学習通信030901
◎鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい。
 
■━━━━━
 
私と小鳥と鈴と
 
私が両手をひろげても、
お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
(金子みすず童謡集 ハルキ文庫)
 
■━━━━━
 だがいまいちど、自分の顔をきちんと観察してみてほしい。いろんなものを足していくまえに、そこにすでに在るものを知ってほしいような気がするのだ。意外とものすごい個性が発見できちゃったりするかもしれない。それもこわい。
 
『美しい表情の秘密』(古川正重、アテネ社、一九九五年)には、「日本女性の美しいプロポーション」の項がある。
 
 美意識には、日本人であれ西欧人であれ、人種、民族に共通した普遍的なものと、環境、風習、文化の違いによって異なる固有の美があります。さらに個人差もあるでしょぅ。しかし、それぞれの固有の美しさは、それが自然的であれ人工的であれ、すべて美しい均衡を持っています。
 
 この説を逆手にとれば、バランスのないものが不美人ということになるであろう。一般的に欠点とされる特徴を、顔ならびに身体に有することを不美人であるとすることは容易だ。それが、紛れもない不美人ではある。
 
 しかし、不美人の素をたくさん所有していることが不美人ではないのだ。いろいろな種類の欠点と思えるものは、見方を変えるならば欠点ではなくなる可能性もある。バランスを持っていないことが、たとえようもない魅力とも成り得る。
 
 不美人の素は美人の素でもある。
 
 美人の素とはいかないまでも、不美人の素はある種の個性、もしくは魅力とも成り得るからだ。画一化された枠組みの中にけっしておさまることのない、その人だけが持つもの、私はそれこそが個性であると考えている。
 
個人に具わるもの
 
 個性というものが重要視されるようになったのは、遠い昔のことではない。
 
 現代の美貌に欠くべからざるものは個性的な独自性である。個性的な美貌の要求は決して昔々からあつたものではなく、現代の歴史的な要求である。個性の要求が始まるとともに個性美の尊重が生れそして容貌の美のなかにも個性美が強く求められることになつた。表情的な美と言っても類型的表情ではまだ現代の代表的美貌とは言へない。それは個性的な表情美でなくてはならないのである。
 
 個性のある容貌、化粧、表情が何故現代のセンスに好ましく考へられるのか、それにはそれを規定してゐる歴史的な条件を探さねばならない。先づ、個性の要求は、社会の分散が行はれてゐない昔には全く存在しなかつた。(略)そしてそのやうな昔から十八世紀に至るまで個性の欲求は殆ど存在しなかつた。(略)
 
 個性ある顔−特にその一例としての現代知識層の顔に見る通りに−は、所謂美男美女型でなくて、いはゞ、新しいタイプの美の概念として、うけ入れられつゝある……(略)即ち、単純な美男美女型の俳優の顔面では現代の人々を表現し、こなすことはすでに困難になつたといふ意見がそれだ。
 (大和勇三『顔−顔・表情・化粧の文化史』、改造社、一九五〇年)
 
 個性ということに関する認識は、以上の通り五十年ほど前には既に活字として登場している。「個性」とは、個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質であるからそれを際立たせることが、はたして美と成り得るかは疑問である。
 
 しかし敢えて自分であることを際立たせたい。
 
 他人とは明らかに異なる自己を見出すことが、すなわち不美人への道となるのであればそれで結構ではなかろうか。
 
 それは美人というナンバーワンをめざすことではなく、不美人というオンリーワンになることである。不美人は唯一無二のものなのだ。ただ一人の自己の認識である。
(陶智子著「不美人論」平凡新書 p211-213)
 
■━━━━━
オレがこの2年間で皆さんに言いたかったこと
 
 さて、いよいよこの連載も来週で最終回というところまで来た。この連載を始めたことでストレスを発散できたこともあったし、この連載自体がストレスの原因になったりもした。しかし、そんなことも来週でとりあえずおしまいである。
 
 思い起こすに、この二年間、ほとんど笑い″というテーマだけでよくやってこれたと自分でもびっくりしている。お笑いの世界の人間ならまだしも、一般の人たちもよくもまあ−、オレの狭い範囲の話に長々とつきあってくれたものだと、さらにびっくりしている。
 
