2011/6/30


■@GAKUTOMO NO.342
現代経済学ゼミナール『現代と社会主義論』の募集に際して、事務局長より提供してもらった論文は、2つありました。1つは、以前にGAKUTOMO NO.310で書いた友寄さんの論文、もう1つは聽濤さんの論文(これも季論21掲載)です。聽濤さんの論文は、『二十一世紀と社会主義――何をどう考えるか』という題ですが、読み進めていると、「介護問題」という言葉に出会います。高齢福祉施設で働いている私は、「介護」という言葉を見つけると反応せずには入られません。出番でもないのに「さあ出番だ!」という気持ちになるからおかしいものです。

内容としては、日本では介護などの問題(その他さまざまな国民的課題も)が大きくとりあげられているが、ルールある経済社会と呼ばれるヨーロッパではどうなのかということです。

そして、「介護問題についてはイタリアでは大量の移民が、老人介護にあたっている。」「賃金は極めて低い。」ということが述べられ、「ヨーロパ水準でも、その水準なりに日本と共通した諸問題に国民はぶつかっている感を深めた」と述べられています。

ここから福祉国家論でよいのか?という問題意識が見えてきます。「これらの諸問題の根本的解決をはかるためには、資本主義を克服し社会主義へ向かわざるをえず…」と。

こういう大きな視野から問題提起されると、現在の社会制度の枠組みで介護問題を考えていることが非情に貧相に思えてきます。

論文には、さらなる問題提起として「『市場経済を通じて社会主義へ』の道でまずぶつかる問題は、社会主義部門が資本主義部門と競争して優勢になっていくのはそう簡単なことではないということ」「資本主義は恐慌という大きな破綻にぶつかるが、それまでは猛烈な勢いで生産力を発展させるからである。」と述べ、「このことは銘記する必要がある。」と強調されています。

「福祉、教育等々の重視という点では、社会主義部門が圧倒的優位性をもっている。俗っぽくいえば、どちらのほうが金になるか≠フ競争だけが、この道に存在するわけではないということ」として、「労働者自身がどちらを選ぶかという問題」を提起されています。

さらには、『「多様性のある社会主義」の展望』として、「労働者集団の企業管理能力」の前進を捉えられています。すぐに思い浮かぶのは「協同組合」の体制でしょうが、おもしろいのは「労働組合が中心」の「労働者自身のイニシアチブによる」会社運営の事例です。

これらのことを踏まえると、多くの福祉労働者が未来社会について深く学び、論議していくことの重要性を思います。

いまや、科学的社会主義を体系だてて学べるところは、京都中央労働学校しかないといっても言い過ぎでないでしょう。139期の労働学校は、我が職場からは3人の仲間が受講しています。論議ができる仲間に成長してくれるでしょう。(書)11/6/29


2011/6/29


■@GAKUTOMO NO.341
139期総合コースの第一講義が昨日ありました!

前日の準備から緊張しながら待っていましたが、受講生の顔を見ると「この人たちが申込してくれたんだなぁ〜」と実感が。

総合コースはほとんどが初めての人です。みんな緊張しながら講義を聞いていました。

分散会という感想交流の時間では
「自分が労働者ということにあらためて気づかされた…」

「今後の講義がたのしみ!」

「(今まで)社会の仕組みに目を向けていなかった。でも、売ってるお金はすごく多いのに、もらってるお金は少ない。でも矛盾を感じなかった」

「今までの人が築き上げてきて今がある。どうやって資本家と折り合いをつけていくのか?自分に何ができるのか…?」

などなどいろいろな意見がでました。
初めての講義でいろんな疑問が出たと思いますが、これからの講義でそれらをひとつひとつ紐解いていくことができる。щu梠コ岱徐ぢ講義を聞いて考えて、分散会で深めていく中で、いろんなことを感じて変わっていくだろうなと、すごくわくわくしました!

全部終わってから自己紹介の時間もとりました。
時間が遅かったんですが、限りある中でみんないろんな話をしてくれました。

「働く時間 というものは一日の中で割合が多いのに、自分の働いている価値が見えない…。学ぶ中で何かが変わったらいいなぁ」

「労働者がどう団結するのかが分からない。一番苦しい生活をしている人たちの声が上に届かない。自分にも権利があるということを分かっていなかった。これから学んで社会のしくみをしっていきたい。」

「どうやって人が集まって社会を変えていけるのか?と思うけど、今まで人と人との出会いの中で自分も変わってきたし、大きなことができる!と自分の体験の中では感じている。」

「先輩の誘いで労働学校にきました。保育に生かせることを学びたい!」

どんな風に働いているのか?社会についてどう思っているのか?

労働学校は、ただ学問を学び資格を得る…という学校ではないです。

知ることにより、世界(自分の周りや仕事、生き方、社会の情勢なども)をどう見ていけばいいのか、どう自分の足で歩き、自分の手で変えていけばいいのか…そんなことを学べるところだと思います。

講義で学ぶことで、自分の仕事や生活などをあらためて見返し、自分が働く意味、自分と社会との関係、これからの人生をどう歩んでいくか…いままでは見えてこなかった方向が見えてくると思います。

昨日の講義と分散会で受講生の話を聞いて、そんな風に思ってものすごくドキドキ!わくわく!しました。

労働学校は受講生が学びの主人公です! 成長の主人公です。そして、受講生の学びがより深いものになるように運営委員がサポートしてゆきます。私もしっかり学び受講生と一緒に二ヶ月間頑張りたいと思います! 2011/6/29(世)


2011/6/28


■@GAKUTOMO NO.340
 第139期京都中央労働学校が、先週土曜日開校しました!

 今日は、まず、経済学コースの講義がはじまりました。

 139期・140期・141期と、一年間を通じて、マルクス著『資本論』の“第一部・資本の生産過程”を読み通します。

 つまり、139期は、『資本論』の一番はじめからのスタートです。それに挑戦する仲間は、19名の仲間です。この仲間たちの雰囲気が、何かいつもと違うように感じるのです。

 例えば、開校オリエンテーション。いつも、なかなか経済学コースの仲間の出席は、比較的少ないのですが、今期は、7名の仲間(全員初めて第1部を読む仲間です)が集まりました。

 そして、第1課には、13名の仲間が出席し、ほとんどの仲間が開始時刻の7時にそろっていました。

 第1課の感想をみてみると…

「…漢字で構成された専門的な用語がたびたび出てくる。これは理解しづらく流して読んでしまうが、先生の解説があればわかりやすくてとてもよかった。」

『「商品生産、市場経済は効率的に資源配分ができている」というのに対し、「現実にはモノが有り余っているのに、それを手に入れられない人がたくさんいる」と、それって「メチャクチャムダやん!!何が効率的な資源配分やねん!!」というのが自分の中でスゴく共感できました。』

「先生の話の中で、大学ではミクロ、マクロ経済学では、商品交換の仕組みを見て、もうけを生む仕組みを深く触れないということを聴いたとき、自分のときも確かに交換の仕組み、経済の流れを扱うだけで、その中でもうけが生じるような感じで教えられていて、何かしっくりこなかったことを当時感じていたことを思い出した。」

「今の経済体制(昔でも)で利益を得ている人、権力をもつ人は、今の経済体制に終わりがくる、当然変化していくものという考え方は確かにわかってはいても触れられたくない事実であると思った。」

『「資本論」を読むための方法(読み方)をある程度自分のものに出来たように思った。資本主義の科学的解明をこれから楽しく学んでいきたい。今のところ、かなり頭がこんがらがっているので、感想も書きにくいですが、マルクスは、「資本論」によって資本主義の抱える問題を明らかにして、その後、どうしようとしていたのかが気になりました。』

「今回の東日本大震災における原発事故問題も、考えてみれば土台には資本主義の剰余価値生産、運動法則の結果であり、改めて今学ぶ重要性を感じた。マルクスは、資本主義が、地球環境や人類の存続を危うく、資本主義自身が資本を危うくする状況を想像できたのだろうか?」

