学習通信030825
◎結婚をしていながら不倫な関係が正当化されている昨今 ……
 
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 だからいくら友里恵に、世の中、男と女の数が半々で、仕事場であろうが、会食であろうが、そこに半数の女性がいても原理からいって当然のことなのと、空しい男の理屈をぶっても、それはあくまでも理屈でしかないのだ。それこそ厚さ一メートルの鉄板に囲まれた部屋に閉じ込められて叫んでいるのと同じで、ぼくの主張はいくら声を大にして叫んでも、彼女の心には届くことがないのだ。
 
 結婚して忠誠を誓った関係であれば、そんな女性のいるところにのこのこ顔をだすこと自体、なにかを期待しているからなのであって、たとえ結果的になにもなくても、結果にいたるプロセスがあるわけだから、こちらにその気がなかったにせよ、そのプロセスで女性に言い寄られたりということもなきにしもあらず、それに、言い寄られること自体、ぼくに隙があるからとなるわけだ。
 
 ところが極端な話、それがぼく以外の男性、たとえばパパの二谷さんや、ぼくたちの友だちなら、まったく自分のあずかり知らぬところであり、どうぞご自由にと、いたって寛大なのだ。
 
 当たり前といえば、当たり前なのかもしれないが、ぼくのそばに妻の自分以外で、好意以上のものを抱いている女性が近づくことは、それだけで、彼女には拒絶反応が生まれるのだろう。おそろしいほど敏感なのだ。それは新婚当初だけではなく、結婚から十年経ってもまったく変わることなく、それこそ金属などとはちがって、微塵も摩耗したり、腐食することなく、彼女の意識の中に存在しているのだ。
 
 もちろんぼくにとって、こんなに幸せで感謝すべきことはない。世の中、援助交際だ、失楽園だと、本来あるべき男女の形が軽視され、不毛といわざるをえない恋愛、交際関係が、その数の多さで本来の純粋な愛の形を圧倒してしまっている。
 
 おそろしいことに、女性でもそれを当然のことと正当化してしまっているご時世なのだ。
 だから友里恵のようなタイプの人間は少数で、真に希少価値的な存在なのだ。
 そんな女性を妻にすることができながら、その事せに胡座(あぐら)をかいて、自らの愚行によってそれを放棄せざるをえなくなったぼくは、彼女から見放されて当然で、それに気づかなかった自分はほんとうに愚かとしかいいようがない。
(郷ひろみ著「ダディー」幻冬舎 p83-84)
 
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 夫婦というものだけを考えると、あまりにも画一的で、ひとつの形にはめられてしまうが、じつはさまざまな形があるのだろう。
 
 結婚をしていながら不倫な関係が正当化されている昨今だが、そんなことは友里恵の中ではありえないのだ。死がふたりを別(わか)つまでと誓いあったのであれば、その行為は神をも欺く行為だ。
 
 友里恵というのは透明な美しさをもった、稀な女性だ。ー点のシミもない女性だ。だから彼女も、ぼくにもそういった透明さを当然の権利として要求したのだろう。つまり、一点のシミも許さないということだ。それは当然、ぼくという人間の価値をそう評価したからであり、もちろんぼくにその資質が備わっていたからだろう。
 
その選ばれた自分でありながら、それにこたえることができなかったということは、夫婦という関係がいつのまにかぼくの中で形骸化され、気がつかぬうちに、絆というものに胡座をかいていたのかもしれない。
 
 こうして包括的に考えると、友里恵との関係において、別れた理由は女性問題だけと思われるかもしれないが、それはきっかけにすぎないのであって、ひとつひとつを反現してみると、じつはたくさんの問題が重なり合っていて、複合的なものだということがわかった。
 
そんな中でも、離婚にいたった決定的な要因は、あの救急車の一件と、もうひとつ、十年間という結婚生活の積み重ねの中で、ふたりの時間の共有をぼくが怠ったことではないだろうか。
 
 それは、時間的にも不規則な仕事をしているからとか、忙しいからとかということでなく、いっしょにいられるときに夫婦共通の話や、日常的に共通のなにかをすることをおろそかにした結果なのだろう。それに、話すということは、たとえ共通した話題でなくても、話すこと自体に共通性が生まれる。
 
 男というものは、外で仕事をし、それだけで、夫婦間における自分の責任の終わりを勝手に自認する。子供ができれば、ややもすると、意識や愛情は子供へと向かいだす。もちろん、妻に対しての愛情というものがなくなるということはないが、子供へいった分、薄らいでいくこともあるのかもしれない。
 
 夫婦間における時間の共有というものは、けっして単純で簡単なものではなく、努力、忍耐、配慮、とたくさんのものが必要とされる。ただ同じ屋根の下で暮らす、というだけではなく、どれだけ同じことをふたりで楽しめるかということだ。
(郷ひろみ著「ダディー」幻冬舎 p260-262)
 
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 基本的にぼくは、道徳心という空気を吸い、法と秩序を遵守するタイプだ。
 
 時間に遅れるときは五分でも電話を入れる。人から借りたものはキチンと返し、借金をすれば期限内に返す、税金も払い、交通違反でおまわりさんにキップを切られても、許してくれなどと懇願せず、潔く自分の非を認める。ジムのお風呂でも使ったものはもとに戻し、石鹸の飛び散った泡もシャワーで流す。それに国歌斉唱は目を潤ませなくとも起立の姿勢で臨み、選挙にも行く。
 
そのかいあって、かどうかはわからないが、去年の誕生日の免許の更新では、ゴールドの帯の入った『優良』と書かれた交付期間五年の免許証をもらうことができたのだ。
 
 つまり、かぎりなく一般常識をもった芸能人なのだ、と自分では思っている。
(郷ひろみ著「ダディー」幻冬舎 p152)
 
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 さらにまた、バッハオーフェンが、彼のいわゆる「婚外性交」ないし「沼沢生殖」から個別婚への移行は本質的には女子によってなしとげられたと終始一貫して主張しているのは、無条件に正しい。
 
経済的な生活諸条件の発展につれて、したがって古い共産制の掘りくずしと人口密度の増加とにつれて、古来の性関係が森林時代の原始的な素朴なその性質を失っていけばいくほど、この性関係は女子にとってますます屈辱的で抑圧的なものに思われざるをえなかったし、彼女たちは、貞操権、つまりただ一人の男との一時的ないし永続的な婚姻の権利をますます痛切に救いとして求めざるをえなかった。
 
そうでなくても、男というものは事実上の集団婚の快適さをあきらめようなどとはいまだかつて一度も、今日にいたるまでも、ゆめゆめ思わなかったのだから、その理由からだけでも、この進歩が男の側から起こることはありえなかった。
 
女によって対偶婚への移行が実施されたあとでばじめて、男が厳格な一夫一婦婚──もちろん女にとってだけの──を採用できたのである。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p73-74)
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◎恋愛とは、結婚とは、いくつか学習通信してきました。むずかしい! そんなことを思って恋愛してない……と。その通りだと思います。しかしです。現実にKBSテレビでアダルトビデを紹介する番組が公然とあったりします。また、電信柱や公衆電話ボックスには風俗関係のチラシがいくらでも貼りだされています。
 
資本主義ですからもうからない≠フならやりません。それを利用する男性がいるのです。23日の学習通信≠再読してください。特に「起源」の引用を注目。
 
◎あらためて学習通信≠まなんでください。くりかえし読んで討論をすると分かってくるでしょう。全面的でないにしてもです。まだまだ恋愛論は続きます。
 
◎郷氏は、「道徳心という空気を吸い、法と秩序を遵守するタイプ」だということです。