学習通信030913
◎石原発言がつづく 「テロを行う。世の中というのはああいう繰り返しだ」……
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石原都知事
テロ「むべなるかな」
暴言撤回せず さらに暴言
東京都の石原慎太郎知事は12日、都庁内で、外務省の田中均外務審議官にたいするテロを容認した発言について弁明会見し、犯人グループの行動について、「痛烈な批判の、ある意味で乱暴な手だてであるということは理解できる」とのべるなど、いっそうテロ容認の姿勢を示しました。
石原氏は会見で、暴言について、「撤回、訂正はしない」と強調。「(テロは)いままでの外務省の言動をみれば、ありえてむべ(=もっともであること<広辞苑第五版>)なるかな」とのべました。「犯罪の原因は外務省や田中審議官の側にあったという認識か」という記者の問いには「それはそうだ」とのべました。
石原氏は、テロを「当たり前の話」とした発言について、「心情的にそれに賛成しているわけではない」と言い訳しながら、「世の中にテロが無くなるかといえば、ある。人間はそういうものを最後にもっている」「(テロを受けて)外務省なり政府は、反省するなり、自戒して、これからの行動をとったらいい」とのべました。
さらに、60年10月に浅沼稲次郎社会党委員長が右翼に刺殺された事件にふれ、「浅沼稲次郎委員長だって、ぼくらにいわせれば、おかしなこっけいなことをするなと思っていたら、やはりああいう形で山口二矢(おとや=刺殺犯の少年)君が出てきて、テロを行う。世の中というのはああいう繰り返しだ」とのべ、過去の凶悪なテロ犯罪にも共感を示す、異常な態度をとりました。石原氏は、被害者である田中審議官を激しく非難したうえ、「自業自得とはいわないが、こういうこと(テロ)でもなければ、彼(田中審議官)は自分がやったことの反省、評価をしないのではないか」とのべました。
(しんぶん赤旗030913)
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そこで、人間をすでに出来上った姿で見ることしか教えてくれない学問上の書物はすべてすておいて、人間の魂の最初のもっとも単純なは挺ちきについて省察してみると、私はそこに理性に先だつ二つの原理が認められるように思う。
その一つはわれわれの安寧と自己保存とについて、熱烈な関心をわれわれにもたせるものであり、もう一つはあらゆる感性的存在、主としてわれわれの同胞が滅び、または苦しむのを見ることに、自然な嫌悪を起させるものである。
じつは、このほかに社交性の原理などをもってくる必要は少しもなく、右の二つの原理を、われわれの精神が協力させたり、組み合せたり、できることから、自然法のすべての規則が生じてくるように思われる。
後になって、理性がその継続的な発達によって、ついに自然を窒息させてしまったとき、理性はこれらの規則をまた別の基礎の上にたて直さなければならなくなるのである。
こうして、われわれは哲学者をまず人間にする前に、人間を哲学者にする必要はない。他人に対する人間の義務は、もっぱら知恵の遅まきの教訓だけによって命じられるのではない。それに、人間は憐れみという内的衝動に少しも逆らわないかぎり、他の人間にも、また、他のいかなる感性的存在にさえも、けっして害を加えないであろう。
ただし、自己の保存にかかわるために、自分を優先しなければならない正当な場合だけは別である。この方法によって、動物も自然法にかかわるかどうかという昔からの論争もやはり結末をつけられる。
というのは、知識も自由ももたない動物たちが、この法則を認識できないことは明白だからである。しかも動物もその授かっている感性によって、ある程度われわれの自然にかかわりがあるのだから、彼らもまた自然法に加わるはずであり、そして人間は彼らに対してなんらかの種類の義務を負うている、と判断されるだろう。
実際、私が同胞に対してなんらの悪をもしてはならない義務があるとしたら、それは彼が理性的存在であるからというよりは、むしろ彼が感性的な存在であるからだと思われる。この特質は動物と人間とに共通であるから、これが少くとも前者が後者によって無用に虐待されないという権利を前者に与えているはずである。
本源的人間とその真の欲求とその義務の基本的原理とに関するこのような研究こそ、今なお、道徳的不平等の起原や政治体の真の基礎やその成員相互間の権利や、その他重要ではあるがよく解明されていない無数の同様な問題に関して現れてくるおびただしい困難をとり除くために人の用いうる唯一の有効な方法である。
人間社会を平静で公平な眼をもって眺めてみると、まずそれはただ強い者の暴力と弱い者への圧迫だけを示しているようにみえる。そこで、人の精神は前者の冷酷に対して反抗したり、後者の無自覚を嘆きたくなったりする。
そして、人間のあいだでは、知恵よりもしばしば偶然によって生み出され、弱さあるいは強さ、富裕あるいは貧困と呼ばれる、あの外面的な関係ほど安定性のないものはないのだから、人間の建設物〔制度〕は、一見したところ、くずれやすい砂山の上に築かれているかのように思われる。
それらを注意ぶかく点検してはじめて、また、建物を包んでいる喉と砂を払いのけてはじめて、人は建物の立っている磐石の礎を認め、そしてその基底を尊敬すべきことを学ぶのである。
(ルソー著「人間不平等起源論」岩波文庫 p30-33)
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◎深く問題をとらえよう。些末な問題ではないのです。
◎学習通信≠ナ学んでいるみなさん。引用されている書籍、特の科学的社会主義の古典を手にいてれ一緒に読んでいきましょう。考えていきましょう。
◎携帯電話でもアクセスできるそうです。彼女(彼)とのデートの合間にアクセスして頭のリフレッシュ(?)を……と。仲間にも広げて下さい。労働学校と同じように、これも学習運動≠ネんだと思います。