学習通信030830
◎登山……民衆の好奇心を野放しにすれば
 
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 日本人にとっては、山は眺めるに一種崇拝の情なしではいられなかった。日本人にとっては、山岳は悪魔のすみかではなくして、むしろ聖地であり、霊地であった。悪魔を恐るるのではなく、神仏の霊地を汚すことに気遣った。
 
 この違いは比較文化の対象としてもじつにおもしろいものだが、200年余り前の時点でみてみると、日本人はすでによく山に登っていたのに対し、ヨーロッパ人でアルプスに登ろうとする人はいなかった。ヨーロッパでは当時、山は悪魔や龍や魔女の棲家として忌み嫌われていたのである。
 
 にもかかわらず、近代的な登山は、日本ではなくヨーロッパで始まる。それはなぜなのだろうか。近代的な登山はたかだか200年ほどの歴史しかもっていないのだが、こんなふうにみてくると、なかなかおもしろい問題が残されているようだ。
 
 薬草採りか鉱山か
 
 考えてみると登山というのはずいぶん奇妙な行為である。重い荷物を担ぎ、重力に逆らって歩むきつい作業だし、痩せ尾根を越える際や岩壁でのロック・クライミング、あるいほヒマラヤなどでの高所登山のように、登る場所によってほたいへんな危険を伴う。
 
事故のほか天候の急変や急病もあり、ときにはそれが原因となって死に至ることさえある。しかも猟師や釣り師などを除けば、それによって直接得られる収穫物は何もない。エネルギー収支の点では明らかに大幅なマイナスである。強いて得られるものを挙げても名誉か自己満足だけであるから、登山に無関心な人からみれば、登山者というのはなんだかわけのわからないことに熱中している、不思議な連中にしかみえないに違いない。──略──
 
 登山とは文化的な行為であり、近代西欧型の発想を身につけた文明人のみが行なう作業である、と桑原は指摘している。原始人は通常、よほどの例外を除いて、けっして危ない山の頂きに登ったりはしない。登山史をひもとけばすぐわかるように、近代的な登山の始まりは、近代の自然科学の開始とほぼ時期を同じくしている。
 
登山は明らかに探検や研究に通じるような面をもっているのである。「君はなぜエヴェレストに登るのか」と問われて「そこにあるからさ」と答えたイギリスの登山家マロリー(1886〜1924)のエピソードは知らぬ者のないほど有名だが、この答えは近代登山の考え方を端的かつ簡潔に表わしているといってよい。
 
 好奇心と登山
 
 近代的な登山や探検・冒険と自然科学の間には共通の基盤がある。それは旺盛な好奇心である。好奇心の旺盛な人間は、不思議なことをおもしろがり、単なる実用の域をはるかに越えて物事を知ろうとしたり、一文の得にもならないことを一生懸命に調べたりする。
 
あるいは奇妙なものを発明したり、未知の領域を求めてどんどん突き進んでいったりもする。これはまさに科学者の精神であり、登山家や探検家の態度でもある。
 
 このような態度や考え方は、現在でこそ当然のことのように考えられているが、歴史的にみると、あたりまえでない時代のほうがはるかに長かった。好奇心の素直な発露が許されない時代が長く続いたのである。
 
考えてみればすぐにわかることだが、民衆の好奇心を野放しにすれば、その中から必ず、いろいろ不思議なことに興味や関心をもったり、疑問を感じて何かを調べたりするような変わり者が出てくる。
 
このことは、すでにある政治体制を維持したい権力者にとってけっして好ましいものではない。民衆が賢くなれば、不平等に対する疑問や特権階級の支配に対する疑念が生じ、ひいてはそれが政権の基盤を危うくすることにつながってしまうからである。
 
このため、文明の歴史のほとんどの時代を通じて、民衆は好奇心をもたないようずっと抑圧されてきたし、それからはずれるとしばしば処罰されてきた。中世のヨーロッパや、「由らしむべし、知らしむべからず」を統治の基本としていた江戸時代の日本などは、その代表的なものといえよう。
 
 いずれにしても、近代的な登山や探検・冒険などは、好奇心を発揮することがそのまま許される、ごく最近の時代になって初めて生まれてくるのである。
(小泉武栄著「登山の誕生」中公新書 p5-9)
 