 いまさらこんなことを言うのもなんだが、自分から終わりにしようと決めたものの、いざそれが現実となって近づいてくると、正直なところ少しさみしさも出てくるものである。夜中に一人で机に向かってかりかりと自分勝手に気の向くままにものを書くという作業は、けっこう自分にあっていたのかもしれないなどと思えてくる。
 
 第一回から読み返してみると、やはり最初のころは変に肩に力が入っていたなあなどと感じたり、自分が書いときながら妙に納得させられたり、ちょっと強引やぞと思ってみたり、自分で自分に勇気づけられたりとなかなかおもしろいものだ。
 
 不思議なのは、いままでさんざんわがまま勝手に言いたいことを言い、人に悪態をついてきたわりには、何ももめごとがなかったなあと思うことだ。もしかしたらオレの耳に入ってきていないだけなのかもしれないが、抗議らしきものは一切なかったようだ(たぶん)。まあオレが笑いをテーマに書く分には、だれに何を言われる筋合いもないと言えばないのだが。
 
また、だれに怒られたところで、この連載はすべてオレの意見であり、「すいません」などと謝るようなものでもないし、謝ったところでオレの意見は変わらないだろうし、まあいままで抗議が一回もなかったのはオレの考えが間違っていなかったからなのだろうと、またまたいささか強引にまとめてしまおう。
 
 確かに二年もやっていると、好きな回と嫌いな回というのが出てくるものであるし、そのときといまでは少し考えが違っている部分もある(それはオレがそのときより進歩しているということであろう)。
 
 オレがこの二年間で皆さんに言いたかったことは何か? 何もオレが最高だ、オレが一番だ、オレが天才だということじやない。オレが言いたかったこと、それは、自分に自信をもつことは悪いことじやないんだということである。
 
 趣味や遊びならともかく、それでメシを食い、親や家族を養っていく本業である仕事に自信をもち、その世界で自分がいちばん高いところにいるという気持ちはあって当然だし、なけりやいかんと言いたいのだ。
 
 生意気だとか自画自賛だとかナルシシストだとか言うヤツがいるかもしれないが、そんなもん関係あるかい。肩で風切って歩いたったらええんじやい。自分が一番と思わんようなら芸人なんてやめちまえ。
 
 ただ、言うからには言うただけのことはせんといかんけどね。□だけで内容が伴っていないウンコちやんほどカツコ悪いことはないからね。その考えは一回目から、ずっと変わっていない。
(松本人志著「「松本」の「遺書」」朝日文庫 p253-254)
 
■━━━━━
 国が違うからといって、人びとが殺しあういわれはない
 池田香代子
 
 かつて、国とは王国のことでした。おおざっぱに言えば王の私有地みたいなもので、戦争とはその所有権争いのようなものです。そこで本気で命のやりとりをしたのは、王からじかに土地をまかされた封建貴族たちだけでした。ふつうの人びとは傭兵として参加したにすぎず、王の領土のために命をかけるなんて気はさらさらありませんでした。
 
 ふつうの人びとが命がけで守るべきとされたのは、そのあとに現れた近代国民国家です。なぜなら、そこでは人びとが、王に代わって主役に躍り出たからです。人びとによる戦いをとおして、近代国家は誕生しました。
 
 人びとは、内に向けては王と戦って自分たちの権利をひとつまたひとつと獲得しました。そして、王国から国民国家になった国は、その役割を1800度変えて、人びとの権利の保障者としてふるまうべきだ、と人びとの側からきびしく言い渡されたのです。それを文章にしたものが憲法だ、といってもいいでしょう。
 
日本の憲法も、人類が戦いとったこれらの権利を、普遍的な遺産として継承する、と誇らかに宣言しています。憲法と言うと聖徳太子のそれを連想し、上から与えられるもの、と考えがちですが、けっしてそうではないのです。
 
 そんな国民国家はここ1、2世紀、人びとの活力を引き出し、人類の進歩に大きく貢献しました。けれども、近代の国民国家にはそうした光の部分とともに、影の部分もあります。そのいちばん大きなものが戦争です。新しい共同体を獲得するための人びとの戦いは、内に向かっただけでなく、外にも向かいました。
 
