学習通信030903
◎本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握してれか存在が、世界中でひとりだけいる。それが「神」である。
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日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。出産ビデオの例でも、男たちは保健体育で雑学をとっくに仕込んでいるから、という理由だけで、「わかっている」と思い込んでいた。
その延長線上から、「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、わかってもらえるはずだ」といった勘違いが生じてしまうのも無理はありません。
現実とは何か
もう少し「わかる」ということについて考えを進めていくと、「そもそも現実とは何か」という問題に突き当たってきます。「わかっている」べき対象がどういうものなのか、ということです。ところが、誰一人として現実の詳細についてなんかわかってはいない。
たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし、記憶というものも極めてあやふやだというのは、私じゃなくても思い当たるところでしょう。
世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍之介の小説『薮の中』や黒澤明監督の『羅生門』のテーマだった。同じ事件を見た三人が三人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の一つの主題です。まさに現実は「薮の中」なのです。
ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっています。
だから、テレビで見たというだけで、二〇〇一年九月十一日にニューヨークで何が起こったか、「知っている」「わかっている」と思ってし患う。実際にはテレビの画面を通して、飛行機が二棟の高層ビルに突撃し、その結果ビルが崩壊していったシーンを見ていただけです。その後、ニュースではテロの背景についての解説も繰り返されました。
しかし、テレビや新聞を通して一定の情報を得ただけの私たちにはわかりようもないことが沢山あるはずです。その場にいた人の感覚、恐怖だって、テレビ経由のそれとはまったく違う。にもかかわらず、ニュースを見ただけで、あの目に起きた出来事について何事かがわかったかのような気でいる。そこに怖さがあるのです。
現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。
実際には、そうではありません。だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教は、現実というものは極めてあやふやである、という前提の下で成立したものだと私は思っています。
つまり、本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握してれか存在が、世界中でひとりだけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提が出来る。それゆえに、彼らは科学にしても他の何の分野にしても、正しい答えというものを徹底的に追求出来るのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する、ということなのです。
ところが、私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖が無い。それは当然のことで、「絶対的真実」が存荏していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との、大きな違いです。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p18-21)
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「なぜ」に答えられない科学
自然を相手に研究する科学者は、少なくとも机に向かっている間は唯物論者であり、神のことは念頭にない。そして、立ち向かっている自然の謎を解くにあたって、神の助けを得ようとも考えていない。
しかし、なぜ、このような美しい法則が成立しているのか、自然の絶妙な仕組みがどのように準備されたかをふと考えるとき、それを神の御技と考える人はいる。
現在の自然科学の目標は、対象たる物質を所与のものとして、その起源・構造・運動・変化の法則性を明らかにすることにある。たとえば、ニュートンは、木から落ちるリンゴの運動と太陽をめぐる惑星の運動は同じ万有引力によって引き起こされており、その力の強さは距離の二乗に反比例することを明らかにした。
このとき、「万有引力が距離の二乗に反比例していれば、これらの運動が正確に再現できることを証明した」のであって、「なぜ万有引力の法則が距離の二乗則になっているのか、なぜ三乗則ではないのか」を明らかにしたわけではない。
もし、万有引力が距離の三乗に反比例する宇宙があれば、その宇宙の構造は私たちの宇宙とはまったく異なっていることだろう。そのような宇宙があっても別に構わないが、「少なくとも、この宇宙では、万有引力は距離の二乗に反比例している」と言っているのに過ぎない。
つまり、科学者は、「法則がなぜそのようになるのか」という問いに答えようとしているわけではなく、「そのようになっていることを証明しょうとしている」だけである。なぜ空間は三次元なのか、なぜ光の速さは秒速で三〇万キロメートルなのか、なぜ電子の質量は五一〇キロ電子ボルトなのか、等々の基本的な問いかけには答えることができない。
「そうなっている」としか言えないのだ。あるいは、「神がそうした」のだと信じ、自然の存在そのものや自然が従っている法則を、神の託と考える科学者もいないわけではない。むろん、自然科学の最終日標はそれらの「なぜ」に答えることにある、とする無神論者の方が多いのだが。