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 子ども向け山登りのすすめ″
 
 毎朝、「やまのぼりのえらいひと、にほんきょうさんとうのふわてつぞういいんちょうせんせい」という子どもたちの声にあわせて、私が登場するというしかけである。
 
 第一話は「なぜやまにのぼるの」が表題で、「やまはじぶんのはっけん」という主題が字幕で出る。そこで、私の語り。
 
 「おはようございます。今週は山登りのお話をします。
 私、登山靴を買ってちょうど今年で11年になるんですけど、なぜ登るのかと聞かれて考えちゃうんですね。
 
 いろいろ楽しみがあるけれども、やっぱりいちばんは、苦労して登り着いて、やりきったということ、やったな≠ニいう気持ちになる、これがいちばんうれしいですね。自分でもこれだけの力があったな、ということがわかる。自分を発見するといいましょうか。それがなによりの楽しみです。
 
 山にはたくさん楽しみがありますけれども、それはまた明日からお話ししましょう。じや、また明日ね」
 
 第二話は「やまのばりにうまいへたはない」。テーマは「やまもじんせいもいっぽいっぽのつみかさねがだいじ」。
 
 「たいていのスポーツにはうまいへたがあります。サッカーが上手だとか走るのが速いとか。でも山登りは、歩く気さえあればだれでもやれるんです。
 
 もちろん登りがきつくてつらいときもあります。しかし、そこをがんばるのが山登りなんですね。ゆっくりでもいいんです。一歩一歩がんばって、それが積み重なって高い山にも登れるようになります。
 
 これは山だけじゃないんですね。人生に向かってもよく似たことがあります。どこでもどんな問題でも、一歩一歩の積み重ねをやっぱり大事にしていきたいですね。じや、また明日ね」
 
 第三話は「やまをのぼる」。テーマは 「ひとはしぜんとのかかわりのなかでいきている」です。
 
 「めざすのは頂上ですけれども、その途中がとってもいいんですね。花もあれば緑もいっぱい。歩いているだけでいろんな動物に出会えるし、そこらへんにある岩や石もなかなかかっこいいんですよ。
 
 そして山を歩いていると、ほんとうに自然のすごさ、大きさ、そのなかで人間が生きているということを実感しますよね。
 
 なかなか都会で暮らしていると感じないものですけれど、やっぱり人間は自然のなかで生まれて、自然とのかかわりのなかで生きている、この実感が大切だと思いますね。じや、また明日」
 
 第四話。表題は「やまのちょうじょうにはなにがあるの?」、主題は「ちょうじょうにはもののみかたをかえてくれるなにかがある」。
 
 「街にいるとまわりしか見えないでしょ。しかし山の頂上にたどり着くとほんとうに新しい世界が見えてくるんですね。
 
 遠くの山がおりかさなって見える。海が見えるときもある。平野や街も見える。ほんとうに日本を見てるなあって感じがするもんです。空も山の頂上から見るとうーんと大きくて広いんですよね。
 
 世界を大きな広い目で見るってことはほんとうに大切なことなんです。それでものの見方がかわってくるってこともあるんですよね。みなさん、山に登って少しものの見方をかえてみたらどうでしょう。じや、また明日ね」
 
 最後の第五話は「やまをおりるゆうき」。主題は「やまをおりるゆうきはあたらしいやまにのぼるゆうき」です。
 
 「頂上は楽しいんですけれども、いつまでもいるわけにはいかないんですよね。あたらしい山に登るためにも思いきっておりる必要があります。
 
 そしてまた次の山登りの計画をたてましょう。新しい山でもいいし、同じ山になんども登るのも新しい発見があって楽しいものですよ。
 
 みなさんもぜひ山に登って、人生に役立ついろんなことを感じたり学んだりしてください。
 
 じゃあ、今度は山でお会いしましょう。そのときは、こんにちは″ってあいさつしましょうね。
 
 みなさん、山に登りましょう。では、さようなら」
 
 子どもたちにあてた山登りへのメッセージだったが、いまあらためて読みなおしてみると、私なりの山への思いがけっこう語られているものである。
(不破哲三著「私の南アルプス」山と渓谷社 p67-70)
 
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◎「文明の歴史のほとんどの時代を通じて、民衆は好奇心をもたないようずっと抑圧されてきたし、それからはずれるとしばしば処罰されてきた。」登山も歴史的なものなのだ、ということが初めて学ぶことができます。
 
◎不破さんの「登山論」5つの事が指摘されているが、これも学ぶ価値ある内容だ。登山論と人生論……あなたも、人生の全てに貫かれる思想=哲学を労働学校で獲得しましょう。
 
◎第115期が終わりました。修了率は42%でした。目標は50%です。週2回の総合コースが獲得しました。ここには京都の労働学校運動の到達点があります。もっと多くの仲間を総合コースへ。