「マルクスと、マルクス以外の経済学のちがいについて、近代経済学や新古典派経済学が貧困や格差といった富の偏在を個人の才能や運で説明してしまうことの背景に、商品生産(=全員が対等平等な関係)しかみないという理論的な問題があるということが勉強になりました。」

「マルクスの経済学とマルクス以外の経済学の所で、経済学にどちらの立場に立つかという観点があるという事を初めて知った。剰余価値に重点を置くマルクスと、それに対する市場経済の考え方との対比が興味深かった。」

『とにかく難しそうという頭がありましたが、今回の講義を受けて「ちょっと面白そうかも」と感じました。』

「今の生活でも貧富の差が大きく広がっているなどして、資本主義の影の部分が本当はよく見えているにもかかわらず、貧しい人は努力が足りないとか才能がないからそうなっているという考え方が社会の中で支配的で、普段ものの考え方がゆらいだり見えにくくなってしまうことが多いな、と私自身感じています。資本論ははじめてで難しそうですが、自分の生活やものの見方に少しでも身になればいいな、と思います。」

「『資本論』は、ぱっと見、むずかしい文章で、どう読んで理解したらいいか悩んでいましたが、今日の講義で、・慣れること・文章の要点を見極めること・読む過程をたのしむこと、をしていってみようと思いました。わかりやすい講義で、楽しかったです。」

「本だけみてると意味不明な言葉も先生に説明してもらうと分かってくる。今後、がんばってついていきたい。」

 と、これでも一部ですが、“今、資本論を学ぼう”という意気込みを強く感じます。

 そして、一人ひとり聞いてみると、『資本論』第1章を、今期で初めて学ぶ仲間が、19名中16名だということがわかりました。ほとんどの仲間が、『資本論』自体をはじめて手にとる仲間なんです。

 私自身、10年以上も前から『資本論』を読んでいる者として、身の引き締まる思いです。初心にもどって、この機会にしっかりと深めたいと思います。

 社会のあり方、生活のあり方が問われている今、『資本論』を深める意味、意義は大きいと本当に思います。この仲間たちの強き“思い”に、グッときています。

 労働学校という開かれた場所で、『資本論』を学習するってスゴイことだと思います。(吉)11/06/27


2011/6/27


■@GAKUTOMO NO.339
労働学校募集で自分が担当している職場のなかで、病院の新採の看護師さんが総合コースを受講してくれることになりました。開校の前々日に「総合コースの通信冊子」と139期のチラシを渡して、「患者さんがおかれている状況を科学的に捉えることの重要性、“人間を看護する”ということの意味を捉えることができます!とにかく中身を読んでみてください!」と話して帰りました。そして前日。返事を聞くため連絡しようとした矢先、向こうから「講義の中身に興味を持ちました。受講するにはどうしたらいいですか」との連絡が!すぐに連絡し、申し込みをもらいに行きました。

これまで、「ここの病院の看護師さんは三交代で忙しくて来れない」「組合からも看護師へは働きかけが難しい・・・」と聞いていただけにその人の受講は嬉しい動きでした。これまで、その職場で看護師さんに話せたのは数人(二人くらい)。しかし実際にはもっともっと病院内にはたくさんの医療労働者がいる、みんなが学ぶ必要がある中身だと思うと、改めてその職場の全職員に「労働学校」の存在を知らせるにはどうしたらいいか、組合で活動している人や、組合で活動していない人のなかでのつながりを深めていくにはどうしたらいいか、戦略をもって当たっていくことが重要なんだなと思いました。(麦)11/6/26

◎京都の大衆的学習教育運動は中身で勝負≠ナす。だからこそ……科学的社会主義の世界観的確信が不可欠です。(む)


2011/6/25


■@GAKUTOMO NO.338
今日の休憩室での話題。「めちゃめちゃ疲れてはる」「そうやろ〜。うちも学童迎えに行った帰りの車の中でいっつも寝たはったわ」「入学式の次の日から5時間目まであるんやで!先生も、『5時間目は寝たはりますねぇ』『そのうち慣れはりますよ』って・・・」。小学1年生の話です。

聞いているだけで、息がつまるようです。

その子の、その子ども時代の、その時期は今しかないのに!そんな瞬間瞬間を「そのうち慣れる」ために居眠りをしながらも席につき、「勉強」させられている・・・。そんな中で子どもが何を学んでいるというのか。

そんなことを考えながら待ち合わせをしていました。保育士の仲間に労働学校を勧めたくて、紹介してもらうためです。

講義でどんなことを学ぶのか、どんな仲間が参加してくるのか、と魅力を話していて、それもそうだけど、「学ぶ」ということそのものを学んできたなぁと振り返っていました。自分の頭で考えることそのものが「学ぶ」ということだと、労働学校で学んで始めてわかった、と。先生の話を聞いて、板書を写して、覚えて、テストして・・・という大半の学校の授業とは違うものです。「学ぶことって面白いんや」って、大人になって初めて感じました。

そして子どものことも、できるできないじゃなくて、子ども自身の足で立って、子ども自身の足で歩いて、子ども自身の手で変化をつくり出していく、そういう力を育てたい、と話しました。

子どもに関わるすべての大人に学んでほしい!そして、「そういうものだから仕方ない」と諦めて過ごしていくのではなく、“人間の発達”を基準に、“変革する力”を育てなければ、と思います。(蓮)2011/06/22

◎子どもの「できる」「できない」は何を基準にしているのだろうか。基準∞尺度=c…世間=Bちゃんと考えると答えが出てきます。受講する2名の保育士にそれが出来る人間に成長して欲しいですね。


2011/6/24


■@GAKUTOMO NO.337
最近よく新聞や雑誌に、卒園した子どもの保護者が登場しています。なんとなくうれしくて切り抜いてます。原子力発電について研究されてきたそうで、今回の原発事故を契機に、「原発からの脱却という新しい時代には新しいエネルギー政策が必要」だと主張されています。

在園中も労働組合と保護者会で一緒に運動を進めてきた、その中心的な方ではありましたが、こうして新聞や雑誌で次々と見解が取り上げられているのを見ると、なんてスゴイ人なんだ!と思ってしまいます。(大学教授で、実際スゴイ方です。)

しかし、そうか・・・と思うところがあります。新聞や雑誌で見る論文や意見を載せている科学者たちは、本を書いたり、論文を書いたりするために科学者をしているわけではないんだ、と。

自分の専門分野・・・それは人生の様々な出会いの中で定まっていくのでしょうが・・・をより良い方向へ突き詰めていく。それは自分のより良い仕事のためであり、対象とするもののためであり、それが科学的であればあるほど人類の英知のために役立つ。そういう人間の探求活動をしているのだと。

それが、その時代その社会の問題や課題、気分などと重なったときに、大きく注目されていくし発言力や説得力も高まってくる。現実にある問題を乗り越え、変革していこうとするときに、その実際の解決に役立つ。それこそ科学だ、と思いました。

「世界金融危機」をきっかけに、マルクスに注目が集まったように。「今こそ、『社会主義論再生』へのアプローチを」という芦田先生の言葉も響きます。

時代の流れを見定め、そこに自分らしさや自分の専門性をどう重ねていくか。どんな職業の人でも、どんな専門分野の人でも、否応無しに社会の中で生きているわけで。

139期開校までもう時間がない!(蓮)2011/06/20

◎「阻害された労働」からとらえるとどうなりますか。(む)


2011/6/23


■@GAKUTOMO NO.336
同じ職場の先生と話す中で、怖い話を聞きました。

その先生(A先生)には小学校5年生になるお子さん(Bちゃん)がいます。Bちゃんが4泊5日と長い宿泊学習に行っている、というところから話は始まりました。Bちゃんは最終日の終わりの会で、感想をみんなの前で話す役を担うことになっていました。「大役やなぁ。頑張ってな」と、A先生は話していたそうです。

ところが、ある日、Bちゃんがお風呂に入っているとき、お風呂の中からブツブツ話す声が聞こえてきたといいます。気になってそばへ行って聞いてみると、「山登りでは……」などと言っているのが聞こえます。まさか……と思って、お風呂上がりの娘さんに聞いてみると、なんと最終日に言う感想を練習していたのでした!