人びとは他の国の人びとと戦って、国民国家という新しい共同体を獲得しました。そうした歴史的ないきさつから、近代の国ぐには交戦権を固有の権利としました。さらには、それを盾として、「国を守るため」にさまざまな戦争をしてきました。
 
国民国家の近代は、人びとが本気で殺しあう戦争という新しい悲惨を生み出したのです。国がなければ戦争もない、という「イマジン」(ジョン・レノン)の一見素朴なりくつは、近代の国民国家の本質を衝いています。
 
 そこへ、交戦権を放棄する国がぽつりぽつりと現れはじめました。日本もそのひとつです。「国を守る」ための交戦権や軍隊は、使ったり待ったりしてみたら自国や他国の人びとを傷つけるものだった、ということへの深刻な反省を踏まえて、そのような選択をしたのです。
 
 自分が生まれたときのいきさつを、ずっと言い立てて人生の指針とするのか、生まれてから自分がしたことを踏まえて新たな人生を選択するのか、と問われれば、多くの人はもちろん後者だと言うでしょう。
 
けれど多くの国は? そして世界は? 大きすぎ、機構も利害関係も複雑すぎて身動きもままならず、慣性の法則にしばられて、よりよい未来を選択しそこなってはいないでしょうか。
 
 たしかに、交戦権を放棄した近代国民国家とは、矛盾した存在です。矛盾した存在として、日本はさまざまな試練や葛藤をさけられなかったし、これからもそうでしょう。けれど、日本のような国が矛盾した存在ではなくなる世界を、それこそがふつうの国である世界を、いまこそ夢みつづける義務が、日本のわたしたちにはありはしないでしょうか。
 
 国が違うからといって人びとが殺しあういわれなどない世界は、つい2000年ちょっと前にはあったのです。だったら、わたしたちひとりひとりが夢をみつづける意志の向こうに、それは新しい姿でふたたび実現するのではないでしょうか。
(池田香代子訳「やさしいことばで 日本国憲法」マガジンハウス p74-75)
 
■━━━━━
 
イマジン ジョン・レノン、オノ・ヨーコの合作
 戦時下日本の少女時代を反映
 
 【ロンドン31日時事】31日付の英日曜紙サンデー・タイムズは、故ジョン・レノンさんの代表作「イマジン」が実はオノ・ヨーコ夫人との合作で、戦時下の日本で少女時代を過ごしたオノさんのより良い世界への願いが反映されていることが、BBCのドキュメンタリー番組で明らかになったと報じました。番阻は9月20日放送の予定。
 
 同紙によると、歌詞中で繰り返される「イマジン(想像してごらん)」は、オノさんがレノンさんと出会う前に作った詩の中にあるリフレインを取り入れたものだといいます。
 
 オノさんはその由来について、空襲に見舞われる当時の日本で苦しみを和らげようと当時12歳の少女がいかに想像力を働かせたかを説明。「空腹の弟のためにメニューを想像してあげると、弟はほほ笑み始める。イマジネーションの力はとても強い」と述べています。
(しんぶん赤旗 030901)
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「それは美人というナンバーワンをめざすことではなく、不美人というオンリーワンになることである。不美人は唯一無二のものなのだ。ただ一人の自己の認識である。」「オレが言いたかったこと、それは、自分に自信をもつことは悪いことじやないんだということ」……。
 
◎115期労働学校の学園祭が9月6〜7日に泊まり込んで開催される。参加者は現在66名となっている。これだけの人数が泊まり込みの取り組みに参加しようとするのは、20年前と比較して同規模となっています。中身はまったく違います。虹のむら≠造ろうというわけです。むらの記章もできました。歌もあります。村(むら)証≠烽ナきあがっています。みんなわくわく≠オています。
 
◎出し物は、各コースが学んだ内容をペープサートにしたりしてみんなに発表します。学習は戦争! オンリーワン≠ナす。沖縄戦を学びます。
 
◎みんなの持っている力をどれだけ発揮させるかが、これまでの準備と当日の進行の要です。最後まで手を抜かずに……。労働学校で学ぶって魅力的だよ。