学習通信030802
◎子ども人間として見る ー暴力を作動させてしまった男性役割・男らしさ意識・男性的行動様式……。
 
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 なんとも言い難い不安感を社会に与える事件が相次いでいる。早大生サークルの集団女性暴行事件、東京・渋谷の小学生女児四人監禁事件、長崎男児誘拐殺人事件などだ。それぞれ個別の事情と背景をもって発生した、相互に無関係な出来事である。
 
 しかし、増えるセクシャルハラスメント事件やドメスティック・バイオレンス(DV)関連事件(DV夫による妻の友人刺殺・東京都板橋区)などもあわせて考えると、快楽に溺れ、歪んだ愛着関係を示す日本社会の一断面がうかがえる。
 
 これらは社会的につくられた性の意識や態度、とりわけ男性的な表出の仕方に関連した犯罪と非行なのである。新奇な風俗現象や心の問題などとしては片づけられないジェンダー関連暴力としてみなければならない。
 
 大学生のイベントサークル事件は巧妙に仕組まれた組織的性犯罪集団として悪質なものだ。女児監禁事件は子どもを対象にする歯止めなき風俗産業と自らの小児性愛を満たすことへの耽溺(たんでき)が背景にある。長崎男児誘拐殺人事件は、偶発的ではあるが、思春期の性の欲動が倫理を超えて発露した情緒的あるいは対人関係的な混乱であるだろう。
 
 事件を風化させず、予防を考えるためには、加害男性の異常性、特異性に力点をおくだけではなく、攻撃性を暴力として、しかも性的なエネルギーの発現という形態で行動化させるにいたった背景を吟味すべきである。ジェンダーに関連して暴力を作動させてしまった男性役割・男らしさ意識・男性的行動様式を無視しないことが大事だと考える。欲望の表し方を、情動的に行動化させてしまう際の暴発の力に注目する必要がある。
 
 加害男性たちの動機を語る言葉の不明確さも気になる。責任を感じ、謝罪を表す言葉は貧しく、被害者や遺族に届かない。麻痺させられたかのような脱感情的な態度が見いだせる。感情の荒野に佇んでいるような心象風景である。
 
 さらに焦点をあてたいことは、思春期の男の子の性が絡んだ問題行動、欲望むきだしの性犯罪やセクシャルハラスメン卜、病的な嫉妬(しっと)心を示すDVの加害やストーキング行為などだ。こうした行為は、男女、親子、夫婦、恋人、友人などの親密な関係に宿る男性のコミュニケーションのゆがみを示している。愛着する対象に適切なかたちで関与できず、反社会的な表現で行動化してしまうわけだ。
 
 対人関係上の障害ともいえる男性の脱感情的なコミュニケーションの仕方は、外に向かう暴力だけでなく、内に向かう暴力のエネルギーともなる。自殺が男性に多いこと、ひきこもりも青年壮年男性に多くみられることなどである。
 
 男性性や男らしさの病理として、外や内へ向かう加害行為をとらえてみることで、現代社会がかかえる精神衛生の焦眉(しょうび)の課題が浮かび上がる。生涯にわたる男性の心理社会的変容に即した、内的かつ対人関係上の諸問題という課題だ。とりわけ思春期から中年期にかけての男性のこころと身体の変化に即した心理社会的対応が必要である。
 
 たとえば、性の非行と犯罪に対応した更生教育のプログラム、DV加害者の更生施策、家庭内暴力への司法臨床的介入の体系化、アルコールや薬物などの依存症への対応など、男性の脱感情的対人関係や貧しいコミュニケーション状況を根本から転換する取り組みが、今こそ求められている。(中村正氏「背景に男らしさ」のゆがみ 京都新聞030801 )
 
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 さらにもう一つの進歩が子どもにとって泣くことをそれほど必要にしなくなる。それは力がついてくることだ。自分ひとりで多くのことができるようになると、子どもはいままでのように他人の助けをもとめる必要がなくなる。力とともにそれを正しくもちいることを可能にする知識も発達する。
 
この第2段階において、正確にいって個人の生活がはじまる。ここで人は自分自身を意識することになる。記憶があらゆる瞬間における自分の存在の同一性という感情を拡大する。かれはほんとうに一個の同一の人間となり、したがつてすでに幸福あるいは不幸の感情をもつことができる。だから、これからはかれを一個の精神的存在と考える必要がある。
 
 人はふっう、人生の期間をできるだけ長く考え、あらゆる時期において、その期間の限界まで生きられる可能性があると考えているのだが、それぞれの個人の人生の長さほど不確定なものはない。その長い期間の限界にまで到達する人はきわめて少ない。
 
人生のいちばん大きな危険は初期の時代にある。生まれた時からの隔たりが少なければ少ないほど、生きられる希望も少ない。生まれてくも子どものうち、せいぜい半分だけが青年期に到達する。だから、あなたがたの生徒も大人の年齢まで生きられないかもしれない。
 
 そこで、不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいのか。子どもにあらゆる束縛をくわえ、遠い将来におそらくは子どもが楽しむこともできない、わけのわからない幸福というものを準備するために、まず子どもをみじめな者にする、そういう教育をどう考えたらいいのか。
 