よく聞くと、その感想は先生と一緒にBちゃんが考えたものだということが分かりました。でも、まだ体験してもいない宿泊学習の感想を、どうして考えたというのでしょう?A先生は、その話を聞いて「鳥肌がたった」と言います。

教育現場では、今、大阪府で君が代についての条例が作られたことが、大きな問題となっています。子どもたちを教育する立場の教師から、自分の意見を表明する権利を奪った条例です。A先生から聞いた話もそのことと大きく関わっているように感じます。

宿泊学習の最終日に感想を話すのは何のためなのでしょう?子どもたちにどんな風に育ってほしいと思っているのでしょう?先生たちが大切にしたいことは何なのでしょう?

立派な感想が言えることが大切なのではなく、自分で体験したことを振り返り、自分が感じたことをみんなに伝える、そのことこそが大切なのだと思います。

こんな教育で育つのは、何でも言われたとおりに動く子どもたちです。言われなければ行動できない、言われたとおりにしか動けない、自分で判断したり考えたりすることができない子どもたちになってしまいます。

Bちゃんと一緒に感想を考えた担任の先生は、そのことに疑問を持たなかったのでしょうか?教師も保育士も子どもを育てていくという大きな責任を担っています。教師の価値観がそのまま子どもに伝わります。文部科学省がどう考えるか、ではなく、1人1人の教師が教育をどう考えるか、子どもをどう見るかが問われています。科学的社会主義の理論を学び、科学の目で判断していくことがとても重要な意味を持っています。子どもたちに関わる大人がまず主体的にならなければなりません。(螢)2011/6/23


2011/6/22


■@GAKUTOMO NO.335
 原発撤退署名行動を週末続けていますが、とても気になることがあります。

 それは、男女を問わず、いろんな年代の方と対話をする、もしくは対話を試みるんですが、(私の印象としてであり、私の話かけ方に問題があるのかもしれませんが、)若い男性に比較的多いのが、「原発は必要でしょう」(そう言って、こちらの話を聞くこともなく、立ち去る)、「原発がなかったら、日本経済はひどいことに…」といった原発を推進する人から出るような意見であったり、“現状を肯定”しようとする意見などです。さらには、原発の撤退をめざそうとする私たちの運動を、「非現実的だ」「根拠も示さず、無責任に撤退なんて言うな」と強い口調で言ってくる人もいます。

 そこには、自分たち(青年・労働者)が“変えていこう”、“未来をつくりだしていこう”という意気込みは感じられない、何か将来に“夢”が感じられない印象を強く受けます。

 そんな時、第20回集中セミナー『財政危機と現代資本主義』の河音先生の呼びかけ文を読みました。そこには、“この集中セミナーでは……2つの理論的課題ーー第1の課題は財政危機の経済学的解明、第2の課題は財政危機のイデオロギー論的解明……に取り組んでみたい”とあります。

 そして、“第2の課題は、「財政再建」という政策スローガンが、現代社会の諸矛盾を労働者・国民に負担を転嫁するためのイデオロギーとして機能してきたことを明確にすることです。”とあります。

 “財政危機”をつくりだしたのは、いったい誰なのか?なぜ、そうさせられたのか?この何十年かの、無駄な大型公共事業をすすめた政府や財界の姿をみれば、労働者・国民がしたのではないのは間違いないのは、簡単にわかります!

 なのに、政府や財界は、「財政再建」という言葉を巧みに利用し、労働者・国民に負担を転嫁する!

 “甘い汁”を吸って、ひどい状態にして、次は、“危機”だからと、尻ぬぐいさせる…。おかしいにもほどが…。

 原発でも、同じようなことを思います。原発つくって、原発に依存しないとやっていけない状態をつくっておいて、今になって「原発なくなったら、日本経済は…」。よう、そんなことを、ぬけぬけと言うことができるとは…あきれます。

 しかも、それを、街ゆく青年・労働者が、同じことを口にする…。こわいことだと思います。21日の@GAKUTOMOの最後に書かれている佐貫さんの論文と重なっていると思います。

 しんぶん赤旗の12日付“きょうの潮流”に、“…作家・村上春樹さんの言葉を繰り返し思い出していました。……「夢を見ることを恐れてはなりません。…我々は力強い足取りで前に進んでいく『非現実的な夢想家』でなくてはならないのです」▼村上さんは告発します。原発に疑いをもつ人は「非現実的な夢想家」と決めつけられたが、いまや地獄のふたをあけてしまったような原発のありさまこそ「現実」である、と。「非現実」とみなされた人たちが、実は「現実」を見通していました。”とありました。

 原発をなくしていこうという運動は、けっして「非現実的」ではないと私も思います。

 私たちが、今、学び、そして実践を積み重ねる、科学的社会主義というものは、まさしく“現実”“事実”が出発点にあるのだと思います。そして、私たちは、「非現実的」ではない“夢”を持っています!

 最近、運営委員の仲間が話していたのは、「労働学校来ていなかったら、原発は必要だと思っていたかもしれません。実際、一年前の自分ならそうでした。」と。自分もそう思ってふりかえったら、労働学校に来る前の自分は、TVや新聞などの情報を受動的に受け取り、いかにも自分がそう考えついたかのように、まるで“資本の代弁”をするかのように、話していたと思います。

 街ゆく青年・労働者が、私たちにむかって、強い口調で“非難”のようなことを言ってきても、その人の本心の言葉なのか…それとも“資本”の言葉なのか…“敵をまちがえるなっ!”です。

 残す準備期間はあとわずかになった139期労働学校ですが、どれだけ広げることができるかが、私たちの闘いです。今日、街宣にたちます!(吉)11/06/22


2011/6/21


■@GAKUTOMO NO.334
毎週末、同じ時間に同じ場所で原発からの撤退を求める署名を集める活動をしています。場所と時間は同じでも、通る人はもちろん違うので、毎回色々な対話をします。

19日(日)の活動で私が対話をした中で特徴的だったのは、原発についてどう思うかを聞いたときに「大変そうですね」「自分には関係ないので…」と答える人が少なくなかったことです。原発問題が自分にとって身近なものに思えないのです。

私自身も少し前までは原発や社会が身近なものだと思えませんでした。労働学校で学び、今自分たちがしんどく思ったり悩んだりしていることと社会のしくみが密接に関わっていると思えるようになりました。

135期のオープンGAKUTOMOプラザで、沖縄の基地問題について、「沖縄の人は大変だと思うが身近な問題だとは感じない。大阪湾に基地ができるってなったら大変やけど…」という意見がグループ討論の中で出ました。その意見について河音先生が話して下さった話が、今でもとても印象に残っています。先生は日本に米軍基地があるということが私たちとどんな関係があるかを話して下さいました。例えば、思いやり予算。日本に米軍基地があるからと、アメリカにあげているお金です。しかもそれは私たちが納める税金です。もし米軍基地がなければ、思いやり予算をアメリカにあげることもなく、そのお金で私たちの職場に1人ずつ人を増やすことも可能なのではないか、と先生はおっしゃっていました。

原発に関しても、なぜ原発がここまで増えたのか、原発があることでの害悪、原発の危険性などを知ったら、今より少し身近なこととしてとらえられるようになってもらえるのではないかと思います。

自分と社会を結びつけて考える。それができるようになるための「科学の目」を労働学校で1人でも多くの人に養ってほしい。さらに、学ぶだけではなく、その目を使って判断していく、実践していくことが今、1人1人に求められています。

