学習通信030809
◎呉服 キモノ……西陣……日本古来の服装は、かえって今の洋服にちかい、頭からかぶるしかけのワンピースや、ズボン
■━━━━━
北区・上京区の産業の中心は西陣織である!@
西陣ミニ知識
北区上京区の産業の中心は西陣織である。西陣織の不振は地域の他産業にも重大な影響を与える。西陣織は約十種類の商品構成に分類できるが、主な商品は帯地、きもの、金欄、ネクタイ、室内装飾である。主力商品のうち帯地は総出荷額の約五十四%(二〇〇〇年)であるから、西陣は帯の産地とも言える。西陣の帯が完成するには五つの工程が必要だ。この五工程はそれぞれいくつかの工程にわかれており、全体で約二〇強の分業体制で出来ている。
この各工程のなかでも、製織という工程は帯がはば完成品になる部分であり、「原産国」 表示の基準となっており最も重要な部分だ。西陣織の心臓部にあたるこの製織の生産にあたるのは、工場で働く労働者と工場の外で下請けとして働く賃織労働者である。賃織労働者は税金の申告形態では、中小業者(賃織業者)でもある。
西陣織の総出荷額は約八九一億円 (二〇〇〇年)であるが、最高時(二七九四億・一九九〇年)の約三分の一である。また帯地については出荷本数が最高時八二八万本 (一九七六年)の六分の一、一四九万本(一九九九年)である。生産高の減少は海外生産逆輸入(中国からが主)の影響もあるが、最も大きいのは和装需要の低下である。
地域経済の停滞で要求が前進しない
要求の前進のためには、職場の闘争だけでは限界があります。この限界の解決手段として提起されているのが、全国一般の二大運動です。中小企業の振興と全国一律最低賃金制度の確立を柱にした労働者全体の賃金の底上げ、この二つの運動の統一です。
(全国一般だより NO.4 から)
■━━━━━
ほかの大都市と比較しての話だが、京都人の服のセンスは、はつきりいって悪い。申し訳ないが、とくに女性のファッション感覚はピーコさんが泣いちゃうくらいひどい。私もしょっちゆう泣いている。その原因は京女が和装を選ぶ眼で洋服をチョイスしてしまっているところにある。裏を返せば京に生まれ育った女性は若くてもキモノを見る目が肥えている。その審美眼がファッションセンスをおじゃんにしているのだ。
芸術とは個人に属するものだ。だいたい個性の発露なきアートに存在意味なんてない。映画や舞台は芸術と呼ばれ、オリジナリティを絶対条件とするメディアではあるが、それにしたって作品自体のアイデンティティや目的は純粋芸術ではなく娯楽だ。ときに芸術と評価されるのは、役者のみせる演技や、監督の演出という個々のディティールなのだ。
着物を少し似ている。帯も含め、京のキモノ作りなるものは、徹底した分業体制で進められている。
ふだんキモノを着てもいない女性が和装すると、せいぜい写りの悪いお見合い写真の水準しか満たさないのは、京女の裏返しで和装の常識をご存知ないからであろう。近頃卒業式などで着用されることが多い矢絣(やがすり)や銘仙のキモノに袴という大正浪漫ルックはなかなか可愛かったりするが、これはルールに沿っているからである。
日本人だからかならずキモノが似合うというのはトンでもない錯覚である。着崩したり、ミスマッチさせたりのアイデアも判らなくはないが、キモノを洋服に近づけようとするのはナンセンスだと思う。一朝一夕にキモノ世界の法則を理解するのは不可能だ。初心者は、そういった制服的な性格を持ったキモノから始めるのが無難だろう。
日本人はキモノを着たいと考えている。成人女性の約九割が憧れているという。昨今の浴衣ブームがいい例だ。ならば業界は「キモノは難しくない」などと言ってないで時間と投資を肩代わりする方法を考えてゆかねばならない。そうでないと京都のキモノが産業として死滅する日は、もうそんなに遠い日の話ではない。これが本当の京の着倒れ=c…では酒落にならん。実際かーなりヤバいところまで来ているのだ。
西陣生まれ西陣育ちの私にとって、機織りの音はつねに聞えているものだった。しかしいつの頃からか機音は途絶えて久しい。寂しい、というよりなにかシュールだ。いつも潮音を耳にしている海辺の住人が、ある日、気がついたら渚から海が消え、そこには無限の砂浜が広がっていたらどう感じるだろう。まさにそんなカフカ的な状況に西陣はある。
現在の京都でキモノがもっとも生き生きと流通しているのは毎月二十五日に開かれる「北野天満宮」の蚤の市天神さん≠セろう。骨董に関しては、目利きに自信があってなおかつプロが集まる五、六時の早朝(懐中電燈必携)にでも行かないかぎり掘り出し物など今や発見できない。しかしキモノはまだまだ面白いものがみつかる。むろん古着だ。
(入江敦彦著「京都人だけが知っている」洋泉社新書 105-113p)
■━━━━━
庶民の服装
七世紀末、律令国家は「公服」として、唐制にならって男子には袍(ほう)と袴、女子には袍と裳(も)の制を採用した。ここに男子はズボン、女子はスカートの、男女別形態の衣服の制が、国家的規模で導入され、その普及が図られた。
しかしそれは、固有の衣服制とは乖離(かいり)して、あくまでも律令国家の制度として行なわれたものであり、国家は定着に腐心するが、これが一般民衆の日常着としての位置を占めるには、次代を待たねばならなかった。
『日本霊異記』に、「法師らを、裙(も)著きとな侮りて……」という、道鏡政権を揶揄(やゆ)した童謡が伝えられているが、女性蔑視思想が未成立のこの時代にあって、裙著きであることが侮りの対象だったのは、律令国家の権力体系への参加が、袴の着用で代弁しうるという図式があったからの事態であろう。