そもそも、キリスト教世界である西洋に発した近代科学は、自然を神が書いたもう一つの書物とみなし(むろん、他の一つは『聖書』である)、自然を研究することは、神の意図を理解し、神の存在証明をするための重要な作業と考えてきた。ガリレイやニュートンの著作には神の名がよく出てくるし、「神が創った宇宙だから美しいはず」という信念で研究に励んできた科学者も多い。
神の存在と自然科学は、少なくとも近代科学の笥期ではなんら矛盾した関係にはなかったのだ。
しかし、時代を重ねるにつれ、神の存在証明をしようとして進めてきた自然科学であったにもかかわらず、逆に神の不在を導き出す皮肉な結果を招くことになった。神の御技と思われてきたさまざまな現象が「物質の運動」で説明でき、神の助けがなくてもいっこうに構わないことがわかってきたからだ。
神を嫌う不遜な科学者が増える一方になったのである。一九世紀末、哲学者によって神の死が宣言されたころ、科学者は、この宇宙は熱死すると論じて神の死を保証すらした。そして今や、科学者が神の役割を果たしているかのごとくに錯覚しかねない状況になってしまった。
とはいえ、科学者は、「なぜ」の問いかけに答えられないのだから、神と完全に手を切るわけにもいかない。そこで神を巧妙に利用する手を編み出すことになった。その好例は、アインシュタインが物質の運動を確率論的にしか予言できない量子論を批判して、「神はサイコロ遊びをしない」と述べた一件だろう。
物理法則がどのようなものであるべきかは、誰にも先験的にわかることではなく、実験事実を基にして組み上げるしかない。その結果として、確率論的に記述する量子論にたどりついたのだが、その理論も実験を通じて検証するしかない。
一つでも理論と矛盾する実験事実が発見されると、その理論はおじゃんになる。人間はすべての実験をおこなうことができないから、その理論が正しいのかどうかの完全な証明は不可能である。それは、ただ「神のみぞ知る」ことなのだ。アインシュタインは、確率でしか電子の挙動が予言できないような物理法則が気に入らなかったので、神に仮託してそれを拒否したのだった。
これに対し、ハイゼンベルグなど量子論の創始者たちは、「どうして神をそんなふうに決めつけられるのか」と反論した。微視的世界は確率論的な理論で過不足なく説明できるのだから、サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよい、というわけだ。それぞれ自分に都合がよい神のイメージを描いていたのである。
このように、科学者が神を持ち出すのは、科学は全知ではない人間の営みに過ぎないことを思い出させるため、とも言えるだろう。仮託した神に法則の正しさ(誤り)をお伺いしているのだ。仮託した神はそれぞれ異なるから、異なったご託宣が出ることにもなる。
ときには、神ではなく「悪魔」が登場したり、パラドックスが持ち出されて、法則の盲点をつこうという挑戦もあった。また、科学の対象や内容が変化するとともに、サイコロ遊びどころか賭博にふける神へと堕落したり、唯一神は捨てられて八百万(やおよろず)の神になったりと、科学者が仮託する神の姿も変容してきた。これも、科学の法則には必ず適用限界があり、「絶対」と信じ込んではいけないことを警告するためかもしれない。
本書は、物理学の歴史に登場してきた神の姿の変容を追いかけることによって、物理学の内実がどのように変化してきたかをたどる試みである。およそ神の概念と縁遠い私だが、物理学の歴史に立ち現れてきた神の姿を追いかけてみると、それぞれの時代の物理学の状況だけでなく、社会の権力構造や世相を反映していて興味深い。
人間の営みとは縁遠い自然哲学である物理学といえども、社会情勢と無縁ではなかったのだ。また、悪魔やパラドックスを通じての神への挑戦や、神の代理をつとめようとする倣憤不遜な人間の挑発にも目配りをしてみたい。特に、私の専門である宇宙論のような、「かくあれかし」「かくあるはず」と、勝手な主張が可能であった世界では、神のイメージが各時代の宇宙像に如実に反映していることがよくわかる。
(池内了著「物理学と神」集英社新書 p3-6)
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これほどイデオロギー的な基盤の上に唯物論的な学説を築くことができないのは、自明のことである。あとでわかるように、デューリング氏は、自然に、意識的な行為の仕方を、つまり、普通のことばで<神>と言っているものを、何回かこっそり押し付けなければならなくなるのである。
しかしながら、わが現実哲学者がいっさいの現実性の基盤を現実の世界から思想の世界へ移したのには、ほかにもまだ動機があったのである。この一般的な世界図式構造についての学、すなわち、存在のこの形式的諸原則についての学こそ、デューリング氏の哲学の基盤なのである。
もしわれわれがこの世界図式構造を頭のなかから導き出すのではなく、ただ頭を使って現実の世界から導き出し、存在の諸原則を現に存在しているものから導き出すのであれば、そのためにわれわれが必要とするものは、哲学ではなくて、世界とそのなかで起こっていることについての実証的な知識である。
そして、そこから生まれてくるものも、やはり哲学ではなくて、実証的な科学である。それでは、しかし、デューリング氏の書物の全体が恋の骨折り損にすぎないものになってしまうであろう。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社-上- p54-55)
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◎「バカの壁」依然としてベストセラーのトップに入っています。そこで扱われる<神>…… しっかりまなびましょう。
◎昨日の学習通信≠ナ、労働者が学ぶと言うことの意味が明らかになったと思います。科学的社会主義を学ぶ労働学校の役割も明確になると思います。
◎開校まで50日あまりの現段階から、どんどん新しい仲間に広げるなら10年来で最高規模の労働学校が実現できます。みんなの力を!