139期開校オリエンテーションまであと4日となりました。最後までみんなで奮闘します。自分たちで社会を変えていくために。(螢)2011/6/21

◎それぞれが自然成長的にできあがったのではなく、そうのようないびつな∴モ識が青年の中につくりだされる「仕組み」を再認識しよう。以下は、労働学校運営委員会で学んでいる「青年論集」(p22)の文章です。労働学校への青年・労働者を組織する意味は、その仲間を「救っていく(共に未来を語る仲間に)」ことにもなる。(む)

----------------------------
「しかしそれにとどまらず、幼い頃からそういう主体的な目的の発達を抑止されて競争の意欲が肥大化させられると、評価と競争から自立できない、評価と競争のないところでは目的が見いだせない受動的な人格がつくられる。

そして社会への関心から切り離された競争の世界に閉じこめられ、本来青年期において達成される社会と自分との再統合=i社会や歴史の中で自分の役割を位置づけ、自分の生きる意味を発見していくこと)ができないままになってしまう。

そのため、第一の「生きる目的と直接結びついた学習意欲の回路」の本格的な形成──青年期的学習意欲の形成──ができなくなり、多くの大学生が、学習の目的を見いだせないままに日々を送ることになる。このような競争的人格の形成は、日本型受験学力競争の必然的結果である。」
(「子ども・青年の傷つきの場としての学校を組み替える」佐貫 浩・法政大学教授 「前衛」2010年1月号より)


2011/6/20


■@GAKUTOMO NO.333
139期の労働学校募集で最後の「押し出しパンフ」ができました。それは先期(138期)労働学校の総合コースで配られていた「労働学校通信」の前書き特集。それは労働学校で学ぶ内容がわかると同時に改めて、これまで活動してきた自分自身の“まなびつつたたかい、たたかいつつまなぶ”という姿勢を捉え直すものになっていると思いました。

そう思ったのは「第9課 知のESSCENCEU 人間の知性と自由」(牧野広義先生)の最初。「知性はさまざまな経験を積むこと、本や新聞などを読むこと、人と討論することなどによって鍛えられます。人と議論すると、うまく説明できなかったり、反論できなかったりすることもあります。しかしそのために、いっそう学習しようと思うものです。わたしたちは新しい出来事に出会うと新鮮な驚きを持ちますが、その感情をその場限りにしないで、興味や関心を広げることが知性を豊かにします。また感情の豊かさは、多様な経験や豊かさや人間関係の中からつくられます。自分がいろんな経験をすると、他人の気持ちもわかるようになります。人間は苦しんでいる人と共感でき、不正への怒りがあるからこそ、共によい社会をつくろうと思います。そして知性や感情の豊かさが強い意志を作ります・・・」と牧野先生は書かれていました。

こんなことが、科学的社会主義に初めて触れる仲間に話されるのかと思うと、労働組合で活動し始めた仲間や、1人で仕事につぶされそうになっている仲間にぜひ受講してもらわないとあかんと思いました。とにかくまずこの「押し出しパンフ」を渡しに行きます。そして自分自身も、労働学校の募集、そして「原発からの撤退署名」、GAKUTOMO…いろんな実践の場面を、知性を豊かにするための挑戦の場として生かしてがんばっていきたいと思います。(麦)11/6/19

◎労働学校通信≠フ前書きとは、受講生の感想を素材に講義のポイントを講義の3日後に深める講師からの助言です。これを活用すれば、一つひとつの講義の内容を正確に対象者に話すことが出来ます。私たちの労働学校は、中身(学ぶ値打ち)で勝負!しているのですから当然のあり方です。

さらにいえば、労働学校に参加して学ぶことが、その仲間の現時点の到達点で「わかった!」というところにとどめるのではなく、それを足場に前進することの出来る内容を持っているし、それを目指しています。理論を学びます。

だから科学的社会主義の学習は、学ぶ本人の主体的な挑戦であり、その成長とともに獲得できるものである、という基本が講義、運営活動で貫かれるのです。

私たちの労働学校では青年・労働者の現時点に迎合することは全くありません。労働者階級の歴史的使命を深く(一生ものとして)学び取ってほしいからです。(む)


2011/6/18


■@GAKUTOMO NO.332
保育士の肩腕腰痛の特殊健診がある季節です。休憩室で、少なくない仲間から「めんどくさい」「なんで行かなあかんの」という声が聞こえてきました。この特殊健診は「勝ち取ってきたものだ」と聞いたことはあったので、なんとなく労働者として大事にしなくてはいけないものだと思ってはいました。しかし、今はまだ腰痛など患っていない者にすれば正直「めんどくさい」という気持ちもわかります。

そこで、ちょうど地域支部の分会代表者会議に来ていたベテラン活動家に、その歴史を聞いてみました。ほんの数十年前の話ですが、肩腕腰痛が病気だという認識もない、ぞうきんが絞れないなんて「怠け病じゃないか」なんて言われていたそうです。そういうことを理解して、診てくれる医者もいなかったそうです。保育士の病休が蔓延するなか、民医連と共に闘い、その結果、職業病だと認められ、特殊健診を実施させた・・・と簡単にですが、経緯を聞きました。

そういう歴史を知ると、今は当たり前だと思っていることも、自然発生的ではなく、闘って作ってきた認識であり、権利であり、制度なのだということが見えてきます。しかしまたその予算も削られてきて、健診の内容も形骸化してきているようです。

138期労働学校の総合コースの感想に、ぴったりくるものがありました。「労働者が階級的自覚をもち、その後の歴史的経過を学ぶことができ、大変興味深かったです。資本主義経済の仕組みが搾取を生み出すため、労働者の人間らしさを守るには、社会的規制が必要となってくること、労働者自身も今持っている権利は、先人の努力の成果で自然と沸いて出てきたものではないことを自覚し、今よりさらに人間らしい生活を送るにはどうすればよいのか、権利を維持・発展させていくことに意識を向けることが大切であると感じました。(3月11日(金)「訓練され、結合され、組織され」る労働者)

ベテラン活動家たちは、自分たちの退職を目前に「青年が組合に結集しない」と悩んでいます。青年たちは、「知らない」から闘えずにいるのかもしれない。あらゆることを機会にして、青年に学ばせる・・・それこそ、日常的な「闘い」だと思います。労働学校募集は、その格好のチャンス。がんばります。(蓮)2011/06/17

◎知る! ということは、物事を直接知る! ということにとどまらず、他の物事との関係性をとらえることによって、本当に知る≠アとになる。知っても行動がとれない。それは、知ることになっていない。見た∞聞いた∞考えた≠ネどの感覚的(受動的)な段階の知る≠ノとどまっている。もっとも感覚的な段階を軽視するわけではないが。物事を知る≠ニは、その本質的内容を知る≠ニいうことでなければならない。労働学校総合コースのカリキュラムを学ぶ必要がある。勝負は社会主義論にある。

人間の生活力は、自分の現実を「ありのままに」とらえ、その不合理性を克服し新しい現実を作り出すことにあるのではないのか。だから知る≠ニは、真理を手に入れるということなのだ。(む)


2011/6/17


■@GAKUTOMO NO.331
 運営委員のKさんから、「うれしい報告です!」と電話がかかってきました。

 Kさんは、受講生のOさんへ139期総合コースの押し出しパンフレット“総合紹介”を届けるために、Oさんの職場へ出かけていました。

 138期の総合コースには、Oさんの職場から複数、総合コースを受講する仲間がいました。その中の仲間のつながりのリハビリ関係の仕事をされているYさん(138期のHORIMARUセミナーに参加していた)と、その職場で偶然会ったそうです。

