学習通信030827
◎「ネタをパクるな」と。
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紳助◎みんな夢中で漫才にかけていた
洋七さんの漫才を聞いて、僕は漫才師になろうと決めた。
この人と戦いたいと思ったのだ。けれど、当時の僕は漫才の世界について何も知らなかった。どこへ行けばいいかもわからなかったから、まず洋七さんの師匠が誰なのかを調べた。
そして洋七さんと同じ師匠に弟子入りをした。
もちろん、絶対に成功するという保証はどこにもない。「大学に行かずに、十八歳で漫才師を志したからには、みんなが大学を卒業する二十二歳で結論を出そう。そこで芽が出ていなければ、そのあと何年やってもおそらく無理だ。すばっと諦めて、他の職業を探そう」
そう心に決めていた。
洋七さんと同じ道を二倍、三倍の速さで走ったら、いつか追いついて勝負できるようになるに違いないとも思ったのだ。
それから一年あまり、僕はいつもあの人にくっついていた。私生活もずっと一緒だった。それこそ子分のようについてまわっていた。
あの人のすべてを吸収するためだ。
だから僕が一人だったときはあの人もわからなかったけれど、竜介とコンビを組んで漫才をやりはじめたらすぐに洋七さんに怒られた。
「ネタをパクるな」と。
でも、他の人にはそれがわからなかった。洋七さんだけが気づいた。
それは、正確にいうなら、僕がパクっていたのは洋七さんのネタではなかったからだ。僕がバクっていたのは、ネタではなく洋七さんの笑いのシステム″だったのだ。
そのやり方は、たとえばこうだ。
まずB&Bの漫才をテープに録って、それを全部紙に書き出す。それから、その漫才がなぜおもしろいのか、他の漫才とどう違うのかということを分析していく。
そうすると、ひとつのパターンが見えてくる。
そのパターンに、僕はまったく違うネタを当てはめていったのだ。
ネタはまったく違うわけだから、誰も僕が洋七さんの真似をしてるとほ思わない。でも、さすがにあの人だけは、僕がパターンをパクったということに気がついたというわけだ。
僕らが大阪で売れるようになった頃、洋七さんたちは東京に出た。そして東京で漫才ブームが起こって、B&Bは一躍人気者になった。
その後を追うようにして、紳助竜介が東京に進出したのだが、そしたら、僕が泊まっていたホテルの部屋に、洋七さんから電話がかかってきた。
「お前、何しに東京来たんねや。俺はお前に追われて東京に来たのに! 今度は札幌行けっていうんかいっ!」
半分はシャレだろうが、でも半分はマジだったと思う。
ただそういうことはいっても、あの人は、僕に出し抜かれるとか、足をひっばられるっていうような、ショノボイ気持ちは持っていなかったはずだ。
そこにあったのは、スポーツマンのようなフェアなライバル意識だ。
「やられた!」という熱いものはあったはずだけれど、「あいつはフェアにパクりよった」という気持ち、という方が表現として正確だろう。
それを証明する話しがある。
今から十年くらい前、僕が初めてTBSの『オールスター感謝祭』の司会をやったときのことだ。
この番組は、二百人ものタレントさんを五時間相手にするという長時間番組だ。相当の気合いをもって、僕は勝負した。
番組は成功に終わり、僕はものすごく感動してマンションに帰ったのだが、ふと電話を見ると留守録のランプが点滅している。
聞いてみると、それは洋七さんからの留守電だった。
「おめでとう」
洋七さんはあの大きな声で、そうメッセージを残してくれていた。
ほんとうに嬉しかった。
「関西の芸人であんな大きな番組の司会したのはおらん、お前しかおらん。やったなお前、おめでとう」
洋七さんはわかってくれていたのだ。
その電話を聞きながら、僕はボロボロ涙を流して泣いた。
この人をライバルにして、この人を倒そうと思って、十七、八歳でこの世界に入ったのは間違いではなかったと、そのときに心の底から思った。
フェアに戦ったからこそ、そう思えたのだと思う。
あの漫才ブームを生きた芸人はみんなそうだった。みんなフェアに、熱く戦っていたのだ。だから、何十年経っても、あの頃の関係は変わらない。(島田・松本著「哲学」幻冬舎 p60-64)
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十九歳のときはじめてパリを訪れ、その後も何回かスペインとパリのあいだを往復し、やがてはパリに住むようになるが、はじめからパリそのものが彼にとって「学校」となった。
