学習通信030811
◎「子どもという自然」をよりいっそう破壊の危機にさらすことに
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アエラ03.8.18-25
若者 死に至る訳「自己消去」願望(P10-11)
橋の上から川へと身を投げたの
は中2の夏休みの終わりごろだった。「2学期が怖かった」。命をとりとめ、濡れそぼった姿で帰宅すると、「自転車で転落した」と嘘をついた。「あっ、そう」。母親が言ったのはそれだけだった。
「基本的にひとを信じていないんです。だから、親切になんかされると、裏があるんじゃないか、と疑ってしまう」
最悪の事態を想定しておくこと。それが日々をやりすごすための処世術になった。だから、不幸ばかりを探し、拾い集めようとするのだろうか。
数日後、気がつくと裏原宿の路地を歩いていた。パソコンとだけ向き合う日々が続き、太陽の下に出るのは久しぶりだった。ふと目を上げると、空が青かった。空の青さにハッとした。その青さに動かされている自分にハッとした。
道端に腰を下ろすと、通りすがりの女性の鞄からハンカチが落ちた。拾い上げて渡すと、 「ありがとう」
駅員と店員以外から礼を言われたのはいつ以来か。記憶をたどろうとして止めた。代わりに、その言葉を何度も何度も胸のなかで転がしてみた。
まもなく、「美月」さんにメールを打った。「私は自殺しない」。電話も着信拒否にした。
「思えば、本当に死にたかったわけじゃない。ただ、生きることを休みたかった。死んでも死ななくても、どっちでもよかった」
ずっと芝居を横けて
そんな松本さんのような若者が増えている、と精神科医の香山リカさんは言う。
「死ぬか死なないかは『くじ引き』みたいなもの。一線を越えるという覚悟はもちろん、死ぬ理由と言えるほどのものもない。ノリや気分やタイミングがあえば、という感じ。どうしても死にたいという絶望にさえ達していない」
生の断絶ではなく、生の休止。死に跨み出すという意識は薄い。ただ、彼女たちが強くもっているのは「自己消去」願望だ、と指摘する。
「どちらに転んでも構わないと思えるのは、普段から存在を消そうとしているからでしょう」
たとえば、私立大に通うエリさん(19)の口癖は「どう思う?」。好きか嫌いかを断言しないのは当たり前。語尾に「かも」を付けてぼかしても、まだ不安。みんなと違ったらどうしようか、と。
だから服装にも気を使う。ゼミでは日立たないように地味なトラッド系、サークルではスカートをはき、バイト先では赤いタンクトップも身につける。飲み会ではちやんと、はしゃげているか、もうひとりの自分がチェックする。
「気がつくと、本当の自分がどこにあるのか、自分でもわからなくなりそうになる。疲れます」
さきの「自殺サークル」を撮った園監督は言う。
「みんな、ずっと芝居を続けているんです。息がつまるほどに」
やめたくてもやめられない。ひとりだけハミだすのは怖いから。もし、演技をやめようと思ったら、舞台から降りるしかない。
「いまをやめること、それは死を意味するんです。あまりにも短絡的に映りますが」
怒られる価値もない
たとえば、バイト先の居酒屋で注文を取り間違えたとき。「エビとポテトのマヨネーズ焼き」と「ぷりぷりエビとホタテのミルキーマヨネーズ」。「鶏の軟骨揚げ」と「軟骨入りつくね」。
失敗しても、怒鳴られるわけではない。
「困るんだよね」
ため息とともにそう言われると、余計にこたえる。私は怒られる価値もないんだ。「もうダメだ」。すべてが嫌になる。
そんな夜は眠れない。将来、就職できなかったらどうしよう。フリーターになっても、税金泥棒と言われ、体を壊したらおしまいだ。結婚に憧れはない。でも、子どもを産まないと、どこかの政治家から責められる。
やっぱり、私はいらないのか。
安らぎどころか、不安の淵へと吸い込まれていく。でも、不安がないのも不安だ。どこかに落とし穴があるようで──。
この現実を生きている私は苦しい。だから、自分の体を一部、あるいは全部、別のものに替えてしまおう。新しい体を手に入れれば、もう私ではなくなる。そうしたらラク美なれる、と考えるのだという。
「努力を重ねて、少しずつ成長したり変わったりしていくなんて待ちきれないのでしょう。そもそも何十年も先まで『私』が続いているという感覚がないのです」