 そして、以前から話している総合コースの話をすると、Yさんが、「申し込みしようと思っていたんです!」といって、その場で申し込みをしてくれたとのこと。

 Yさんは、労働学校のある学習会館のすぐ近くに住んでおられて、実は、Kさんは、近くのコンビニで偶然会い、その時も「総合コースを受講しようと思っているんです」という返事をもらっていました。でもそれから、しばらくしてから、間接的に聞いてもらうと、「次の機会にしようかと思っている」という返事をもらっていたところでした。

 労働学校の準備活動をしていて、つくづく思うのは、“動かないと広がらない!”ということ。

 Kさんが、Oさんたちの職場に出かけたからこそ、Yさんの申し込みになったのは間違いないのです。受講しようと思っていたも、いつしか日がすぎて、労働学校がはじまっていて、次にしよう…ってなっていたかもしれません。

 学習会館で、“連絡がつかない…”“メールの返事がない…”といってても、変化はほとんどつくりだせない、やっぱり、職場などへ、出かけてこそ、実際に仲間に会える!これは、大切なことだと、改めて思いました。

 と、考えていたら、一つ思い出しました。このYさんの職場は、Tという病院です。そして、今、学習協の事務局をしているUくんが、まだかけだしの運営委員のころ、労働学校の準備活動で、とある日曜日、私も、Uくんも誰にも、アタックする予定がなく、学習会館でモジモジしていたんですが、“ここにいても広がらない!”という思いで、T病院にいって、誰か知り合いが出てくるのを待って、労働学校の話をしてみようと、出かけました。

 そうすると、一人の(当時)まだ新人の看護師さん(看護学生の時に労働学校を受講していたことがあって知っていた)が、仕事終わりで帰るところに、その門前で会いました。そしてUくんと一緒に、「久しぶり…」から始めて、労働学校の話をすると、その場で、申し込んでくれたことを思い出しました。

 その時も、“やはり労働者がいる職場へ出かけないとっ!”と強く思っていました。

 そして、その看護師さんは、今、T病院の組合の支部長をなされています。

 139期の準備期間もあとわずかです。どんどん“出かける”ことがないかぎり、広がりません。みんなの力を総結集して、ラストの期間、広げに広げよう!そこに、新しい仲間がいます。その仲間とともに成長することを想像して…。(吉)11/06/17


2011/6/16


■@GAKUTOMO NO.330
 労働学校を準備していて、なんといってもうれしいし、ドキドキするのは、今まで労働学校に参加したことがない仲間が、受講の決意をされることです。

 その仲間自身が労働学校で仲間とともに学び、その中で変化する。他の仲間も、その仲間がいるからこそ学び合える。そして、一人ひとりの変化・成長が、社会をよりよくする大きな力となる可能性が広がる…。

 ドキドキするし、そして、そのために、私たち運営委員会がすべきことは何なのか、身の引き締まる思いも強まります。

 月曜日の話ですが、運営委員のHくんが、NKくんというコンピューター関連の専門学校に通う後輩の受講決意である申込書をもらってきました。

 NKくんが高校生の時から知っていて、久しぶりに会って話したそうです。

 NKくんも民青同盟の他の地域で活動していて、原発問題の学習会に積極的に参加したり、署名行動にも取り組んでいる…といった話から、趣味の話など、いろいろと話したとのこと。

 二人とも、音楽活動をしていて、その話題の中で、共通の思いになったのが、「今、流行っているといわれている曲でも、なんて陳腐な歌詞なんだと思うのもある。大きなプロダクションが、売ろう売ろうとして、無理にでも流行らそうとするは、納得がいかない。」「そんなにメジャーじゃない曲でも、いい曲だなあと思うのがたくさんある!」といったことでした。

 Hくんが、「経済というのが土台になっていて、そこが利潤第一主義になっている。もっとアーティスト、クリエーターが自由にいいものがつくれるには…」とう問題提起もして、話をすすめ、「しっかりと社会のしくみを深くとらえてこそ、音楽がより深まるのではないか…」といった話も重ね、NKくんが決意に至りました。

 その2日後、Hくんは、世界観コースのIさんと一緒に、『5月集会』に参加したNIくんに、何度目かの労働学校の話をし、ついに彼の受講決意をかちとりました!

 NIくんは、自分の生活のことや、お兄さんの働き方のことなどから、“(社会が)おかしい”という思いと、その一方で“しかたないんじゃないか”という思い、両方の思いを語ってくれたそうです。

 お兄さんが管理職になって給料があがらないということを、「あげてほしいというのは正当なのか」、「できの悪い部下もいるし、不景気やし給料あがらないのはしかたない…」と、いろいろ考えているKIくん。

 HくんとIさんは、「もし景気がよくなったり、業績があがったら、給料はあがるのだろうか…」「そもそも給料はどうして決まるんだろう…」といったように、一方的にこちらの考えを押し付けるのではなく、一緒に考えながら対話をすすめていきました。

 Iさんは保育士をしていて、実際に仕事をする中で感じることとして、「子どものことを、成績や効率、○×といったことで判断したり、とらえるのではなく、成長する存在としてとらえることの大切さを、民青同盟や労働学校で学ぶ中で身に付けていった」ということも話してくれたそうです。

 他にもいろんな話をすすめ、KIくんも、総合コースに来てくれることになりました!

 そして同じ日、運営委員のKさんから、前の日、友だちと話したことを報告してくれました。

 その友だちは大阪で住み、働く友だちで、失恋したらしく、そのことで電話をかけてきたとのこと。今までのKさんなら(自分で言ってたのですが)、ドライに話をしていたかもしれないけど、今回はゆっくり話したそうです。

 そうするとその友だちが、Kさんに「なんでそんなに、客観的にとらえたり、いろんなことを考えて深くとらえたりできるようになったの?」と率直にきいてきたそうです。

 (その友だちが大阪ということもあり、労働学校の話をしていなかったKさんですが)「最近、労働学校というところに行っていて、そこで、ものの見方や考え方、社会のしくみのことなどを学んだりしてて、きっと自分のものの見方とかも、以前より深まっているのかもしれない…」と、労働学校のことや、そこでの仲間と学び合っていることなどを話したそうです。

 そしたら友だちが、「私も労働学校にいってみたい…」と。

 京都の労働学校には通えないので、一日の取り組みには来てくれるとのことです。

 Hくん、Iさん、Kさんの話を聞いて、自分の対話との大きな違いを感じました。

 それは、最近の私の場合は、労働学校を受けてほしい仲間に、いきなり労働学校の説明から入っていたように思います。でも、上記の三人の話は、日常生活のこと、趣味のこと、働き方、生き方などと重ねて、今学ぶことの大切さを語っているように強く思います。Kさんの例でも、まったく労働学校の話をしていないのに、その友だちが、そのKさんの変化に驚いたくらいですから。

 最近の私にここが足りていなかったと、つくづく思います。(吉)11/06/16

◎「マルクスは生きている」から引用。音楽でも同じで、旋律はなかなかだが、詩はまったくつまらないものがある。世界(自然と社会……)に対する認識力がためされてゆくのだろう。(む)


 社会にたいするこれらの見方は、マルクスがこれを提唱した当時こそ、社会で支配的だった見方をくつがえす画期的なものでしたが、それから百六十年たった今日では、社会的常識ともいえる当たり前の見方になっているのではないでしょうか。

 まず、経済生活が社会の土台をなしているというのは、社会のほとんどの人がそのことを実感しながら暮らしています。過去の歴史をふりかえるときにも、その時代に人間の経済生活がどんな仕組みになっていたのか、そのことを抜きにして歴史を語れないことは、いうまでもありません。時代小説やテレビの時代劇でも、庶民のくらしの様子に目を向けないドラマは、たいへん薄っぺらなものになってしまいます。


2011/6/15

■@GAKUTOMO NO.329
「原発の撤退を求める署名」活動に取り組んでいますが、街頭でやると様々な反応があります。何も言わずにすぐに書いてくれる人から、何も言わずに通りすぎていく人、「いいです」と断る人・・・様々ですが、「どう思われますか?」と一言聞いてみると、だいたいの人がそれぞれの思いを話し出してくれます。

