 それは日本の「安定」を根本から揺るがすアメリカ型の階級社会だ。しかも、9割のサラリーマンは、「負け組」の方に向かう。
 
 そのときに、自分は落伍者だと思うことが、本当に負け組になってしまうことなのだ。ほとんど可能性のない階級社会での「成功」をひたすら目指すのか、それとも、割り切って自分にとって本当に「幸福」な人生を目指すのか −。
 私は絶対、自分にとっての「幸福」 のほうを選ぶ。
(森永卓郎著「年収300万円時代を生き抜く経済学」光文社 p198-203)
 
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 絶対的な幸福とか不幸とかいうことはわたしたちは知らない。この世ではすべてのものが入り混じった状態にある。純粋な感情というものは味わうことができない。人は同じ状態に一瞬間しかとどまることができない。わたしたちの心の動きは、肉体が変化するのと同じように、たえざる流れのうちにある。
 
よいことと悪いことばわたしたちすべてに共通にあるのだが、ただその程度がちがう。もっとも幸福な人とはもっとも苦しみを味わうことの少ない人のことだ。もっとも不幸な人とはもっとも喜びを感じることの少ない人のことだ。苦しみはかならず楽しみよりも多くある。これはあらゆる人にとって共通のちがいだ。
 
この世における人間の幸福はしたがって消極的な状態にすぎない。それは人が味わう苦しみの最小量によって計られるべきだ。
 
 苦しみの感情にはいつもそれからのがれたいという欲望がともなう。喜びの観念にはかならずそれを楽しみたいという欲望がともなう。いっさいの欲望は欠乏を前提とする。そして、欠乏の感情にはかならず苦しみがともなう。だから、わたしたちの欲望と能力とのあいだの不均衡のうちにこそ、わたしたちの不幸がある。その能力が欲望とひとしい状態にある者は完全に幸福といえるだろう。
 
 そこで、人間の知恵、つまり、ほんとうの幸福への道はどこにあるか。それはわたしたちの欲望をへらすことにあるとはいえない。欲望がわたしたちの能力にくらべて少なければ、わたしたちの能力の一部はなにもすることがなくなり、わたしたちはわたしたちの存在を完全な状態において楽しむことができないからだ。
 
それはまた、わたしたちの能力を大きくすることでもない。同時にもっと大きな割り合いで欲望が大きくなれば、そのためにわたしたちは不幸になるばかりだからだ。それはただ、能力をこえた余分の欲望をなくし、力と意志とを完全にひとしい状態におくことにある。
 
そうすることによってはじめて、いっさいの力は活動状態にあり、しかも心は平静にたもたれ、人は調和のとれた状態に自分をみいだすことができる。
 
 すべてを最善のものとしてつくる自然は、はじめ人間をこういうふうにつつくったのだ。自然は、直接的には自己保存に必要な欲望とそれをみたすのに十分な能力だけを人間にあたえている。そのほかの能力はすべて、予備として人間の心の奥底にとっておき、必要に応じてそれらをのばさせる。この本源的な状態においてのみ、力と欲望の均衡がみいだされ、人間は不幸にならないのだ。
 
潜在的な能力が活動しはじめると、あらゆる能力のなかでももっとも活発な想像力がめざめ、ほかのものに先行することになる。想像力こそ、よいことであれ、悪いことであれ、わたしたちにとって可能なことの限界をひろげ、したがって、欲望を満足させることができるとい期待によって欲望を刺激し、大きくしていくのだ。
 
ところが、はじめはつい指の先にあるように見えたものは、追いついていけないはやさで逃げて行ってしまう。捕えたと思うと姿を変えて、わたしたちのはるかかなたにあらわれる。すでに通ってきた国はもはや目にはいらず、わたしたちはそれになんの価値もあたえない。これから行くことになっている国はたえず大きくなり、ひろがっていく。
 
こうしてわたしたちは疲れはて、目的地に着くことができない。そして、楽しみを味わえば味わうほど、幸福はわたしたちから遠く離れていく。
 
 はんたいに、自然の状態の近くにとどまっていればいるほど、人間の能力と欲望の差はちぢまり、したがって幸福から離れることが少なくなる。あらゆるものを欠いているように見えるときに人間はいちばんみじめなのではない。不幸はものをもたないことにあるのではなく、それを感じさせる欲望のうちにあるのだ。
 
 現実の世界には限界がある。想像の世界は無限だ。前者を大きくすることはできないのだから、後者を小さくすることにしよう。わたしたちをほんとうに不幸にする苦しみはすべて、この二つの世界の大きさのちがいから生まれるからだ。
 
力、健康、自分はよき者であるという信念、これらを除けば、この世でよいものとされているものはすべて人々の憶見のうちにある。肉体の痛みと良心の悩みとを除けば、わたしたちの不幸はすべて想像から生まれる。その原則はありふれたことだ、と人は言うかもしれない。そのとおりだが、それを実地に適用するのはありふれたことではない。そしてここで問題になるのは実践だけなのだ。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 p104-106)
 
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このような場合には、労働者は飢餓のためにどんな条件のもとでも仕事にもどり、そして数人が仕事にもどれば組合の力はうちくだかれてしまう。というのは、これら少数のスト破りと、まだ市場に残っている在庫品とを利用して、ブルジョアジーは事業中断の最悪の結果を避けることができるからである。
 
組合の基金は、援助を必要とする人が多いためにすぐなくなり、小売商人が高い利子つきでみとめてくれる掛け売りも、長くつづくと断られ、そして困りはてた労働者はまたブルジョアジーのくびきのもとへ帰っていく。
 
しかし工場主は自分自身の利益のために──もちろん、労働者の抵抗があったからこそ、彼の利益となったのだが──不必要な賃金引き下げはいっさい避けなければならないし、
 
一方、労働者は商売の景気に左右されて賃金が引き下げられるたびに、自分たちの状態が悪化すると感じて、全力をあげて自分たちを守らなければならないのだが、たいていのストライキは労働者に不利に終わるのである。
 
そうだとすれば、その方法が無効だということがはっきりしているのに、労働者はなぜストライキをするのか、と問われるであろう。それは簡単明瞭である。それは彼らが賃金の引き下げに抗議し、引き下げの必然性そのものにも抗議しなければならないからであり、また、彼らは人間として、現状に順応するのではなく、現状こそが彼らに、人間に、順応すべきだと宣言しなければならないからである。
 
それは労働者が沈黙することは現状をみとめることであり、そのことは、好況期には労働者を搾取し、不況期には労働者を飢えさせるブルジョアジーの権利をみとめることになるからである。
 
これにたいして労働者は、彼らがまだあらゆる人間的感情を失っていないかぎり抗議しなければならない──。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-下-」新日本出版社 p50)
 
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◎沈黙することは出来ない。