学習通信030824
◎いままで不相応にもちあげられていただけに、こんどは必要以下の低いところに投げ込まれて……。
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親も日々迷っている
親として、思春期の子どもに対してどうふるまえばよいのかという問題は、いつの時代も親にとっては大きな課題である。最近では「いまの子どもたちは甘やかされて育ってきたから、すぐキレる。もっと厳しくしつけなければいけない」という論調と、「子どもはほめそやして育てなくてはいけない」という意見の狭間(はざま)に立って、自分の取るべき道を決めかねている。
毎日大量に流れ込んでくる情報の中で、迷い、悩み、自分は正しい判断をしているのかどうか、日々疑問にさらされているという状況が見受けられる。
子どもにどう対処するか、自分はどのような親になるべきか、日々迷っているということは、とりもなおさず、親自身もアイデンティティの問題を抱えていることになる。
昔は、たくさんの肝っ玉かあさんや優しい母がいた。あるいは威厳ある父がいた。家族のために自分を押し殺していた母、無理をして威厳を保っていた父。世間に期待される母親像、父親像に自分を合わせていた時代。自分たちがどう振る舞うか、何を目指して子どもを教育するかについての疑問は少なかった。また子どもが親をどう思っているかを気にすることも少なかった。
今、多くの親は子どもの目が気になる。子どもに好かれる親でいたいという思いを持っている人が多い。筆者がインタビューをした教師の中に、子どもに好かれる親像について語った教師がいる。
昔みたいに、肝っ玉かあさんなんて、子どもにとっては「ダサイ」存在みたいです。
わたしにも中学の息子がひとりいますが、「お母さん、格好よくして。ダサイの着ないで」 ってしょっちゆう言われます。
「変な格好してると一緒に歩かない」って。
この教師の語った言葉に耳を傾けると、日本の親がある意味で厳しい立場にあることが理解できる。母親は、子どものお姉さんのように若く見え、ファッショナブルで都会的に見えることを子どもから期待されている。ファッション、エンターテインメント、テレビの話題など、商業主義が生み出した消費に次ぐ消費の時流に乗れない親は、「ダサイ」と見られてしまう。
そういう意味から言うと、今の多くの親はどこかで自分のアイデンティティを否定して生きなくてはならない状況にあるのかもしれない。年齢相応のあるがまま、本当の自分であってはいけないのだ。「お姉さんのように見える母」「時流に乗ったように見える父」に向かって努力せねばならない現実がある。
アイデンティティの模索(自分はどうあるべきか、どういう人間になるべきか)で親子がともに悩んでいる時代である。その点では親子の距離はむしろ縮まっているのではないか。
日本の子どもは指示待ちっ子だと言われるが、それでも親や教師の命令をひたすら待っているわけではない。インタビューが語るように、親ほも教師にも不満を言い、注文をつける。自己を主張し自由を望む気持ちが育っている。親に声をかけてほしい、悩みを聞いてほしい、愛情をかけてほしいと信号を送り、一緒に考え、話し合うことを望んでいるのだ。対話を通して、親とオープンな関係を築くことを願っている。
(河地和子著「自信力はどうそだつか」朝日新聞社 p52-54)
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子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。
すぐに望みがかなえられるので、子どもの欲望はたえず大きくなって、おそかれはやかれ、やがてはあなたがたの無力のために、どうしても拒絶しなければならなくなる。
ところが、そういう拒絶になれていない子どもは、ほしいものが手にはいらないということより、拒絶されたことをいっそうつらく考えることになる。かれはまず、あなたがたがもっているステッキがほしいという。つぎには時計がほしいという。こんどは飛んでいる鳥がほしいという。光っている星がほしいという。見るものはなんでもほしいという。神でないのに、どうしてそういう子どもを満足させることができよう。
自分の力でなんとかなるものはすべて自分のものだと考えるのは、人間にとって自然の傾向だ。この意味ではホッブスの原則はある点まで真実だ。わたしたちの欲望とともに、それを満足させる手段を大きくしていけば、人はみなあらゆるものの支配者になるだろう。
だから、ほしいといえばなんでも手にはいる子どもは、自分を宇宙の所有者と考えるようになる。かれはあらゆる人間を自分の奴隷とみなす。そして最後に相手がなにかことわらなけれはならなくなると、自分は命令しさえすればなんでもできると信じているかれは、その拒絶を反逆行為と考える。