その中でも、先日の行動の中で出会ったある女性が印象的でした。「複雑ですね・・・」と神妙な様子で言ったあと、静かに署名してくれました。言葉にできない思いがあるような感じかな〜と思いつつ、このまま終わってしまってはいけないと一方的に話していると、うなずきながら「私も被爆者なんです」と言って、一瞬立ち去ろうとされていました。

どう見ても若い、20代〜30代の女性です。「どういうことですか?」と思わず引き止めて聞いてしまいました。女性も、唐突な私の聞き方に嫌な顔ひとつせず、応えてくれました。「長崎出身なんです。祖父母が被曝してるんです。」と。

私は、全身に鳥肌が立つのを感じました。微笑みながらも悲しげに話してくれる女性の表情の訳がわかり、その思いを感じ、怒りというか、悲しみというか、なんとも言えない思いでした。女性自身の体調に何か問題があるわけではないそうです。しかし、「私も被曝者なんです」というその女性の思い。

原発がなぜ作られたか・・・その訳を知っていたから、なおさら腹が立って、この女性にもその歴史を知ってほしい!と強く思い、不破さんのパンフ「『科学の目』で原発災害を考える」を勧めました。女性は「それなら・・・」と買ってくれました。

読んでほしい。真実を知ることは、社会を変えていく力を生みだす。だから、読んでほしい!。(蓮)2011/06/13


2011/6/14


■@GAKUTOMO NO.328
 “宝の持ち腐れ”という言葉は皆さんよくご存知でしょう。まさしく“宝の持ち腐れ”とはこのことかということがありました。

 先週の運営会議で、京都学習協発行の『月刊:京都学習新聞 2010年09月15日 316』(※)に掲載されている、『第136期京都中央労働学校 総合コース第1課 マルクスは何を発見し変革したか』という芦田先生の講義録を学習しました。

※このホームページ=“京都学習情報”のトップページから、“京都学習新聞”をクリックして進むと、見ることができます!

 今、139期労働学校の準備活動…138期に学んだ仲間を中心に労働学校に関わる多くの仲間の力を結集して、“新しい仲間”へと広げる活動…を、連日すすめていますが、京都中央労働学校の“総合コース”とは?!ということが、こんなにもまとめられていて、総合コースを受講したことのない仲間への押し出しとして活用できるものとして、今までいかせていなかったことが…まさしく“宝の持ち腐れ”状態でした。

 芦田先生の講義で話されている内容は、その言葉だけをとると、いっけん誰にでもわかる言葉で話されているように思ってしまうのですが、その言葉の一つひとつに含まれる意味、本質はとてつもなく深いものがあるように、改めて読むと思えてきます。先生が選ばれる一つひとつの言葉を、表面上だけとらえていては、科学的社会主義を学び深め、実際にいかしていくことはできないように感じます。この講義録は、本当に、ドキドキします。

 〈学習のポイント〉の最後に、「いったい彼は何を研究し何を発見し、世界の見方に本質的な変革をもたらしていったのか」…“世界の見方”という言葉、総合コースの学習をすすめる上で、大事な言葉だと思います。

 こんな一文があります。「なんでこんな歴史をふり返るお話をしているかといいますと、自分たちの地位をすこしでも改善していくためには、労働者が団結して、生活や労働や権利を守る、利潤第一主義にブレーキをかけていくということをしないと何一つできない、という歴史上の教訓をよくよく理解していただきたいからです。」

 別のところに、「…徹底した民主主義の立場でこの革命に参加したんです。だがやっているうちに、社会主義者、共産主義者になっていったんです。民主主義というのは、一人ひとり誰もが人間としての同じ権利を平等にもっているという考え方です。それを徹底させていったら、本当に社会主義や共産主義になるです。彼はそうなっていきました。」『このへんの時代を「初期マルクス」と呼ばれていて、彼らもそのときに書いているのは、つねに人間を中心において、人間がどうすれば自由と平等になっていけるのか、人間の疎外から解放されるにはどうしたらいいのか、という問題の立て方です。

青年の多くは若い時に誰しも、人間として自分はいかに生きるべきか、という問題に悩むわけです。自由で平等でありたいと願うわけです。青年マルクスもそうでした。そして、人間の解放ということから出発して、それを徹底させていくうちに社会主義や共産主義の考え方に到達するわけです。』「その唯物論的な考え方を、人間の社会や歴史の観方に適用したのが史的唯物論と呼ばれるものです。」

 また、別のところでは、「一八四八年の革命以後は、労働者階級の運動を抜きにしてはもう考えられないという、歴史のうえで主体的な力として力強く姿を現らわすようになったんです。」「マルクス、エンゲルスはこのときちょうど二〇代でした。……自分たち自身の労働者の組織された力、運動こそが未来社会をつくりあげる唯一の原動力である、ということを発見するのです。しかも、それを言葉で宣言するだけではなく……」

 一八四八年の革命と、マルクス、エンゲルス。その時代に生き、その時代で活動し、そして理論を発展させていく…当然、理論が先にあるのではなく、彼らが実践を通じて、“科学的社会主義”を確立していく姿が、この講義録から、ドキドキしながら感じます。

 21世紀の今、激動する世界、エジプトや南米、ヨーロッパ…。そして、日本においては、未曽有の大震災…。身近なまわりでも、実際に働き方や生き方に関わる問題…。私たちは、そうした社会の動きを、どうとらえる力を持っているのでしょうか。そして、そこから、どう社会を変革する方向へ、未来を見通す力を身につけているでしょうか。

 今、マルクス、エンゲルスがいたらどうするでしょうか。

 でも、その“世界の見方”は、引き継がれて“生きています”

 それを、一人ひとりが、学び、深め、実際にいかしていけるかどうか。

 私は、京都中央労働学校・総合コースを受講することは、その出発点になると思います。(吉)11/06/14


2011/6/11
@GAKUTOMOはありません。


2011/6/10


■@GAKUTOMO NO.327
昨日、138期募集のときに運営委員のNさんが街頭で出会ったHさんと電話しました。私が電話するのは初めてでしたが、五月集会のときに同じ班で一度顔も合わせ、アドレス交換もしていたので久しぶりに声が聞けて嬉しかったです。

139期労働学校の受講を悩んでいる様子でした。火曜日にどうしてもはずせないバイトがあって、講義日とかぶっているというのが一番のネックみたいです。

近況を聞くと、五月集会後に友達と一緒に遊んだ時、五月集会の資料(20代男性の生計費)を出して友達に「こんなにお金かかるって知ってた?」と話してみたそうです。友達の反応は「こんなにかかるの!?うそ〜!」「こんなに稼げないよね…」とかいろんな反応があったそうです。「でも、普通に自分の趣味とかもやりながら生活していくと、このくらいかかるんだよ」と話しましたと、Hさん。

そして、「フリーターでアルバイトをして働いている友達がいるんですけど、アルバイトでもなかなか採用してもらえないらしくて…。もう、面接にいくだけでつらくなって面接すら受けれなくなっているみたいなんです…。」と。

バイトを続けられないのは自分が頑張ってないから、面接すら受けられないのは頑張ってないから、そして面接に落とされるたびに否定されていく自分。私が大学四年生で就職活動していたときも、100社ほど採用試験を受けた友達が「落とされたり、不採用のメールが届くたびに『あんたなんかいらない』って社会に言われてるいたいで辛い」と言っていたのを思い出しました。

そういう人にこそ、「あなたのせいじゃないんだよ!」と伝えたい。そして、学んでほしい!!でも、Hさんの友人にいきなり「労働学校に来てほしい!」と見ず知らずの人が話にいくよりも、まずHさんが学んでそれを五月集会のときみたいに、その友達に伝えていってほしい。その友達にも学んでみて!と伝えてほしい…。「だからまずは、Hさんから学んでみよう?」と話してみると、「火曜日は厳しいけど、行けるときだけでも頑張ってみます!」と受講を決意!!