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「子どもという自然」について
能重真作・のうじゅうしんさく
増え続ける不登校や若者のひきこもり。そして深夜排個、暴走族、援助交際、薬物依存の少年少女たち。「凶悪化」する少年事件。これらの問題をどうみるか。
学校に行かないことを容認するような風潮が不登校を増幅させているとか、親のしつけや少年法が甘いから少年犯罪が増えるという人たちがいる。そのようにいう人たちは、現象だけに目を奪われ、問題の本質を見落としているか、意識的に見ようとしないかの何れかである。子どもとは何か。子どもはどのようにして育つものなのか。そのような視点から今日の子どもの問題を見なければ、問題の本質は見えてこない。
「子どもという自然」が破壊の危機にさらされている。不登校や引きこもり、非行という現象は子どもたちの悲痛な身体表現である。
フランスの作家、C・ロシフオールは「破壊と資源の枯渇をまねいた巨人な力が、いま開発できる最後の資源として子どもに目をつけている」と警告した。一九五〇年代半ばから六〇年代をとおして、先進工業国を中心に世界各国の経済政策の一環として行なわれた教育政策に向けられたものである。
他の国よりも急速な発達を遂げたわが国は、その歪みはいちだんと大きい。高度成長政策と能力主義教育は、「受験戦争」とまでいわれるほどに学びを競争化させ、過酷な選別のための教育が学びを喜びから苦役に変えた。
そして、子どもからゆとりと遊びを奪い、子どもの発達にとって欠かすことのできない友だちや仲間の関係を希薄にした。希薄な人間関係をテレビやファミコン、携帯電話やインターネットのメル友、プリクラ、出会い系サイトが埋める。高度情報化・消雪社会の波に飲み込まれていく子どもたち。中高校生のブランド志向。携帯電話の保有率は、小学校高学年で一五%、中学生が三〇%、高校生になるとほぼ一〇〇%で、アルバイト代の大半は携帯の通話料に消えるという。
いまや子どもは二重に搾取されている。一つはアルバイトやフリーターなど資本にとって使い捨て自由な労働力として。そしていま一つは、「子どもという市場」といわれるほどに肥大した消費の対象として。
さらに子どもたちを覆う未来閉塞感。
構造的不況による先行き不透明感ばかりではない。経済至上主義がもたらした人類の生存の危機への不安が子どもたちを脅かしている。
人びとは、科学技術の進歩、経済の発展によって、いつしか人間の幸福は物質的な豊かさによって手に入れることができるという大きな錯覚に陥った。人間は自然を変えることで人間として進化してきた。だが皮肉なことに、人間の飽くなき欲望は人間にとってかけがえのない自然を際限なく破壊し、このままでは人類の存続さえ危ぶまれるところまできてしまった。
「恐竜は、自然の作り出した環境に耐えられず、滅びました」。「人類は、自ら作り出した環境に耐えられず、滅びるのかも知れません」。
インターネットの「ある少年の主張」というホームページに掲載されていた「人類の終焉」と題する文章の中の言葉である。
子どもは大人以上に鋭い感性で、自らの危機を感じとっている。子どもたちにとって、そのままでは引き受けることのできないこれらの現実。
これは、「奉仕活動の義務化」や「心の教育」の強化で解消するような問題ではない。政府・文部科学省は、教育基本法の見直しを含む戦後最大の教育改革に着手している。教育をいっそう産業や国家に従属させようとするこの改革は、「子どもという自然」をよりいっそう破壊の危機にさらすことになるだろう。
子どもは自らの生を選べない。親を選べないだけでなく、社会や時代も選べない。子どものたちにこのような社会と時代を強制的に与えてしまった大人の責任として、子どもたちが不登校や非行というかたちで発する大人たちへのメッセージをしっかりと受け止め、子どもが、そして人間が大切にされ、未来に希望の持てる社会を子どもたちとともにつくる道を探りたい。
「これ以上豊かにならなくてもいい。その思いきりを思想化することだ。このままいったら人類は滅亡する」。「朝日」の天声人語が紹介した哲学者の木田元氏の言葉である。
(月刊:経済2002.12 p6-7)
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思春期の子どもたち 親はどう接する?