道理を考えることのできない年齢にある子どもに言って聞かせるいっさいの理由は、子どもの考えでは、口実にすぎない。かれはあらゆる人のうちに悪意をみとめる。これは不正だという考えが、かれの天性をゆがめる。かれはすべての人に憎しみをもち、いくらきげんをとってもうけつけず、あらゆる反対にたいして腹を立てる。
そんなふうに、怒りに支配され、このうえなく激しい情念にさいなまれている子どもが幸福であるなどとどうして考えられよう。そんな子が幸福だとは、とんでもない。それは専制君主だ。だれよりもいやしい奴隷であるとともに、だれよりもみじめな人間だ。
そんなふうに育てられた子どもたちをわたしは見たことがあるが、かれらは、肩のひと突きで家を倒せと言ったり、教会の塔のてっぺんに見える風見の鶏をくれと言ったり、行進する連隊をとめて、もっと太鼓の音を聞かせろ、と言ったりして、すぐに言うとおりにしないと、かんだかい声でわめきちらし、もうだれの言うことにも耳をかさないというふうだった。
みんながいくら一生懸命になってきげんをとってもだめで、なんでもすぐに手にはいるために、欲望はますます強くなり、不可能なことを言いはって、けっきょく、どちらをむいても反対と障害と苦悩をみいだすにすぎなかった。たえずどなりたて、いきりたち、あばれまわって、泣いたり、不平をいったりして毎日をすごしていた。
そういう子どもたちが恵まれた人間といえるだろうか。弱さと支配欲が結びつけば狂気と不幸を生みだすにすぎない。甘やかされた二人の子どものうち一人は机をたたき、もう一人は海の水をむちで打たせる。いくら打ったり、たたいたりしたところで、かれらは満足して生きることはできない。
そういう支配と圧制の観念が子どものときからかれらを不幸にしているとしたら、かれらが大きくなって、他人との交渉がひろがり、ひんぱんになったばあいには、いったいどうなるか。
すべての人が自分の考えに頭を下げるのを見なれてきたかれらにとっては、世間に顔を出して、すべての人に抵抗を感じ、自分が思いのままに動かすつもりでいた宇宙の歪みに自分がおしつぶされているのを見るとき、それはなんという驚きだろう。
かれらの生意気な態度、子どもじみた虚栄心は、苦悩と軽蔑と嘲笑をまねくばかりだ。かれらは水を飲むように辱(はずか)しめを飲みこむ。苦しい試練はやがて、いままで自分の地位も力も知らなかったことをかれらに教えることになる。
なに一つできないかれらは、もうなんにもできないのだと考えるようになる。これまで知らなかったいろいろな障害がかれらをがっかりさせ、多くの人の軽蔑がかれらを卑屈にする。かれらは卑怯者、臆病者、下劣な者となり、いままで不相応にもちあげられていただけに、こんどは必要以下の低いところに投げ込まれてしまう。
本来の規則にかえることにしよう。自然は子どもを人から愛され、助けられる者としてつくった。しかし、自然はかれらを服従され、恐れられる者としてつくったのだろうか。自然はかれらにいかめしい風采、きびしいまなざし、荒々しい、人をおびやかすような声をあたえて、人に恐れられる者にしているだろうか。
ライオンのほえる声が動物たちをおびやかし、動物たちはライオンの恐ろしいたてがみを見てふるえあがる、ということはわたしにもわかる。しかし、世にもふさわしくない、いとうべく笑うべき光景があるとするなら、それは、長官を先頭に礼服姿の一団の役人が、産衣をきた子どものまえにひれふして、大げさなことばをならべたて、相手は返事もせずにわめき、口からよだれをたらしている、といった光景だ。
子どもそのものを考えてみると、世の中に子どもくらい弱くて、みじめで、周囲にあるすべてのものの自由になるものはない。子どもくらい同情と看護と保護を必要とするものはない。
子どもがやさしい顔だちと人の心を動かす様子をしているのは、かれに近づくすべての者に、かれの弱さに関心をもたせ、すぐにかれを助けてやろうという気持ちを起こさせるためではなかろうか。
だから、いばっていきりたち、まわりにいるすべての者に命令し、かれを破滅させるにはただほうっておけばいい人々にたいして生意気にも主人づらをしている子どもを見ること以上に腹だたしい、自然の秩序に反したことがあるだろうか。
(ルソー著「エミール」-上- p119-122)
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◎子どもであれ、大人であれ自分の思うことが全て出来上がるわけではなないのです。それを実現する過程こそ成果があるのです。
◎苦労するから大きな達成感がある……、そうでしょう。しかし、対象を正確に客観的にとらえ、それを実現するための法則を自覚する……そしての苦労……ここにこそ合理的な、蓄積される成果があるようにおもいます。その科学の目≠労働学校で獲得する仲間をふやしましょう。