しかし中世には、袴は、人間として生きることの象徴ともみなされるようになった。山伏・悪党たちが蜂起のさいに、非人をよそおって権力からの追求をかわそうとするため、そのシンボルである柿椎を着用するときには、烏帽子をつけず、また袴をはかなかったというのは、袴が人間存在の指標に転化していたことを示している。
『今昔物語集』に「下揩フ着る手なしというものを着て」とある「手なし」は、前代の貫頭衣系の衣服そのものを指すとみられるが、これが一般庶民のものとしてでなく、それより下層の、「下掾vと称される階層に、もっぱら着用される衣服として位置づけられることにも、象徴的であろう。
かくて中世社会では、男子の袴着用が、庶民レベルでも普遍的であったのだが、女子はどうだろうか。女子も庶民層まで踵丈の裳の着用が一般化したかといえばそうではない。女性は裳を著しく短く、膝丈に仕立てた「褶(しびら)」を腰に巻いたか、または褶もとって小袖一枚の姿になり、やがてこれが一般化した。
いうならばこれも、ワンピース形式でスカート型の衣服である。男性も江戸時代には、日常着としては袴を脱ぎ、小袖一枚の姿になるのは周知の事実である。とすればやはりわが国には、男女ともワンピース形式でスカート型の衣服着用の文化が基層にあることを認めなくてはならないだろう。
付言すれば、明治になって再び洋服として男子のズボンが導入されたが、女性のズボン姿が、西欧社会に比して、より抵抗なくうけ入れられたのは、衣服形態が性によって区別されないという、基層文化に由来する観念の所産であると考えられる。
帯と袖の変遷
ところで小袖の着ながしになると、着物の前あわせを結びとめる紐、すなわち帯が必要になった。『今昔物語集』(巻第二十六、第十七)の利仁(としひと)芋がゆの話に、「白き布の襖(あお)というものを着て、中帯して若やかにきたなげなき下衆女どもの……」と、すでに「褶」を取り去り、おそらくは着ながしの「襖」に「帯」を結んだ、女性下層労働者の姿がある。帯は当初、結びとめる機能だけを目的とした紐状のものであった。
しかしやがて、都市生活者の女性の帯だけが、近世を通じて幅を増大させ、江戸後期に入ると、極端に幅広く、厚く、そして堅く、胴全体に巻きつけ、しめあげるものとなった。これはヨーロッパ近代において、鯨の骨や鉄芯入りのコルセットが女性のウエストを極端にしめあげ、ついには骨格や臓器に異常をきたす例が頻出したのと、共通するものであろう。
当該期の時代意識の中から形成された美的感覚に合致すべく、外観のみが優先された結果、着用着である女性の活動性や、肉体までもが、疎外されなければならなかったのである。
袖についても同様の傾向がみられる。小袖は現在の和服の基形ともいうべきものであるが、もとは文字通り、袖の小さい、筒袖にも等しいものであった。ところが江戸時代を通じて女性の小袖のたもとは長大化の一途をたどり、安政・文久年間には、昔「振袖」とよばれた一尺五寸(約四五・五センチメートル)の袖丈が通常の長さとなり、「振袖」と称する着物の袖丈は、その身長に応じて二尺六寸(約七八・八センチメートル)から九寸と、まさに地を払わんとする状態であったという。
一八九〇(明治二十三)年にべルツは、日本女性の体格が文明国中でいちばん貧弱で、姿勢が悪いのは、帯で体を縛ることと、袖が長く、肩がひかれることが原因だと述べ、和服が女性の活動性と身体そのものを疎外していることを、いみじくも指摘しているが、和服の帯と袖が女性の主体性を無視した形で異常に発達したのは、嫁入婚の確立した当該期に、女性の地位が最低に下落した結果のことであると考えられている。
(脇田・林・永原編「日本女性史」吉川弘文館 86-89p)
■━━━━━
ふつうの人はまったく日本古来のものだと思って疑わないほど、われわれの身についてしまった輸入品がどれぐらいあるかわかりません。「きもの」など、世界に誇る日本文化の代表のように思われていますが、これももとは大陸からきた衣服です。
日本古来の服装は、かえって今の洋服にちかい、頭からかぶるしかけのワンピースや、ズボンと細い袖の上着だつたのです。それが、奈良時代にとり入れた大陸の風俗が、だんだんに転化して、今日の着物になりました。生地の織り方、縫い方、みんなあちらから織工をつれてきて、ひじょうに高い文化的なものとして、全面的に生活にとり入れたのです。
呉(ご)の国からきた(四六九年、雄略(ゆうりゃく)天皇の代) 機織(はたおり)工を「呉織(クレハトリ)」といいました。その製品も「呉織(クレハトリ)」であり、「呉服(ごふく)」という語はそういうところからきているのです。
だから、当時はばりばりの舶来ニュー・ファッションだったのですが、だんだんに「呉の国からきた、外来の」という意味は消えうせて、呉服屋といえば、もっとも日本的な感じのする店になってしまいました。
(岡本太郎著「今日の芸術」知恵の森文庫 70-71p)
〓〓〓〓〓〓
◎運営委員長をしている人から労働組合のニュースをいただきました。日頃から着物とか呉服は日本のものとしてしか感じていなかったのですが、湿気の多い日本の環境にあった住宅と同じように、着物も果たしてそうなのか、と疑問がありました。外から入ってきたのです。庶民は違っていたのです。
◎岡本氏の文章は、外からのもを真似る≠ニいうことで、日本人の創造性に対する懐疑、非難に対してのものです。
◎8月9日、長崎に原爆が落とされた日。