Hさんから友達に、いっぱい伝えられるように、私はまずは仲間集めを頑張ろうっ!と思いました。たくさんの仲間と一緒に学んでほしいです。
2011/06/10(世)


2011/6/9


■@GAKUTOMO NO.326
 昨日、学習会館をもうすぐ出ようとした夜遅く、運営委員のHくんから、感動的な報告がありました。

 Hくんは週1回、宿直のアルバイトをしています。そこに、労働学校に来てほしい仲間Yくん(同じ民青同盟の地区で活動している大学生)に来てもらって、139期労働学校を紹介したとのことです。

 Yくんは、135期(1年前の3月4月)に総合コースを受講していました。今も、自治会の活動など中心的に活躍しています。

 Hくんが労働学校の話をすると、Yくんも今、学ぶことの大切さを強く共感してくれたそうです。

 そして、Yくんが、「今、新入生の仲間が増えています。その仲間たちにこそ、学んでほしんです。」と。そして、「特に、これから大学で学費の問題とか、いろんなことで運動をすすめていく上でも、社会のことや社会が変わるっていう展望などをしっかり学んだ上で、そうした運動に取り組んでもらいたい。それは、一人ひとりが成長する上でも、ものすごく大切なことだと思います。」といった話に発展!

 さらに、「だからこそ、私(Yくん)自身が今、学ぶことが必要だとも思うです」と。

 Yくんは今、社会科学研究所所長の不破さんが講師となってすすめている連続“古典教室”を受講していて、古典からしっかり学びたいという思いを強く持っていました。

 しかし、実際、受講料が学生のYくんには、大きい金額で、どうしようかと悩んでいたそうです。でも、Hくんがこの間、民青同盟の仲間に労働学校に来てもらいたいという思いで、いろいろ動いている中の教訓から、「じゃあ、一緒に、カンパを集めよう!」と、Yくんの背中を押してくれました。

 そして、Yくんは、139期経済学コースを受講する決意をされました!

 Yくんのその思いに、しびれます。

 Yくんの後輩に学んでほしい理由、そして自らもさらに深めようとする努力、そして、Hくんが宿直の時間を活用して仲間に話そうというその行動力、そしてYくんのそうした思いをききとる力と、その背中押し……本当に、全部、感動です。(吉)11/06/09


2011/6/8

パソコンの再インストールで必要なソフトもそろわず
今日はお休みです。


2011/6/7


■@GAKUTOMO NO.325
この前の週末に、街頭で原発からの撤退を求める署名を集める活動をしました。

1日目はまず、署名のことを話して、賛同できれば署名してもらうということに重点をおき、信号待ちの人を中心に声をかけました。
「原発からの撤退を求める署名を集めています」と話すと、すぐに署名をしてくれる人もいて、関心の高さを感じました。しかし、「原発がないと今の生活はできひんしなぁ」、「多すぎても少なすぎてもあかんと思うし、中間がいいと思う」と署名を断る人も少なくありませんでした。

私は街頭に出る前は、福島第一原発の事故で大変な事態になり、原発は安全じゃないということがはっきりしたのだから、撤退には多くの人が賛成してくれるだろうと思っていました。でも、今の社会では原発があることが当たり前。それをなくしていくということ、現状を変えていくということに抵抗がある人も多いのだと思います。また、「どうすればよいのか分かりません」、「情報が色々なので考えているところで…」と、判断を迷っている人も何人かいました。

2日目は、前日の経験を生かし、なぜ原発からの撤退を求めるのか、原発から撤退した後はどうするのかを不破さんの『「科学の目」で原発災害を考える』のパンフレットを読んで学習し、相手の話を聞くことを意識して、臨みました。思うような対話はまだまだできませんが、今日を機に話した人が少しでも原発について考えてもらえればいいな、と思っています。

危険な原発がどうして日本にこんなにたくさんあるのか、そして今の状況でもどうして撤退を決断できないのか。その根本には資本主義のしくみがあります。原発からの撤退を求めると同時に根本を改めるため運動していかなければならないと強く感じた2日間でした。(螢)


◎2011年6月4日(土)
しんぶん赤旗 きょうの潮流
--------------------
 太平洋戦争中の「修身」教科書に、「サイケイレイ」のページがあります。いまの小学3年生ぐらいの子どもに教えました

▼天皇誕生日。全校生徒が集まっている。天皇と皇后の「オシャシン」に向かって、「サイケイレイ」。「『君ガ代』ヲ ウタヒマシタ」。年長の子ども用の「修身」が、「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬(まん)年もつづいて、おさかえになりますやうに」と解説した「君が代」です

▼「サイケイレイ」が載る教科書の名は、「ヨイコドモ」でした。大阪の橋下知事も、「ヨイコドモ」「ヨイセンセイ」をつくりたいのでしょう。権力者にさからわない、よい子ども、よい先生を

▼知事は条例で、「君が代」斉唱のとき教師に起立を強制します。知事はいいます。公務員である教師が職務命令に従わなければ、行政はなりたたない。「(公務員に)自由なんかないんですよ」。会見に集まる記者たちにも、問いました。みなさんも上司の命令に対し、個人の思想・良心の自由がある、といえるのか?

▼待ってほしい。いま、わが国で改めるよう求められているのが、上いいなりの行政や会社のあり方でしょう。原子力開発をみれば分かります。「国策」の名のもとに、原発の安全に疑問をなげかける研究者に冷や飯を食わせ、異なる意見をしめだす。結果、福島第1原発の大事故ですから

▼ものいえない学校は、教育を否定します。知事は教師たちに、自分を曲げて上に従う人間になるよう子どもに教えろ、というのでしょうか。


2011/6/6


■@GAKUTOMO NO.324
土、日にみんなで「原発からの撤退を求める署名」を街頭で行いました。撤退を求めるからには、きちんとした理由を述べなければなりません。頭でおさえるところを浮かべながら、とりあえず実践です。

最初に声をかけた若い青年に、原発からの撤退を求める理由として、@発電所の構造の問題点、A核廃棄物の処理の問題点をあげ、たどたどしく説明をし終えました。

若い青年は、「まだ分からないので署名できません」と返しました。よし、ということで不破さんの「『科学の目』で原発災害を考える」のパンフをとりだし、「これに分かりやすく書いてあるんです。」と購読をすすめました。

すると、「いや、たぶん僕の方が詳しいから…。」と言うのです。
「えっ?」
「父親が関係者なんです。」
「東電ですか?」
「原子力保安院で副責までつとめてました。」とのやりとり。

そして、2つの問題点においても、「地震を想定していない東電に問題がある」こと、「再処理問題もフランスが研究開発していてそろそろ出てくるんじゃないかなあ。」とのことでした。

初っ端から原子力保安員の息子という強敵に出会い動揺し、心が折れ、それ以上話せませんでしたが、よくよく考えるともったいなかったと思います。きちんと学習を積んだ上で論議をすれば、どんな返しをしてくれたのか…。(ただ言い返したところで、ある意味「原子力村」で育った人を説得させるまでのものは持ち合わせてはないと思いますが…。)

でもきっとずるいと思います。フランスの研究開発のことを言ったように、専門的な知識を並べて言うに決まっています。フランスの技術がどこまですすんでいるかは私には分かりませんから。そうやって「安全神話」はつくられてきたのだと思います。

しかし、彼は悪くない。そして、そんな環境で育った彼も撤退を否定はできず、模索もしているようでした。最後に「話を聞いて面白かったですよ。」と言ってくれました。(イヤミだったのかなあ…。ここは素直にとっておきます。)11/6/5