パリの羊術館や画廊でゴッホやロートレックの絵にはじめて出会い、その影響を強く感じさせる絵を措いたが、彼にとって、他人の作品を研究し、他人の流儀を取り入れるというのも大切な勉強だったのである。
独創的に見えるピカソの作品も、いろいろ調べてみると、他人の作品に似通ったものが少なくない。有名な『ゲルニカ』についてもいくつかの典拠が指摘されている。
「ピカソは独創性がない。彼はつねにだれか昔の大家、アングルとかロートレックとかの作品の傍らに身を置いている」と主張する芸術批評家もいて、この主張にも一理ある。
しかし、絵画の世界にかぎらず、文学でも哲学でも音楽でも、完全な独創性といったものがあったためしがあるだろうか。すべてのものは何らかの影響の産物であり、他人からの借用の成果にほかならないと言うこともできるのではなかろうか。
モーツァルトの章ですでに触れたが、独創性や個性をことさら強調する現代の教育の風潮のなかで忘れられがちなのが、真似をする能力やものごとを鮮明に記憶する能力である。
こういった能力を高めるにはどうすればいいかと言えば、たくさん真似をして、たくさん記憶するしかない。ある能力を高める最善の方法は、その能力を酷使することである。
ピカソを親しく知る人びとの証言によると、彼は一度見たものはけっして忘れず、必要に応じてこれを自由に再現することができて、意識的あるいは無意識的に自分の作品に利用したという。これも画家にとっては立派な「学習効果」のひとつである。
ピカソのスタイルの変化も、真似といって悪ければ同化能力と借用能力からおのずと生み出されたものである。キュビスムはだれからも影響を受けていない、ピカソ独自の絵画様式と言われ、絵画の世界では新しい惑星の発見のように画期的なことであった。
たしかに、ひとつの対象を同時に複数の視点から見て、それを平面に描くというキュビスムはそれまでだれも試みたことのない方法である。しかし、これにも真似があり借用があった。ピカソはキュビスムの様式を彫刻から借用したのではないか、と私は推測する。
(木原武一著「天才の勉強術」新潮選書 p168-169)
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近代社会主義は、その内容からいえば、なによりもまず、一方では今日の社会にある有産者と無産者、資本家と賃金労働者の階級対立を、他方では生産における無政府状態をみた上で生まれたものである。
しかし、その理論の形の方でいえば、それは、最初、十八世紀の偉大なフランスの啓蒙主義者たちがたてた原理を一層おしすすめ、一層首尾一貫したものである。
だから、それは、一切の新しい理論と同様に、その根がいかに物質的経済的事実の中にあるにしても、さしあたりのところは、手近にあった思想的材料に結びつかざるをえなかったのである。
(エンゲルス著「空想より科学へ」岩波文庫 p31)
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ルソーの思想は、自然を讃美し自然回帰を説くたんなるロマン主義ではない。それは、直接的には、理性の自律を説くカントの道徳性につながるとともに、その平等思想は、市民社会そのものの止揚を説くマルクス・エンゲルスの社会主義思想へとつながるものであった。
(岩崎・鰺坂著「西洋哲学史概説」 p235)
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◎自信をもってまねび≠ゥら始めよう。そこからしか「独創性や個性」も磨けないのではないか。「真似をする能力やものごとを鮮明に記憶する能力」が必要なのです。
◎労働学校・運営委員会の中で、マルクスやエンゲルスの古典を読んでみよう、という流れが出てきています。それは直面しては労働学校の運営活動との関わりから興味を募らしているということでしょうが、「社会発展に自らの人生を重ねる」という人生の根幹の力作りを求めだしているということでしょうか。
この学習通信≠煦齧かっていれば幸いです。
◎秋の情勢論講座が9月3日から始まります。その第1講義は、吉井清文先生です。その先生の話が聞きたいと運営委員会の半数が受講します。21世紀になって初めて(京都学習協主催では)の吉井先生の話しです。きっと仲間達を魅了するでしょう。確信しています。