学習通信030829
◎事柄を完全に逆立ちさせて、現実の世界を、思想を材料に
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話の基本は「逆さメガネ」です。逆さメガネをかけると、視野の上下が逆転します。上下が逆転しても、しばらくそのまま訓練していくと、ほぼふつうに行動できるようになります。上下ではなくて、左右を逆転するメガネもあります。
この特殊なメガネは、そもそも遊び道具ではなく、人間の知覚や認知を調べる実験道具なのです。そういうメガネをかけても、しばらく慣らせばふつうに動けるということは、人間の脳の適応力の大きさを示しています。
とくに子どもにはそうした柔軟性があります。だから社会が逆さまになっていても、それなりに慣れてしまうのです。逆さまだって、ふつうに行動できるなら、それでもいいじゃないか、という考え方もあるでしょう。だから上下や左右が逆転しても、世の中はいちおう動くわけです。
でも、社会が逆さまであったら、子どもはいつも逆さメガネをかけたような状態になっているのです。
メガネをかけるというのは、うっとうしいものです。そんなものなしに、裸眼で世界がすなおに見えたら、そのほうがいい。なぜならメガネを買う必要も、メガネを手入れする必要もないからです。
偏見をもって見ることを、「色メガネをかけて見る」と表現することがあります。現代社会の人は「色メガネ」どころか、「逆さメガネ」をかけてるんじゃないか。私はときどきそう思うのです。
多数の意見だからとか、みんなと同じだからといって、それが当たり前だと思って見ているとしたら、そういう人たちは自分が逆さメガネをかけていることに気がついていないのかもしれません。
逆さメガネをかけているのは、お前じゃないか。そういわれそうな気もします。どちらがどうかは、どちらが楽か、それで決まるといってもいいと思います。
私はこの本に書いたように考えるほうが楽ですが、世間の人はそうは思わないかもしれません。世の中は多数決ですから、私もいちおうは多いほうに従ってきました。ただ、いまのままでは具合が悪いんじゃないの、と感じることは、世間の人より少し多かったかもしれません。
私のように思っているのだけれど、多くの人が反対のことを考えているから、これまで意見がいいにくかったという人もあるかもしれません。この本が、そういう人のお役に立てば幸いです。
(養老孟司著「養老孟司の<逆さメガネ>PHP新書 p4-6)
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池谷 そうなんです。それと「頭のよさ」って、関係あるんじゃないかと思うんです。
何かのヒントになるのではないでしょうか。
つまり、固定観念を持っている人は頑固で「頭が悪い」と捉えられて、今までの因習から自由な目でものを見る人は、「頭がいい」と捉えられます。
最初に「頭がいい」ことの定義のひとつを、ぼくは「正確に判断できること」、つまり、「記憶を参照しながら分類できることだと思う」と言ったのですけれども、分類できるということは、別の側面から言うと「いつでも決まったただひとつのものの見方しかできない、かぎられた狭い考え方しかできなくなってしまう」ということだとも考えられます。
糸井 あ、そうだ。
池谷 「それは、むしろ頭がいいとは言えないではないか」と、自分で思い直したりもします。
脳はもともと思い込みの強い性質があるから、それをいかに崩せるかが、「頭がいい」 ことのひとつのヒントかと思います。
答えはないんですけど、ヒントや関連づけになるかなぁと考えました。
糸井 あぁ、それもすごいおもしろいです。
しかも単純に言って、脳はこんなに縛られている生理を持っているのだから、その思い込みをのりこえたいと思わないと、つまらなくなりますよね?
池谷 ええ、まさにその通りです。「縛られてる生理」っていい言葉。
そしてここで図で示した例は、人によってほとんど差が出ない単純な例です。
個性ではないのです。「頭がいい」 というのは、きっと、個性に関わる話なんですけれども。
糸井 池谷さんが「わからない要素について、どうわからないかを整理しているところ」は、伺っていて心地いいです。
レストランに暖色系を使うとか、黒とか白の無彩色も大丈夫になったとか、そういうイメージも、きっと脳と関係あるんだろうなぁと思いました。
池谷 ええ。色や、それ以上の高度な認識に関しては、もっと文化の刷りこみや先入観があるでしょう。
糸井 なるほど。脳は疲れないぐらいによくはたらくやつだけど、同時にどれだけ主観的で不自由な状態にあるのかが、よくわかりました。
(池谷・糸井著「海馬」朝日新聞 p101-103)
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だから、氏が問題にしているのは、もろもろの原理であり、外界からではなく思考のうちから導き出された形式的諸原則であって、この諸原則は自然と人間界とに適用されなければならず、自然と人間とは、つまり、これを基準にしこれに従わなければならないのである。
しかし、どこから思考はこの諸原則を取ってくるのか? 自分自身のうちからか? そうではない。と言うのも、デューリング氏自身、純粋に観念的な領域は論理的図式と数学的形象とに限られる、と言っているからである(この数学的形象うんぬんは、おまけに ー あとでわかるとおり − 間違いである)。
論理的図式は、ただ思考形式にしかかかわりえない。ここで問題になっているのはしかし、ただ存在の、外界の、諸形式だけであって、この諸形式は、けっして思考が自分のうちから汲みとり導き出すことができるものではなく、思考はそれをほかならぬ外界から汲みとり導き出すほかはないのである。
こうなるとしかし全関係があべこべになる。すなわち、諸原理は、研究の出発点ではなくて、研究の最後の結果である。自然と人間の歴史とに適用されるのではなくて、そこから抽象されるのである。
自然と人間界とが諸原理を基準にしこれに従うのでなくて、諸原理は、ただ自然と歴史とに合致する限りでだけ正しいのである。
これが、この間題のただ一つの唯物論的把握であって、これと反対のデューリング氏の見解は、観念論的であり、事柄を完全に逆立ちさせて、現実の世界を、思想を材料に、すなわち、世界のできる前からどこかに永遠の昔から存立している図式なり幻影なりカテゴリーなりを材料に、こしらえる、− ヘーゲルとやらとまったく同じに。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p52-53)
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◎事実から出発するとういことは、簡単なようでいて難しいことです。「脳は疲れないぐらいによくはたらくやつだけど、同時にどれだけ主観的で不自由な状態にある」といわれているように、思いこみ≠ェさけられないのです。
◎「多数の意見だからとか、みんなと同じだからといって、それが当たり前だと思って見ているとしたら、そういう人たちは自分が逆さメガネをかけていることに気がついていないのかもしれません。」……重要です。労働学校で学ぶということ、科学的社会主義を学ぶということは、まったく少数ですね。早く多数になって「逆さメガネ」から真実をとらえる「メガネ」をひろげたいですね。