◎どうして日本に原発が出来たか! これを彼に話して欲しかったですね。不破パンフを熟読してください。(む)


2011/6/4

掲載できる@GAKUTOMOはありません。


2011/6/3


労働学校青年学習集会(2011/5/19)
「マルクスの労働組合」と21世紀の現実

<かんそう>
状況を変えようと団結して起こしたストライキも攻撃されてしまうと、経済闘争に対する希望が見えなくなってしまう。それでも闘わないと自由は得られないというのはすごく辛いことだと思う。

改めて労働組合の意義、これから私たちがやっていくべきことを再確認できました。知らないこと、気付いていないことを知っていくことで何か変えるための意識、行動を作っていかなくちゃいけないなぁと感じた。

たたかい方を知らないなぁと改めて気付かされました。たたかわなければヒドくなるのは、身を持って知っていたのですが。

具体的な資料があって、すごく分かりやすかったです。「昔は未来は明るく思えていた」という先生の言葉は印象的でした。

労働組合と労働者は、結集し団結することでしか、権利と自由を獲得することはできないということを再確認できた。労働学校で学んだことをふまえて聞くとなるほどと思うが、何も知らないまま聞くと、わかりにくいところもあったように感じた。

今回の講義はなかなか良いものでした。機会があればまた参加したいです。

160年前、マルクスやエンゲルスの考えたように現代の私たちもまた、その日ぐらしで、餓死の危険にさらされており貧困は自己責任と考えられている。震災復興を理由に国家公務員給与を1割削減という動きがあるそうで、やはり来たか・・・負けへんで、絶対はねかえすし。

労働者はぎりぎりのラインで働かされているなと自分自身もまた周りを見ていても思う。世界的に見ると日本の雇用実態は異常だというのを改めて感じた。

資本主義社会では、ほとんどの人間が会社に雇われて働かなければならないので、労働者を組織していく必要があるとあらためて思いました。

講義を聞き、やはり今の自分達、そして自分達の後に続く人達の為にも、闘う労働組合を形作っていく必要があると感じました。

組合活動は賃上げ、労働時間の短縮の実現だけでなく、その元となる社会運動、政治運動の支援もかかせない。そうしないと労働者の生活はよくならない。原因をみなおす。資本家の思うつぼ。


2011/6/2




■@GAKUTOMO NO.323
「3月11日、海岸に近く旧北上川から約200メートルのところにあった湊保育所では、子どもたちはお昼寝の最中でした。ふとんをかぶって長い揺れが収まるのを待ち、隣接する中学校へ避難。・・・迎えに来た保護者など74人が一室で過ごした夜。『子どもたちが怖い思いをしないように。それだけを考えていました』」「懐中電灯の明かりでキャンプごっこ、おなかがすいたら、明かりをドーナツに見立ててドーナツごっこ・・・」(11/5/29「しんぶん赤旗」)。

その恐さや不安は、想像しがたいものだったでしょうが、それでも「子どもたちが・・・それだけを考えて」・・・!!と、奮闘された保育士さんの姿や思いは、想像すると心につきささるようです。

市の職員の方やその他にも大勢の方々が、自らも被災し、家族を失うような状況にあっても、被災した地域の人々のために日夜働くという姿は、数々報道されてきました。その都度、私自身は一体、一日一日をどんな風に生きているのか、と問われているような気がします。

NO.319でルイ・アラゴンの詩が紹介されていたのを機に、数年前に古本市で買った本を開いてみました。

そこにあった「未来の歌」(新日本新書「アラゴン」207頁)

人間だけが 夢をもつものなのだから
自分の抱いた夢が ほかの人たちの手で
自分の歌った歌が ほかの人たちの唇で
自分の歩いた道が ほかの人たちの道で
自分の愛さえが ほかの人たちの腕で成就され

自分の蒔いた種子を ほかの人たちが
摘みとるために ひとは死をも辞さない

人間だけが 明日の日のために生きるのだ
わが身を忘れて尽すことこそ 人間の道だ
人間とは みずからすすんですすめる者だ
ほかのひとに 自分の酒を飲むようにと

人間とは つねにその身を差し出す魂だ
おのれじしんに みずから打ち勝つ者が
我が身の血を ひとにあたえるのだ

その苦しみの報いなど 何ひとつ求めずに
そして来た時のように 裸で出てゆくのだ
・・・・・・

決して犠牲的なものでもなく、自己満足的なものでもなく・・・人間が“自分自身を生きる”ということがどういうことかと改めて考えさせられます。続いて紹介されていた「人間は人間の未来である」というマルクスの言葉も興味深い。どこに書いてあるのか・・・まだ出会ってない?見逃してきた? 発見したいと思います。(蓮)2011/05/3 0

◎「恋人に合いにゆくように……」、労働学校運営活動の根本精神。(む)


2011/6/1


■@GAKUTOMO NO.323
 今、139期労働学校の準備活動…138期に学んだ仲間を中心に労働学校に関わる多くの仲間の力を結集して、“新しい仲間”へと広げる活動…を、連日すすめています。

 昨夜も、138期初めて総合コースに参加した大学生の仲間が、同じ大学の親しい友人に労働学校のことをすすめた経験を寄せてくれました。自分が労働学校を受講しているということ、そして、次の夏に139期がはじまるので、受講してみないかということを、簡単にですが、すすめてみたとのことでした。

 ですが、その友人が「宗教みたいやな」と言ったので、本当はもっと詳しく説明したかったけど、そう言われてしまって、その後言葉につまってしまったとのことでした。

 「宗教みたいやな」というのは、特に内容を見ていったのではないようで、「勧誘される」こと自身にそういう印象を受けたようだとのことでした。

 労働学校のことを知らない人に、私も今までたくさんの人に話をして、そういうふうに実際に言われたことがあります。「営業ですか?」みたいなふうに言われたこともあります。

 当然、それは私の話し方、内容などに問題があったこともあると思いますが、初めて話を受ける人には、よく似たものにうつってしまうのかもしれません。

 自分が労働学校に受講して、“良かった”という素直な思いで、勇気を出して友人に話したその仲間の行動は、すごいことだと率直に思います。

 だからこそ、私はその仲間に、こう言いました。

 「宗教の勧誘や、営業活動のようなことと、労働学校の準備は似ている面はあるかもしれない。けど決定的に違うことがあると、私は思うよ。それは、宗教なら“信じる”ということが中心になっている。営業活動なら“もうける”ということが目的。でも、私たちの活動は、誰もが認める“事実”から出発することを重きにおいている、つまりそれは“科学”だということ。そこが、決定的に違うことだと思うよ。もし、今後、その友人に話せるなら、そう伝えてほしいな」と。

 (まだまだ言いかけましたが)仲間との会話が電話だったので、これくらいしかいえませんでした。みなさんならこういう対話の時、どういうふうに話をしていますか。またよかったら教えて下さい。

 (話は戻りますが)大学の親しい友人に話したその仲間の行動に、本当、励まされます。労働学校の準備活動って、そういう一人ひとりの動きが、次の労働学校を準備するんです。

 労働学校に来て学んだ仲間が、自分のまわりの仲間へ、実際に話をするっていうのは、“学んだことを広げることの実践”であり、(京都中央労働学校という)“多くの青年に学ぶ場、機会を提供する活動への参加、実践”であるという重要な意義があります。

 前者だけなら、労働学校がなくてもできることかもしれませんが、後者の実践は、自分自身も誰かに誘ってもらい、そして先輩たちが準備してくれた労働学校で、そこに参加する仲間たちと学び交流することができ、そして、それを(先輩たちがしてくれたように)自分たち未来の仲間へつなぐ活動なんだと思います。

 そして、“新しい仲間”へ話す中で、138期で学んだことがより深まっていくという実感も感じます。

 ぜひ、実際に受講を決意された経験だけでなく、いろんな“新しい仲間”との対話の経験を教えて下さい。(吉)11/06/01