たとえ、そういう教育が目的においては道理にかなったものだとしても、たえがたい束縛をうげ、徒刑囚のように、たえず著しい勉強をさせられ、しかも、そうした苦労がいつか有益になるという保証もない、かわいそうな子どもを見て、どうして憤慨せずにいられよう。
 
快活な時代は涙とこらしめとおどかしと奴隷状態のうちにすごされる。あわれな者は、自分のためだといって苦しめられる。人々には、かれらが招きよせている死が、そうしたみじめな状態にある子どもにやがておそいかかろうとしている死が見えないのだ。
 
父親あるいは教師の不条理な知恵の犠牲となって死んだ子どもはどれほどあるかわからない。かれらが手どもにあたえた苦しみかち得られるただ一つの利益は、子どもがかれらの残酷な知恵からのがれられるのをしあわせと考えて、苦しみしか知ることができなかった人生を、名残り惜しいとも思わずに死んでいけることだ。
 
 人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第1の義務だ。あらゆる階級の人にたいして、あらゆる年齢の人にたいして、人間に無縁でないすべてのものにたいして、人間的であれ。人間愛のないところにあなたがたにとってどんな知恵があるのか。
 
子どもを愛するがいい。予どもの遊びを、楽しみを、その好ましい機能を、好意をもって見まもるのだ。口もとにはたえず微笑がただよい、いつもなごやかな心を失わないあの年ごろを、ときに名残り惜しく思いかえさない者があろうか。どうしてあなたがたは、あの純真な幼い着たちがたちまちに過ぎさる短い時を楽しむことをさまたげ、かれらがむだにつかうはずがない貴重な財産をつかうのをさまたげようとするのか。
 
あなたがたにとってはふたたび帰ってこない時代、子どもたちにとっても二度とない時代、すぐに終わってしまうあの最初の時代を、なぜ、にがく苦しいことでいっぱいにしようとするのか。父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ちかまえている時を、あなたがたは知っているのか。
 
自然がかれらにあたえている短い時をうばいさって、あとでくやむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。
 
 異議を申したてる多くの人の声が聞こえてくる。あのいつわりの知恵の叫びが遠くから聞こえてくる。わたしたちをたえずわたしたちの外へ退いだし、いつも現在を無とみなして、進むにしたがって遠くへ去って行く未来を休むひまもなく退い求め、わたしたちを今いないところに移すことによって、けっして到達しないところに移す、あのいつわりの知恵。
 
 あなたがたはわたしにこたえる。それは人間の悪い傾向を矯正する時期だ。子どもの時代においてこそ、苦しみを感じることがもっとも少ない時代においてこそ、その苦しみを多くして理性の時期にそれをまぬがれさせる必要があるのだ、と。
 
しかし、そういう仕事がすべてあなたがたの手で自由にできるとだれが保証しているのか。子どもの弱い精神を悩ますそのすばらしい教育のすべてが、将来有益なものとはならずに、かえって有害になる、というようなことにならないとだれが保証しているのか。あなたがたがやたらに子どもにあたえる悲しみによって、なにか子どもが得をするということをだれが保証しているのか。
 
子どもの力に耐えられる以上の苦しみをなぜあたえるのか。現在の苦しみが将来の助けになるという保証もないのに、なぜそんなことをするのか。さらに、あなたがたがなおしてやるという悪い傾向は、自然から生じるよりもむしろあなたがたのまちがった心づかいから生じているのではないことを、どんなふうに証明してくれるのか。
 
わざわいなる先見の明。それは一人の人間をいつかしあわせにしてやれるというおぼつかない希望にもとづいて、現実にみじめなものにしているのだ。もし、こういう凡俗な理屈屋が放縦と自由を混同し、子どもを幸福にすることと甘やかすこととを混同しているなら、それを区別することを教えてやることにしよう。
 
 とりとめもないことを追っかけまわさないようにするために、人間の条件にふさわしいことを忘れないようにしよう。人類は万物の秩序のうちにその地位をしめている。子どもは人間生活の秩序のうちにその地位をしめている。人間を人間として考え、子どもを子どもとして考えなければならない。
 
それぞれの者にその地位をあたえ、かれらをそこに密着させて考え、人間の情念を人間の構造にしたがって秩序づけること、これが人間の幸福のためにわたしたちにできることのすべてだ。そのほかのことは外部の原因に依存していて、わたしたちの力ではどうすることもできない。
(ルソー著「エミール」岩波文庫-上- 100-103p)
 
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◎「朝まで」で「長崎男児誘拐殺人事件」を核におきながら青少年問題が議論されていた。聞くに堪えない「識者」という人たちの発言です。大谷さんがでていて、そこだけが共有できたようにおもいます。子どもを人間の子どもとしてみない? 成長過程、教育課程にある未熟な人間としてみない議論が横行しているのです。私たち大人が子どもにどのように働きかけたか≠ェ問われているのに。
 
◎あらためて人間として育てる≠ニいうことの大事さを痛感します。労働学校で青年(25歳前の)が連帯を強める活動をおこないますが、問題を起こす青年もいます。それをめぐってきちんと対応できない青年もいます。コミニケーションの弱さが見えます。ここで気づいてくれることを期待して問題提起≠私たちがゆるめるわけにはいきません。