人間と性°ウ育研究協議会代表幹事・村瀬幸治さんにきく
長崎の幼児殺人、東京・渋谷の少女監禁…。思春期の子どもをめぐる事件が相次ぐ中、親はとまどい、不安を抱えています。性の衝動で揺れるこの時期、親は子どもにどう接すればいいのでしょうか。人間と性″教育研究協議会代表幹事の村瀬幸治さん(一橋大学講師)に聞きました。
思春期の男の子の性衝動というのは、母親には想像もつかないほどのものがあります。暇があればエッチなことを考えている子もいるという感じ。ですから、性の衝動が噴き出し始めるこの時期には、異性である母親のテリトリーにいない方がいいと思うのです。
おとな同士のきずなが大切
ところが、夫との関係がうまくつむげずに寂しさを抱え込んでいたりすると、息子が若々しい男性に見えたりして、母親白身がなかなか離れられないのです。子どもを生きがいにして依存するようになると、必ず下の世代が苦しむことになります。夫婦が男や女として楽しく生きられるよう、おとな同士のきずなを作ることがとても大切です。
母親の持つものすごい引力から抜け出せない…。こうした状態は思春期に限らず、最近の男たちに共通する病理現象です。対等な関係を結べるようなパワーと辛抱強さとを積み重ねないまま、バーチャル(仮想)の世界でイメージだけがふくらみ続ける。小児の性に執着した渋谷の例もその典型でしょう。
昔はたくさんいるきょうだいや、近所のお兄さん、おじさんたちが母親から男の子を離す″役割を担っていました。ところが今は子どもたちを社会化していくシステムが貧困なので、父親がその役割を負わなければなりません。かといって、「毎日話をしよう」などと構える必要はありません。二、三ヵ月に一度、お互いの趣味などを通じて共通の時間を過ごしましょう。
子の話に耳を傾ける姿勢を
思春期の親子関係で大事なのは、性のあれこれではなくて、「一緒に生きてるね」というような雰囲気なのです。それが、幼いころのタチング(接触)であり、思春期には心のタッチングともいえるリッスン(=聴く)の姿勢です。子どもの話に耳を傾けながら、親自身の子ども時代や、今どんなことが喜びでどんなことがつらいのかなどを話してみる。そんな父親の姿を通して、自分が愛されていることや、一人前の男として扱われていることを実感するのです。
渋谷の事件では、思春期の女の子が狙われました。女の子の子育てでは、母親がペットのようにしているのが気になります。で、すごく反抗されると、そこで子育てを投げちゃう。同性の先輩として、生きていることの楽しさやつらさを伝えていくべきですし、それこそ親でなければできないことでしょう。
男性が自分の子どものような年齢の少女に声をかけたり、援助交際をしたりする背景には、父親の問題がより大きく横たわっています。自分の娘とちゃんとかかわっていないんですね。
少女たちにしても、父親におむつを取り替えてもらう、抱っこやおんぶをされるなどという関係の中で育っていれば、知らないおとなの男性にプライバシーをさらけ出すなんてできません。その上で父親は、年長の男性として「こんなことをしちゃだめだ」とメッセージを与ぇるべきです。
自分でも訳のわからない時期
十二歳の子どものありようが突然変わったわけではない。昔から、思春期は自分でも訳のわからない時期でした。自分がだんだん見えてきて親から離れたいけれど、一人では生きていけないから動揺し、混乱もする。だからこそ、放任でも支配でもなく、困ったことがあったら言ってもいいんだよ、という親子の付き合い方が大切だと感じています。
(しんぶん赤旗 030808)
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◎「子どもという自然」をよりいっそう破壊の危機にさらすことに……その実際の一つがアエラの特集です。
◎子ども問題というのは、他でもない日本社会の未来の問題なのです。しっかりとぶつかっていくことが求められているのです。